井田真木子 もうひとつの青春 同性愛者たち 目 次  プロローグ  第一章 ベルリン・一九九三年六月  第二章 憂鬱のサンフランシスコ  第三章 彼らの以前、彼らの以後  第四章 交錯  第五章 僕は神が降臨するのを待っていた  第六章 クリスマスからクリスマスへ  第七章 僕はまだ生きている  第八章 そしてベルリンにいた  第九章 それからの彼ら  エピローグ [#改ページ] 非凡で多難な人生を選ばざるをえなかった、 平凡な七人の同性愛者と、 その多くの友人にこの本を捧げます。 〔主な人物紹介〕──単行本出版時(1994年1月) 新美 広 にいみ・ひろし  28歳(1965年生)東京都生まれ。 [#この行1字下げ]都立高校卒業。7年前10代〜20代の同性愛者で構成する活動団体「動くゲイとレズビアンの会(アカー)」を創立。現在にいたる。 神田政典 かんだ・まさのり  28歳(1965年生)千葉県生まれ。 [#この行1字下げ]米国へ高校留学後、私立大学卒業。私立高校教諭を経て、現在英語学校講師と翻訳業を兼ねる。東京都府中青年の家利用拒否訴訟の原告の一人。 永易至文 ながやす・ゆきふみ  27歳(1966年生)愛媛県生まれ。 [#この行1字下げ]国立大学卒業。現在、教育関係の出版社に勤務。 風間 孝 かざま・たかし  26歳(1967年生)群馬県生まれ。 [#この行1字下げ]私立大学院卒業。現在は予備校講師。同青年の家利用拒否訴訟原告の代表。 大石敏寛 おおいし・としひろ  25歳(1968年生)千葉県生まれ。 [#この行1字下げ]専門学校卒業。コンピューター会社を経て、現在、第10回国際エイズ会議組織委員会内PWA(エイズ患者・感染者)小委員会スポークス・パーソン。 永田雅司 ながた・まさし  25歳(1968年生)神奈川県生まれ。 [#この行1字下げ]専門学校卒業。理容師業を経て、現在書店勤務。同青年の家利用拒否訴訟原告の一人。アカー代表。 古野 直 ふるの・ただし  25歳(1968年生)東京都生まれ。 [#この行1字下げ]私立大学中退。現在、編集プロダクション勤務。 [#改ページ]   プロローグ  一九九六年晩秋、とくに寒い日だった。地下鉄駅の出口を登ったところからアーケードが始まる。その中にも寒風が渦巻いていた。  久しぶりですね、ここにくるのは。道に迷いませんでしたか。目的のアパートに着くと彼は尋ねた。暖房がきいていないわけでもないのに、部屋の中でもジャケットをはおったまま襟を両手できつく握り締めている。  まさかと笑うと、でも、事務所の様子は随分かわったでしょうと、彼─新美広《にいみひろし》─は言う。あらためて見渡すと、2DKの部屋は随分整然とした眺めになっている。五年前、初めてここを訪ねたときには、多種多様な資料があちこちに積まれているだけだったが、今はそれを数十個のファイリング・ボックスがきれいにおさめている。  ファイリング・ボックスとOA機器に前方と側面を固められるようにして、テーブルがおかれ、そのテーブルの上にも絨緞敷きの床にもゴミひとつ落ちてないのは、新美の性格によるところが大きいだろう。この人には剛直な面と同じくらい、几帳面なところがある。  とはいえ、2DKの一部屋は、すでに事務所としては手狭だ。実際、玄関をあけたとき私はあやうくコピー機の用紙を受ける羽根の部分に体当たりしかけた。コピー機は半分、玄関の沓《くつ》脱ぎに身を乗り出す恰好で、リノリウム貼りのキッチンにおさめられていたのである。  あと、貼り紙が多くなった。�ファイルはもとあったところにもどせ。そのあたりに置きっぱなしにすんじゃねえ�、�使いおわるまでやたらに次のコピー用紙をあけるんじゃねえ�、トイレには、�ここはみんなが使う場所だ�と貼り紙があり、その余白に便器の外に飛散させることを禁じる旨の書き込みがあった。  この事務所が、新美広という男の人格そのものである。むろん、無数の人々が出入りするのだから公共の場所だということは事実だが、それを覆うに余りあるような、貼り紙の個性だ。その何枚かを眺めて苦笑していると、いろんな人が出入りするから貼り紙ばっかりふえちゃって、と彼が誰にともなく言った。  いくつになりました?  ふりむいて聞いた。 「三一歳ですね」  彼が三〇歳を越えたというのには特別の感慨がある。二〇代の頃、彼はよく�死ぬ�ことを口にした。おもにHIV・エイズに対する社会的無関心について憤るときである。自分が同性愛者で性行為感染で死ぬまでを人前にさらせば、あるいは無数の同性愛者がエイズを発症させて亡くなれば、世の中はようやく重い腰をあげるんだろうか。そんなふうに憤るときの新美は自暴自棄ぎみとさえ言えた。  もちろん、当時も日本のHIV感染者の圧倒的多数は非加熱製剤によって感染した血友病患者である。しかし、新美が二〇代だった頃、政府はその事実さえ認めず、まして、政府認定第一号患者が同性愛者、第二号が血友病患者、三号が主に外国人を顧客としていた売春業の女性だという意味を把握する人は少なかった。短く言えば、認定一号から三号は非加熱製剤の問題隠しに最適であり、同時に日本にとって�いてほしくない�人々である。また、その人たちがどれほど抗議しようと、その声を無視できると日本が確信している人々でもある。 「ある一定数が死なないと、結局だめだってことだよな。でも、社会の対応が変わるときには、死んだ人たちは、それを見ることさえできないんだから、皮肉だよ」  粗削りというより、いっそ乱暴とも言いうる新美の発言に共感できたのは、一方で、彼がつねに�死�によるセンセーショナリズムの一過性を知り抜いていたからだ。 「なにかがおこったからといって、その影響がずっと続く保証なんかないんだからね。一発、お祭り騒ぎがあって、次の日からはまた元通り。きっとそういうもんですよ」  そう言い続けながら、彼は感染せず、若さの峠をこして三一歳になった。そして彼が作った組織は満一〇歳を数えた。  このような時代に、市民運動などやっていくのは難しいことですか。私はその日、室内にいながら寒そうにしている新美に、このように聞いた。  満一〇歳になったのは、彼が二一歳のときにわずか五人で作り上げた、男女の同性愛者からなる市民運動団体『動くゲイとレズビアンの会(通称アカー)』である。彼も一〇歳年をとり、組織も同じだけ年齢を加えた。加齢という問題は、個人においても組織においても微妙なものだろう。それだけ歴史を重ねたということでもあるが、それだけ容易に抜けない疲れが執念深くこびりつくということでもある。  だから、難しいことですか、と聞いた。  新美広は、わずかな逡巡を含んで目を彷徨《さまよ》わせた。二六歳だった五年前、彼はそのような逡巡は見せなかった。取材を始めた当初、何かを問われたとき、新美は曖昧さのかけらもなく即答した。  彼は答えるとき、椅子の上で上半身を反らせ、腕を高々と組んだものだ。  骨の太い、黙っていても並々ならぬ膂力《りよりよく》を感じさせる男である。これはかなり威圧的だった。  さらに、彼は独特の表情を作った。目を細めて眉を寄せ、口の端を極端に下げて下唇を突き出し、顎を鎖骨につくまで引きつけるのである。突き出され、大きくめくれあがった下唇は、本来、美貌と童顔がいりまじった顔立ちを、一瞬にして凶相にかえた。  私はこの人物と五年間にわたり、五、六回の旅をともにした。  もともと、あまり言葉で自らを表現する人物ではない。また、感情のアウト・プットがうまいとも言えぬ。その上に長旅の疲れがたまると彼は普段の言葉不足を補うかのように、感情の大爆発をおこした。物言いは、断定そのものになった。  これまで、一度もその感情的爆発を押し止めようという気にはならなかったのはわれながら不思議である。  あえて自己分析を行なうと、まず一般的に取材は、被取材者にとってうっとうしいものだろうという考えがあったためだろう。�あなたは誰だ、何をしようとしている�と横合いからやたらに尋ね続けられるのは、誰にとっても疎ましい。  だが、より本質的な理由として、私はつねに自分のほうが新美に無理を強いているという思いをもっていたのである。  私は同性愛とは何か、異性愛とは何か、性別とは何か、性的指向とは何か、同性愛者の彼と、異性愛者の私を分かつものと、両者が共有できるものはいったい何かと、彼に問い続けていた。いわば自分のポケットには何も持ちあわせずに、あなたのポケットの中身を見せてくれと|だだ《ヽヽ》をこねていたのだ。性的指向について頭だけでの理解ではなく、いわば腑に落ちる知識の一片さえ、ヒントになる直観ひとつさえ、私はそのとき持ってはいなかった。  だが、彼がそんな問いに答えられるはずもない。第一、同性愛者であるからといって、同性愛とは何かに答えられるはずがあろうか。私は異性愛者だが、それが何ものかと問われて答えようがない。もちろん、性別が男であるからといって男とは何かを確信をもって語れる人がいたら、その人は洞察に長《た》けているというより、むしろ無根拠な自信家の可能性が高いし、女もまた同じだ。  そもそも、異性へ性的に魅かれるということの実感をいったいどれほどの人が把握し、それを同性へ性的に魅かれる人々との関係においてつかもうとしてきただろうか。  そして、そのような努力をしてこなかった一人としては、性と性的指向のすべてについて会う人ごとに問いかけ、出あう風景、現象、事件のすべてにむかいあって自問自答を繰り返さずにはいられなかった。そのような取材者に対して、新美は十分な礼儀を保っていた。  あくまでも一般的構造においてという保留条件つきではあるが、異性愛者は多数派であるという事実からだけではなく、ほとんど無根拠に同性愛者を侮蔑の対象にしてきた。  だから、新美は私に対して一方的に攻撃することもできたのだ。だが、彼は一度もその力を行使したためしがなかったのである。  ひとつには、彼が�多数派は少数派をつねに抑圧している�という図式でものを考えるタイプではなかったからだと思う。図式的な思考は、新美がもっとも苦手とするところだった。  だが、新美が節度を保った被取材者であった最大の理由は、彼が野卑ではなかったからという点につきるだろう。彼は激情の人ではあったが、いくら�抑圧者�であるとはいえ攻撃をしかけてもいない他人のうしろに回って、不意打ちに頭を殴るような野卑な真似はしない人間だった。  そして、この本は、性格、育ち方、同性愛への考えこそ万華鏡のように異なるが、�野卑ではない�という点において共通する七人の同性愛者の男性が、どのようにして彼らの青春を迎え、そして今、見送りつつあるかについて書いたものである。  私たちの社会構造が多数派の異性愛者が生きやすいようにできあがっているのは事実だ。ただし、それは一般的傾向であって、絶対的なものではない。  性はたしかに人間の本性だ。しかし、社会における強者と弱者を決めるものは、性的指向のみではない。ある人は同性愛者で攻撃的な性格で経済的な力を持っているかもしれない。別のある人は異性愛者だが、人に突き飛ばされても文句もいえない性格で世渡りがおそろしく下手かもしれない。  この両者が出会えば、おそらく前者が圧倒的優位に立つだろう。個体差は社会的優劣を決める上で大きな要素である。新美も同じ考えだった。彼は強烈な同性愛擁護者ではあるが、同時に個々として人を見る視線を崩さなかったのである。彼との取材関係が今まで続いたのは、この一点に負うところが大きい。  とはいえ、新美はつきあってすぐさま滑らかな交際を始められる人物ではない。口数は少ないし、当初は組織の前面に出ることを意識的に押さえていた。最前書いたように、突如としてケンカ腰になることもある。  しかし、組織を始めて一〇年、知り合って五年八カ月の歳月は、新美の中でなにものかを変えたようである。九六年晩秋の一刻、彼は人知れず喉元で詰めていた息を吐いた。  そして、さきほどの、このような組織をやっていくのは難しいかという私の質問にこう答えた。 「難しいですね」  よほど難しい? 「そうです」  このように対話しているうち、部屋にもう一人の男性が入ってきた。  きわめて陽気で元気そうなその人物は、私を見るなり吹き出した。今日の私はやたらに楽しそうだと言った。そうくりかえし言っているうちに本格的に腹をかかえて笑い出した。  まったく、この人はいつもこんなふうだと憮然とした。するとそれがきっかけのように頭痛が始まった。風邪だろうか?  目の前の新美も、暖かい室内でジャケットの襟をあわせているのをみると、体調万全とは思えなかった。事実、たえずこめかみを押さえ続け、ときに目を固く閉じ、疲労の色は隠しきれない。  数分後、まことに元気そうな笑い声とともに、その人物は部屋を去っていき、こめかみを押さえた新美と私があとに残された。耳鳴りが微かにしはじめた。悪い予感がする。  勘はあたった。  案の定、私たちは数週間の時間差で長くて烈しい風邪にみまわれたのである。  だが、私たちは、その日、実に陽気に部屋を訪れた人物よりはましだったかもしれない。  いや、そう考えるのは不遜だろう。彼は自分のことを不運だなどとは思っていないからだ。しかし社会的に見れば、やはり私たちは彼よりましだというよりほかない。私たちを襲ったのはインフルエンザウィルスだったが、その人物─大石|敏寛《としひろ》─はヒト免疫不全ウィルス=HIVの感染者だったからだ。  インフルエンザで亡くなる人もいる。しかし、インフルエンザに罹ったからといって治療を拒まれることはまずないだろう。知人がインフルエンザを理由に離れていくこともないだろう。ましてや家族から見放されることもないだろう。  しかしHIVではことごとくがそうはいかない。前述したように、日本では今のところ非加熱血液製剤による感染者が圧倒的で、これは省庁と製薬会社の癒着による、いわば国家の犯罪とでもいうべきものだが、それでさえ実名で名乗り出れば、�お気の毒に�と表面上は同情されつつも、社会的な忌避は免れ得ない。  だが、今後、増加することが自明なのは、異性間の性交渉による感染で、これは�お気の毒�でさえないので、忌避するほうも気が楽である。さらに同性間の性交渉となれば、忌避する側はむしろ積極的に感染者を排除できるだろう。性交渉で感染したのだから、�身から出た錆《さび》�であるだけでなく、同性どうしで性交するなどという�気持ちの悪い�ことをしたのだから死病にとりつかれて当然である。  このような状況下で、HIV・エイズについての将来展望はけっして明るくない。いつか完璧な予防薬と治療薬が開発される可能性はあるが、二〇世紀のうちにそれが感染者に応用されることはないと推測されている。致死率は高い。一年間以内に感染した人の約六%が発症し、翌年には同じく六%、一六〜七年のうちにほぼ全員が発症する。もちろんその間にあらたな感染者が発生する。発症後、患者は、長くて数年のうちにまず例外なく死を迎える。  私はこのウィルスに性交渉によって感染した大石敏寛と約四年にわたってつきあった。  忌避感も恐怖感もなかったが、最初のうちは、感情的にかなりジタバタした。その次第は本文に譲るが、ありていに言えば目の前で知人が亡くなることに従容としていられるほどの覚悟がなかったからである。  彼のほうも多少動転したところもあったようだが、元来、他人はもとより自分のことまで、どこか突き放して見る性質の男である。いつもひとこと冗談が多いのも、おそらくこの性格に起因するものだ。彼の饒舌な戯れ口は、聞きようによっては、他者が自分の領域に入り込むことを拒否する警戒音と言えなくもない。いずれにしても、彼の冗談は多分にアイロニカルなのだ。  そして、いくら彼に揶揄されたとしても本格的に腹が立たないのは、彼が彼自身もアイロニーの対象にしていると感じられるからである。大石にはどこか、大石敏寛を演じているようなところがあった。演じている自分を覚めて笑っているようなところがあった。  その性格に影響されたわけでもないが、私の精神的悪あがきもいつしか緩やかになった。エイズは、とくにその末期、患者の人格を急速に、正確に破壊していく点において、みる者を畏怖させるが、発症にいたるまでの過程は人それぞれ異なるし、いつか訪れる死という意味においては、私たちもまた同じである。誰もが必ず死ぬのだ。エイズに感染した人だけが亡くなるのではない。  そのような心理的階段を時間をかけて登ることによって、次第に大石は、感染者・大石敏寛ではなく、また同性愛者・大石敏寛でもなく、一人の知り合いでしかなくなった。  それはHIV・エイズが他人事になったためにおこった心境の変化ではない。むしろ逆である。  私は大石と行動を共にすることによって、多数の感染者、患者と出会うことになった。アメリカの大都市部に住む壮年男子の約四〇%は感染者か患者である。日本での感染者・患者数の公式発表は約一万一千人だが、実際には少なくとも五万人の感染者・患者がいるとされ着実にその数を増やしつつある。世界的に見れば二〇世紀末の感染者・患者は四〇〇〇万人に及ぶと推定される。  ここまで数が増えれば、当然、人口にも変動を及ぼすだろう。ヒトの未来は測りがたい。HIV・エイズを通して、私は改めてそう悟った。  そして、私は非感染者だが、ヒトの一人として、感染者とともにエイズというとてつもない規模の感染症がまきおこす運命からは逃れ得ない。エイズによって変容する世界像から、誰一人、超然としていることはできないのだ。エイズは人類の内なる疾病、�私�の病なのである。  そのことに思い到ったとき、私の精神的悪あがきは最終的に止まった。何をしても無駄だと諦念したわけではない。HIVは大石のものであると同時に、私のものでもある。同性愛者の男性の彼の問題は、異性愛者の女性の私の問題でもある。社会の変動が怒濤のように押し寄せてきたとき、私たちはともに見知らぬ岸辺へ流されていく小石なのだ。  同性愛者との出会いは、私にそのような変化をもたらした。  変化はほかにもさまざまなところでおこった。  新美や大石やその他のアカーのメンバーを取材しているうちに、メディアを�ゲイブーム�なるものが駆け抜けていった。おもに男性同性愛者をTVドラマの、いわば薬味に使ったところから端を発したもので、ゲイであることは、そのとき、先端的であることと同義語だった。しかし、極論を承知でいえば、それは男性同性愛者がHIV感染したとき、�気持ちの悪い�セックスをしたツケがまわっただけと断じる態度と裏腹ではないかと思う。  男性同性愛者であること、というより、同性でセックスをすることは非日常的で、よくも悪くもキッチュ(悪趣味)だが刺激的だと、TV制作現場においても多数派を占めた異性愛者は、そう判断したのだ。  少し考えてみれば、異性愛者にとって異性愛による性行為が本質のひとつ、日常のひとつ、人生の一側面であるなら、同性愛者にとっての性行為も同じだとわかりそうなものだが、流行物の生産現場において、このようなドラマに欠ける�日常�や�本質�は、数分で企画会議室の隅に置かれたゴミ箱行きになるのが関の山である。それは仕方がない。流行とはどのようなものであれキッチュなのだ。  しかしゲイブームがメディアでふりまいた同性愛のイメージにかなり錯誤があったことは確かだ。最大の問題は、男性同性愛者の性行為を、男と女が行なうセックスの転写図にしたところだ。  だから�ゲイブーム�におけるセックスは、異性愛者のセックスをそのまま同性に置き換えたものになりがちだったのではなかろうか。彼らは�好きだ�と言って目をみつめあい、キスをし、腟のかわりに肛門に性器を押し込んだり、フェラチオをしたりする。  ドラマを制作する彼らにとって、男性器は必ず何かに挿入されなければならないものなのだ。その考えの根本をさぐれば、フィスト・ファック─拳を肛門に挿入する性行為─や、極端な場合には頭部を挿入するスカル・ファックが同性愛行為の象徴だという幻想に突き当たる。  たしかに筋肉弛緩剤を用いて、より巨大なものを矮小な器官へ挿入するのを好む人がいるにはちがいないが、少し考えてみてほしい。一般的、物理的にそのようなことが誰でも可能か。  たとえば、異性愛者の私たちにそれは可能か? 稀に可能な人はいるだろうが、きわめて特異な例だろう。異性愛者の身体と同性愛者の身体は同じヒトの身体である。  一般的な定義に従っていえば、フィスト・ファックは、正確には性器以外(女性なら女性器以外、男性なら男性器以外)を用いた性行為をさす。たとえばある人が手を使って双方の性的快感を誘えば、その人の性的指向がどうあれ、それはフィスト・ファックなのである。  また、男性同士の性行為の表現が後背位のみに限定されがちなのも、考えてみればおかしな話だと思う。肛門性交=後背位という発想だろうが、性行為とはそれほど単純なものだろうか。  私たちはセックスをするとき相手を見たいと強烈に欲情するのと等分に、相手の顔は見たくない、自分の顔も見られたくない、このセックスに人間の顔はいらないと頑なに内閉する。相手との距離が、ヒトとしては危機感を感じるほどせばめられるために生じる矛盾した感情だろう。そして、この矛盾はセックスという行為の基本であり、ここにもまた、同性愛、異性愛の性的指向の差はあるまい。  私たちはときに目を固く瞑《つむ》って性交する相手を視野と意識から遠ざけ、しかし、次の瞬間、目をひらき無理にでも身体を捻り、自分の身体と繋がった他者の身体を、その身体を持つその人の顔を近々とみつめる。この相克する感情の岸のあわいをさざめくように打ち返すものが性行為というものではなかろうか。  皮肉は、性衝動は本来相手の気持ちなどおかまいなく自発的に湧き起こるものなのに、性行為はあきらかに双方向受発信の行ないだというところにある。  だが、自発的な性衝動と双方向受発信の性行為の間に横たわる矛盾の川を渡ることが、性的指向のいかんにかかわらず、セックスという交渉=コミュニケーションだとすれば、それは�相手の顔�を見る行為にほかならない。ちなみに、性衝動のみを優先させようとするなら強姦しか方策はなく、これが相手に忌み嫌われることは言うまでもないだろう。  要するに、物理的には相手の顔が見えにくい後背位に同性愛の男性の性行為を限定するのは、同性愛が不毛で意味のない行為だということを言わんがためなのではなかろうか。  そのような風潮にのり、異性間性交渉をそのまま同性に置き換えたものが、�ゲイブーム�なら、あまりにも錯誤が多く、なにより単純で退屈すぎるから短命だろうと直観したが、それは当たった。ゲイブームはすみやかに去った。  しかし、一方でエイズによって浮上した同性愛者の問題は、九〇年代に入って生物としてのヒトの研究にビビッドな刺激をもたらした。  たとえば、免疫学者の多田富雄氏は、最近著『生命の意味論』(新潮社刊)で、一九九一年八月刊のアメリカの科学雑誌『サイエンス』誌に掲載された、カリフォルニア州ソーク研究所のシモン・ルヴェイ氏の研究発表論文を引きながら、性別《ジエンダー》と|性 的 指 向《セクシユアルオリエンテーシヨン》がどのようにして作られるのかについて論を展開している。  ルヴェイ氏は、エイズ死した一九人の男性同性愛者と、エイズ死と他の死因を含む一六人の男性異性愛者、六人の(同性愛者か異性愛者かの別は明らかにされていない)女性の脳の視床下部を比較対照した。視床下部は自律神経系、物質代謝系の調節のほかに、情動や本能の中枢として働く。彼は四つの神経核を持つ視床下部内側核に注目し、その四つの大きさを計測した。すると、IHN1〜4と命名された四つの神経核のうち、IHN3の大きさと神経細胞の形状に、女性および男性同性愛者と、男性異性愛者の間に大きな差が見られた。大きさにして、前者は後者の半分以下、神経核に含まれる神経細胞の数も大きさも、前者は後者より少なく小さいことがわかったのである。  性的指向は、後天的心理環境のみによって決まるものでもなく、ましてや単なる趣味嗜好ではない。それは、生まれ落ちるときすでに後天的には不変な要素の多くを生物学的に組みこまれたものだ。要するに、同性愛者は�なる�ものではなく、�ある�ものなのだ。  このようなルヴェイ氏の考え方は、生物学の一仮説にすぎないが、多田氏はこの論文を引きながら、胎児はもともと女性として生まれたのち、ある特定時期に多量の男性ホルモンの働きかけによって男性になることを指摘する。また、男性を女性から区別して、男性たらしめているY遺伝子の数の少なさや遺伝子配置の粗さをしめして、男性が男性として生まれることの難しさを語り、同性愛は生物学的多型性のひとつの形態だと考えるべきだと述べる。そして同性愛を異常性欲として差別したり道徳的に非難したりするのはまったく根拠のないことだと断じている。  ルヴェイ氏の仮説以前にも、欧米においては同性愛についての検証や仮説はあったものの、これまでの日本において、科学者が同性愛者を性的逸脱を行なっている、いわばヒトの形をした�モルモット�としてではなく、多田氏のように、研究者と同じヒトの問題として捉えた例を、私は寡聞にして知らない。  さらに多田氏は性そのものは、けっして自明のものではないと論を進める。ことに男性とはきわめて回りくどい操作を行なわなくては実現できない状態である。具体的に言えば、X遺伝子に比べてひどく貧弱なY遺伝子が、ある時点で、ただひとつのTdfという遺伝子を働かせることによって、何もなければすべて女性として生まれてしまう体を、無理やり軌道修正させ、脳の一部を加工することによって男性という生き物はできあがるのだ。 「私には、女は『存在』だが、男は『現象』に過ぎないように思われる」  多田氏は著書の中でこう語っている。  そのため、男女の間にはさまざまな曖昧な性が存在しているというのに、従来の性に対する絶対主義的な概念は、同性愛者も含めた曖昧な性を持つ人々に対してひどい誤解を行なってきた。それは間違いである。いまや、曖昧な性とその性的行動様式を、自然の性の営みの多様性の中に位置づけることによって人間は生物学的により豊かな種となるのではないか。多田氏はこう結論する。  多田氏の研究は免疫学だから、HIV・エイズがその研究の射程に入ることは考えられないことではないが、氏を、従来の科学者と分ける点は、ヒト免疫不全ウィルスの問題から発してヒトの性的指向や性別の多型性に言及し、あくまでも生物学的上の事実としてではあるが、同性愛者への偏見は誤りであるだけではなく、同性愛も含めた曖昧な性をヒトの自然な性に含めることによってヒトという種は豊饒に広がるという積極的意味付与を行なっているところだ。  もちろんルヴェイ氏の仮説も、またそれを引いた多田氏の仮説も、仮説の宿命として完璧ではない。一例をあげれば、両氏の論は、男性の同性愛者と女性の異性愛者を考える上では簡にして要を得たものだと思うが、女性の同性愛者がなぜ�ある�のかについては、やや説得力が欠けるのではあるまいか。 「女は『存在』だが、男は『現象』に過ぎないように思われる」  という多田氏の表現は性の分化を考える上では非常に納得させられるものだが、では、女性の同性愛者はどうなるのか。  さらに一人の異性愛者の女性として我が身をふりかえると自分がそれほど盤石の�存在�だろうかという疑問が湧く。私自身は思春期以来、完全に性的対象は男性だけで、女性にはまったく性的指向がむかないのだが、私の周囲だけを見ても、�女性でもよい�という人や、�女性でなくてはだめだ�という女性は数多くいる。女性であることは、本当に�存在�そのものなのだろうか。生物学的にはその通りであっても、別の側面からみると、女性もまた�現象�にすぎない面を持つのではあるまいか。  そのような疑問は湧くものの、私が新美広と初めて出会った頃、ヒトという種全体を考える上で、積極的に同性愛者を支持する論が、日本で出てこようとは想像もしなかった。  そして、多田氏は免疫学者として、ヒトという種が豊饒であるためには、曖昧な性と性行動様式を自然の性の営みの中に包含しなくてはならないと論じるわけだが、私は新美や大石を含む多くの男女の同性愛者に出会うことによって、やはり同じ結論に達した。私の場合は論者ではなく取材者なので、取材という現実的な行為を通して獲得した実感でしかないのだが、私は個別の誰かではなく、全般的に同性愛者がいない世界にはとうてい住めないと実感するようになったのである。  性は日常の中にあって、知らず知らず、文化風土を培うものだ。社会の鋳型を形成するものでもある。前述したように、私は堅苦しいまでの異性愛者だが、世の中が私のような人間ばかりであれば、どれほど社会は窒息観に満ちたものになるだろう。  性は単純に男女の二分別となり、そこには対決か、和合という名目のもとでの一方の屈服かという二者択一しかなくなる。その結果、文化も風土もきわめて平板なものとなるはずだ。当座はよいかもしれない。一見、平穏無事で均質な社会ができるからだ。しかし、均質で無風という状態は、所詮、生き物であるヒトがよく耐えうるものではない。生き物とは本来、いろいろと変化変容しつつ存続するダイナミックなものである。それを無理に、均質で無風、予定調和のみをよしとする社会に嵌め込んで不動としたなら、はたして生き物は生きていけるか。  当然、無理だろう。  偶発的変化があってこそ、人間は今を生き抜ける。生まれ落ちたときから、今後の人生が確固として決まっていたら、すでに生きる意味はなくなる。そこでは、生きることは死ぬことと直線的につながってしまうのだ。  だが、すべての人がそう思うわけではないらしい。世の中が、かたくなに異性愛のみを基準として貫き通すことを望む人々もいる。たとえば、アメリカにおいては、少数派に�政治的平等(ポリティカル・コレクトネス)�を行ないすぎた結果、多数派─白人の男性でプロテスタントにして異性愛者─による反発がこの数年著しいと聞く。また、日本では、�ゲイブーム�が去ったあと、拍子抜けしたように性的指向への言及は少なくなった。  これが現状だ。しかし、これからどうなるかは誰にもわからない。  それが人生だ。  この五年八カ月間の収穫を一言にまとめれば、こうなる。  すべては一九九一年に始まった。  その年の六月、私は初めて新美広とサンフランシスコに旅した。九二年のクリスマスシーズンは、大石敏寛と一緒にサンフランシスコにいた。  彼らと行動をともにすることによって、私は多数の男女の同性愛者に出会った。私は彼らと一緒にいるとき、すでに多数派ではなかった。私のほうが、異性愛者という�少数派�にして異物だった。そんな�変わった�人間が、より率直に言えば�変態《クイアー》�が、なぜ、なんのためにここにいるんだと言われて、私はよく返答に困ったものだ。どうして、と問われて答えはなく、何が目的かと詰問されても返す言葉がない。なぜ、異性愛者などという�変態�なのだと聞かれるにいたっては、棒立ちになるのみだった。  そして九三年六月。新美も大石も私も、また違う外国にいた。東西の壁が崩れてまもない統一ドイツという外国の、ある都市だ。  アメリカからヨーロッパに場所を移してもやはり、なぜ、なんのためにそこにいるのかわからなかった。  わかっていたことは、わずかだ。  そこがベルリンという街であること。そして、HIV・エイズと性行為感染についての国際会議場であること。  そして、一九九一年初春、新美や大石が属するアカーが、東京都を相手どって、東京地方裁判所に性的指向をめぐってひきおこした小さな事件の損害賠償を求める裁判の提訴なしには、私はそのときベルリンにいなかっただろうということ。  そういえば、もうひとつわかっていたことがあった。自分が予期しない事態にまきこまれているということだ。  ともあれ、九三年のベルリンに、この本のページを開いた人たちを招待しよう。  私はそのとき何もわからなかった。だが、目の前で何がおこったかは見えた。だから報告できる。  ものごとは多分、そのようにして引き起こされる。そして、覚悟のない人間をも否応なく引きずりこむ。  一九九三年六月一一日。  ベルリン郊外の国際会議場はそういう場所だった。要するにものごとが引き起こされるにふさわしい場だった。 [#改ページ]   第一章 ベルリン・一九九三年六月  一九九三年六月一一日。  ベルリン市、旧西ベルリン市街のはずれに威容を誇る国際会議場のホールは野次で騒然としていた。その日からさかのぼること六日間、会議場では九〇年代世界の最大テーマのひとつについて議論がたたかわされてきたのだ。エイズである。世界一三〇カ国以上、のべ二万人の参加者を集めた国際エイズ会議は、このベルリンで九回目を数え、回を重ねるごとに騒然とした熱気を増している。  とくに一九九二年、アムステルダムで行なわれた会議以来、熱気に拍車がかかった。直接原因はエイズ患者への支援組織や予防啓蒙活動を行なう市民団体など、医学専門家以外の人々で構成される非政府組織(ノン・ガヴァメンタル・オーガニゼイション、略称NGO)が会議に参入しはじめたからだ。  NGOはそれまで学術分野にかぎって議論がかわされてきたエイズ問題を、市井のレベルにひきこんだ。結果、エイズはより平易で生活感がにじむ言葉で語られる話題となったのである。それは専門家が学術用語を駆使して研究発表を行なう従来の会議とは、自ずから異なる空気を醸成した。  NGOの大量参加以降、すなわちアムステルダムでの会議以後の変化は大きくふたつにしぼられる。ひとつは、エイズを医学の専門領域に限定せず、政治、経済を含めた社会全体の問題としてとらえなおす姿勢である。NGOは政府のエイズ予防予算や、薬品会社の新薬開発における企業姿勢について活発に抗議や支援の活動をくりひろげるようになった。  もうひとつの変化は、従来、リスキーグループと呼ばれた人々が顕在化したことである。彼らはエイズを蔓延させる�危険人物�として忌避されてきた。たとえば麻薬使用者、売春婦(夫)、また、アメリカでエイズ蔓延の発端となった同性愛者たちである。彼らを一般社会から隔離し蔓延を防ごうという施策は、一度ならずさまざまな国で議論にのぼった。  だが、NGOの台頭は、隔離に対して彼らの顕在を主張した。感染の危険度が高い人々に対する正しい態度とは、彼らを封じ込めることではなく、むしろ社会の表面に浮上させ、彼らの問題を社会全体の課題として共有することである。顕在論の骨子はこのようなものだ。  顕在論は、危険人物を汚濁として隔離し�清浄�な市民生活を守ろうという態度はおよそ無意味だとした。なぜなら、人と情報の流通が高度に発達した現代において、完全に無垢清浄な社会など空想の産物にすぎないからだ。エイズが二〇世紀最大の感染症であるなら、リスキーグループと、そうでない人々との間に境界線をひくことはできない。彼我はひとつながりとなって現代社会を構成しているのである。  この考えのもとに、国際エイズ会議でのリスキーグループの顕在化は進んだ。売春婦(夫)はセックスの専門家として、予防啓蒙への発言権を持つようになり、麻薬使用者は麻薬針による感染防止指導のエキスパートとしての位置づけを得るようになった。  だが、なんといっても大がかりに顕在化したのは、同性愛者たちだ。  彼らはこう主張した。同性愛者がエイズ蔓延の中心となったのは、すなわち、彼らが蔑視と差別のもと、社会のもっとも薄暗い片隅に追いやられ、十全に生きる可能性を封殺されてきたからだ。つまり、社会は同性愛者に対して、実質上、ゆるやかな隔離を行なってきたのである。  そしてエイズは、隔離下の抑圧を培養基として生まれ、蔓延し、多くの同性愛者の命を奪った。だが、社会はなお、同性愛者の棲む暗がりでどのような惨劇がおころうと、自分たちの�清浄�な社会には関係ないと無関心だった。同性愛者など何人死のうが、大勢には影響がない。むしろ社会の浄化が進むとさえ考えて事態を放置した。ために、エイズは社会全体を巻き込む災厄に転じたのである。  彼らは次のようにも主張した。  エイズを克服する社会とは、すなわち、同性愛者が公然と社会生活を送ることができる社会のことだ。同性愛者の顕在化は、エイズ克服の指標にほかならない。  八〇年代後半から、国際エイズ会議での同性愛者たちの発言力は増しはじめ、九〇年代にいたって否みがたい勢力となった。NGOの多くは同性愛者によって構成され、活発な活動を展開している。同性愛者たちはまちがいなく国際エイズ会議の空気を変えた最大要因だったのである。  しかし、このような空気は、会議参加者のすべてにとって馴染みがあるものではなかった。  売春婦が学会席上で、 「私たちはエイズ予防において、百戦錬磨のエキスパートなのです」  と公言する事態はたしかに衝撃的ではあるだろう。ある日本人医学者は、背広を着た医者や行政担当者と、異性装をした同性愛者、車椅子に乗ったエイズ患者、プラカードを抱えた市民運動家が渾然と往来する会場のありさまを見たとき、思わずこう漏らしたという。 「これは学会じゃない」  そして、この医学者と同様の、会議に対する違和感をそこはかとなく漂わせた人物が、六月一一日、国際会議場の騒然としたホールの壇上に立ち尽くしていた。  日本での国際エイズ会議組織委員会委員会長・塩川優一博士である。  彼はその日、なぜそこにいたのか。  日本がベルリンについで、翌年、第一〇回目の国際エイズ会議の開催国となる予定だからである。それは、アジア地域で開かれる初めての会議である。同時に、リスキーグループの顕在化など、欧米を中心に展開されてきたエイズの認識が、巨大な異文化として、極東の国・日本に乗り込む会議とも表現できた。  それが、大きな衝突と混乱を招く可能性は高い。そして、塩川博士が国際会議場壇上で経験している事態は、将来予想される混乱の手始めであるとも言いえた。  ホール正面の演壇に立った塩川博士は、落ち着かなげに眼鏡をはずした。その眼鏡を口元にあて聴衆席を二、三回うかがいみる。  一階聴衆席では、数十人の男女が立ち上がり怒号していた。二階席には手摺から身を乗り出して叫ぶ一群がいる。彼らは頭上にプラカードをかかげている。日本の入国管理法を改正せよ。そう書かれたプラカードだ。六月一一日は、その月の六日から行なわれていた国際エイズ会議の最終日。ホールでは閉会式が行なわれていた。そして、塩川博士は、翌年の会議開催国を代表してスピーチに立ったのである。  怒声をあげているのは『アクトアップ』のメンバーだ。NGOの最大の組織のひとつで、欧米各地の同性愛者によって構成された団体だ。同性愛者差別を行なう組織や、エイズ対策に熱意をみせない行政機関などへの過激な抗議活動で有名である。そして、そのとき彼らの攻撃目標は、来年度横浜での会議開催を予定しながら、HIV感染者、患者について、部分的に入国制限を設けている日本の施策だった。HIVはエイズウィルスの頭文字である。  制限の内容は次のようなものだ。  日本の入管法は感染者、患者であるだけで入国を拒否しないが、入管係員の判断により、多数の他者に感染させるおそれがあるとみなされた人物、また、売春従事者と麻薬使用者については入国を拒否する条項を持っている。これは、かつて会議開催を予定したアメリカにおいて、運営上の大きな障害となった条文と似通う性格を持つ入国拒否規定だ。実際、ボストンで開催を予定された会議は、感染者や患者を、非感染者から区別する規定のために、会議に出席を要請する多くの人々が入国できなかった。  そのため、結局ボストンでの会議は中止され、アムステルダムに開催の場がうつされたという経緯があるのだ。  日本の入管法は第二のボストンの事態を招きかねない。NGOの諸団体はそれを懸念し、その変更を迫った。日本は、ベルリンでの会議開催中、終始、この問題によってやりだまにあげられていたのだ。  塩川博士の面前にプラカードを掲げているアクトアップの主張も、その問題に焦点をしぼっていた。彼らは入国管理法を見直せと繰り返し叫んだ。このような抗議活動を無数に行なってきたアクトアップのメンバーがあげる声は、たしかに罵声ではあるものの、巧妙な統制が保たれている。彼らはリズミカルに叫び、効果的にスピーチをさえぎった。  だが、実のところ、アクトアップにとって入管法改正は当面の抗議目標にすぎなかった。その奥に、アクトアップはもうひとつの抗議をもくろんでいた。怒号する彼らの足下に置かれた横断幕にその抗議が書かれている。とはいえ彼らにとって、�奥の手�を披露するのは時期尚早である。横断幕はまだ筒状に巻かれたままだ。また、その怒号の激しさとはうらはらに、彼らは塩川のスピーチを完全に邪魔する気もなかった。彼らの�奥の手�は、塩川のスピーチが始まらない限り行使できないからである。  そのため、塩川が口元に眼鏡を当て壇上で立往生していたのはせいぜい一分たらずのことだった。アクトアップは始めたときと同様、唐突に抗議をやめ着席した。塩川はそれを見て眼鏡をかけなおし草稿を読み始めた。  それは、来年度開催される横浜での国際会議に関係者各位の積極的参加を歓迎するといった、あたりさわりのない内容の草稿である。スピーチがおわりに近づいたのを感じとって、アクトアップのメンバーは巻かれた横断幕に手をかけた。塩川が、スピーチのおわりに、もし�それ�を行なわなければ、彼らは横断幕をひろげ、当初の抗議とは比較にならない激しい罵声をあげるつもりだ。  塩川は草稿を読了したあと、しばらく間を置いた。そして、�それ�を口にした。 「ここで、私はスピーチを求めている一人の日本人男性を紹介したいと思います。大石さん、こちらへどうぞ」  壇上に招いた男性と塩川が会うのは、そのときが初めてである。塩川は彼と軽く握手すると、マイクを譲った。その男性、二四歳の大石敏寛は、スピーチを始める前に黙って会場を見渡した。数百におよぶ聴衆席はそれぞれ前部に照明が組み込まれている。聴衆の顔は光の反射で白く輝いている。大石は一瞬、目を大きくみひらいた。まばゆさに耐えて聴衆の顔を一人一人確認するかのように小さく左右に視線をめぐらせた。  そのとき拍手がおこった。アクトアップのメンバーが着席した周辺から拍手は沸き、すぐさま会場全体にひろがった。彼らが求めていた�それ�は、大石だったのである。アクトアップの横断幕は、塩川に彼を紹介せよと迫るために準備されたのだ。  拍手はまもなく終わり、そのあと緊張の漂う静寂が続いた。 「私は大石敏寛です。日本の同性愛者の団体に所属しています」  大石は口を切った。  同性愛者《ヽヽヽヽ》と言った直後に、あらたな拍手がおこった。照明の白い光が反射する会場に指笛の音が高く響いた。大石は短い沈黙のあとに再び続けた。 「私は一人の同性愛者として、同時に、一人の日本人HIV感染者として、ここでスピーチをいたします。  また私は、来年、一人の同性愛者、一人のHIV感染者として、横浜の国際会議へ参加します。そして、その横浜で、私と同じ立場にいる、世界各国のHIV感染者、エイズ患者とともにエイズについて考えたいと切望しています。  どうぞ、みなさん、横浜においでください。一年後にお目にかかりましょう。そして、手を携えてエイズの克服をめざしましょう」  拍手があらたに沸き、それは長く続いた。会場の何人かは立ち上がって拍手を送った。そして壇を降りた大石を抱擁するために何人かが駆け寄った。  国際エイズ会議のしめくくりとして、アクトアップを含めた聴衆が求めたものは、その短いスピーチだったのだ。すなわち、日本人の同性愛者でHIV感染者の男性が当事者として自らの名前を名乗り、他の感染者、患者に呼びかけるスピーチである。  同時に、演説をする人物は、横浜の国際エイズ会議組織委員会委員会長である塩川優一博士のような、いわば権威の体現者によって演壇に招かれなくてはならない。すなわち、権威によって公に顕在化された同性愛者であり、HIV感染者でなくてはならないのだ。  エイズの克服という二〇世紀末最大の課題は、冒頭で述べたように、社会の中で異性愛者と肩を並べて生きる同性愛者の存在を無視しては実現されないからである。先進諸国において、同性愛者はエイズの最大の犠牲者だった。その結果、同性愛者はその課題について、もっとも先鋭的な意識を持つ人々となった。彼らは多数の犠牲者を生んだだけではない。多くの死者からエイズの時代を生きる知恵を得たのである。  同性愛者は次第にエイズというキーワードのもとに集まり顕在化した。そしてその集団からエイズの研究者や行政の担当者が輩出された。感染者、患者の立場を代表して適切な対策を求める人々も多数出現した。  その結果、時代の病としてのエイズは、それまで侮蔑、嫌悪、嘲笑でのみ報いられてきた同性愛者を、世間のもっとも薄暗い片隅から解放し、社会の正規の一員としてものを語らせる契機を作ったのである。同性愛者との対話と、彼らの積極的な関与なしにエイズという汎世界的な感染症を理解することは不可能だ。これが、アメリカを始めとする�エイズ先進国�の了解である。  一九九〇年代において同性愛者とは何を意味するか。それは、まさに時代を読み解くための最大のキーワードなのだ。  そして、アジアで行なわれる初めての国際エイズ会議を、いわばアジア地域の盟主として引き受けた日本にも、その了解が強く求められた。すなわち同性愛者の社会的顕在化と、権威による認知である。  大石敏寛という日本人同性愛者にして感染者の存在は、日本が�国際的�了解を持っていることの、いわば最低限のアリバイだった。ベルリンでの会議が始まってからでさえ、日本の運営委員会は大石のスピーチを積極的に推し進めたわけではない。日本人は同性愛者の、またHIV感染者自らの発言を疫学的研究や予防啓蒙に反映させているのかという諸外国からの度重なる問いに対して、日本側組織委員会は確答を避けた。塩川が大石を閉会式最後の演説者として壇上に招くことについても、それが組織委員会の意志として受け取られることについては終始消極的な姿勢だった。日本は欧米と違って、感染者が顕在化することに慣れていない。無理に顕在化を推し進めれば混乱をまねくというのが理由だが、アクトアップは、そのような日本の対応に対して抗議を企てていたのである。彼らが準備した横断幕には�日本人の同性愛者の感染者代表に話をさせろ�と書かれていた。彼らは、塩川博士が、同性愛者や感染者を公式に認めない可能性を恐れていたのだ。  そして、大石は、日本人の同性愛者の代表として、演壇の下で外国人のエイズ対策関連の活動家や同性愛者擁護の運動家に次々と抱擁されていた。彼は静かにたたずみ、少し涙を流した。背中を叩かれ、強く抱き締められ、両頬にキスを受けて、ひかえめに相手を抱き返した。  同性愛者でありHIV感染者であることを公に述べた大石の勇気を讃える人々の波が去ったあとに、大石は会議場の壁際にたたずむ一〇人足らずの日本人グループに合流した。  グループは大石と同じ、男性同性愛者の若者たちだ。大石は、彼らのもとに帰って初めて安堵の吐息をついた。同性愛者として、日本が�国際社会�の一員であることを証明する役割を果たした疲労と、公の場で自らを語った興奮が、彼の表情に一抹の疲れの色を加えていた。  日本人の同性愛者のグループは言葉少なに彼を取り巻いた。そして、取材者である私は、広い会場の一隅から、彼らの姿を眺めていた。アクトアップの動向について、また、国際エイズ会議における同性愛者の位置づけについて、私は、彼らを通して情報と知識の収集を行なってきた。大石のスピーチをめぐる諸事情についても、また欧米のNGOの反応についても、その取材を通して知った。  彼らの無言にはいくつかの理由がある。  ひとつは、彼我の差だ。  同性愛者がこれからの時代を読み解くための必須事項だという考えは、国際会議の席上でこそ自明とされるが、会議外の世界の事情は異なる。同性愛者はいまだに社会の�日陰者�としてあつかわれがちだ。その傾向は日本においてはさらに強く、日本では、普通の人々としての同性愛者の像はないに等しいのだ。同性愛者とは水商売の世界に生きる特殊な性の趣味嗜好の持ち主という意味しかもたない。  ベルリンの会議場での同性愛者のあつかわれかたは、そのような状況にある日本から訪れた彼らの想像を越えるものだった。同性愛者が拍手をもってむかえられる会議場は、彼らにとってまさに異国であり、日本人同性愛者は彼我の落差をまのあたりにして言葉を失った。  同時に、彼らはひとつの驚きによっても無言だった。  同性愛者という問題がこれからの世界を読解するキーワードのひとつだと、彼ら自身が気がついた驚きである。  日本と日本人が気がつかないうちに、同性愛者の問題は世界で大きく膨れあがっていた。彼らは公然と見え、話し、生きる存在になりつつあった。彼らの姿は、これからの世界の様相をうつしだす鏡だった。  大石と彼を取り巻く仲間は、その事実に直面して無言だった。  だが、そのうち彼らは次第に寄り添い、言葉をかわし始めた。彼らは、閉会式をおえて人影がまばらになった国際会議場の一郭で、ひとつのかたまりとなった。  そして、大石のかたわらに、ほぼ同じ背格好の男性が近寄った。  大石は二四歳、その男性は二八歳だ。  新美広がその男の名前である。  大石は、新美の仲間だ。新美はそのほかに三〇〇人におよぶ仲間を日本国内に持っていた。同性愛という共通項を持つ三〇〇人だ。新美は、彼の仲間の集合体に名前をつけた。『動くゲイとレズビアンの会(通称アカー)』である。  この耳慣れない名称の団体は、二〇代を中心にした若い日本人同性愛者の集団である。日本ではまちがいなく、もっとも豊富で網羅的な同性愛者に関する資料を持ち、同性愛者への情報送受信基地としての機能を持っている。  彼らはどこからきて、いかに出会い、一九九三年のその日、大石をベルリンに送り込むにいたったのか。  はじまりは七年前だ。一九八六年、二一歳の新美広は他四人の同性愛者とともに小さな集まりを作った。当初は失敗の連続だった。創設時の仲間は早々に新美のもとを去った。ある人は、つねに社会の片隅で身をすくめて生きなくてはならない同性愛者の境遇に疲れ、ある人は、同性愛者をまともな人間として扱う気配を見せない世間への憎悪に燃え尽きた。またある人は同性愛者について考える以前に、重くのしかかる生活上の諸問題におしつぶされた。結局、新美一人が残り、新しい仲間を模索することになった。  変化は八〇年代後半に入って訪れた。さまざまな個性と経歴の持ち主が、新美のもとに吸収されたのである。彼らの個性の違いは、日本の同性愛者がいかに広い範囲にわたって遍在するかの証明だった。新美の仲間はさまざまに生まれ、さまざまに育ち、同性愛者であることをさまざまに受け入れた。受け入れ方はまちまちで、同性愛者についての考え方も人生観も異なり、性格にいたっては差異の見本市のようだった。  きわめつきの優等生と、きわめつきの劣等生がともにあり、平和主義者とケンカのプロが同居し、都会にしか生きる場を求められない若者と、田舎の共同体に根を下ろした若者がいた。差別一般が構造的に解消されれば、同性愛者もまた差別から逃れられると夢想するロマンティストと、同性愛者差別解消以外には非情なまでに興味を示さないラジカリストが肩を並べ、温和な常識人と過激な奇人が、遊び好きで傍観を得意とする享楽主義者と、明日は今日よりよくなると信じて努力に勤《いそ》しむ刻苦勉励主義者が共存していた。  彼らが日本の同性愛者たちである。  突出した異能の持ち主ではないが、奇態な人々でもない。普通の日本人であり、異性を愛する人々が普通であると同じ意味において、|普通の《ヽヽヽ》同性愛者である。  ベルリンでの国際エイズ会議からさかのぼること二年前、私は彼らと出会った。  ひとつの裁判がきっかけである。  一九九一年二月一三日にテレビ各局が報道したひとつの損害賠償請求事件だ。東京都に本拠を置くアカーという団体が、都の公共施設の利用を拒否されたことによって被った被害、六四九万七一五四円を施設の管理者である東京都に対して求めたという、ありふれた事件である。  その日、テレビ各局が何回かにわたって提訴のニュースを流したのは、実は、裁判の規模によるものではない。提訴をおこした団体が男女の同性愛者で構成されたグループだったためだ。マスコミの注目はもっぱらその点に集中していた。  提訴は、東京都教育委員会が管轄する公共宿泊施設「府中青年の家」を、アカーが会員の勉強会を兼ねた合宿用に借りたおり、同宿した他団体から同性愛者だということを理由にいやがらせを受けたこと、その後、施設側が、いやがらせ行為によって青年の家の秩序が乱れることを理由に、いやがらせを行なった団体ではなく、同性愛者側の宿泊を断わったことをきっかけとしている。形式的には損害賠償請求の形をとってはいるが、実質上は同性愛者が少数派として社会に共存するにあたっての不備と無理解を指摘する裁判となった。  同性愛者の共存とはどのような意味か。  たとえば提訴が行なわれた直後、被告側の教育庁担当者は、新聞の問いに答えて次のような要旨のコメントを出した。 「社会通念上認められていない同性愛者に対しては、日帰り利用はよいが、宿泊はご遠慮願いたい」  これはきわめて端的な共存の拒否である。社会通念上、認知されるまで公共施設に宿泊さえできないというのでは、共存などまったくおぼつかない。  そして、新美たちの訴えは、教育庁の担当者が漏らした論旨が、彼一人に留まらず、世間一般に流布していることに対して行なわれたものである。同性愛者は社会通念上存在しないという不思議な考え方が世論を占めるのであれば、裁判は少数派である彼ら、同性愛者がたしかにそこにいることを言挙げするのに適当な手段といえた。提訴が認められることは、すなわち、彼らの存在証明であり、解決すべき問題がそこにあると証明することにもなるからだ。  私は、その日、二年前の二月一三日、テレビのワイドショーで彼らの提訴を知り、アカーの事務所に連絡をとった。  裁判を傍聴したいのですが、私はこう切り出した。そのうち、多少知識が得られるようになったらあなたたちの話を聞かせてもらえませんか?  それから二年間、私は新美のさまざまな仲間と話をした。そして、次第に、話をかわす対象はアカーの中核をなす七人の男たちに収斂《しゆうれん》していった。  彼ら七人は全員、一九六〇年代なかばから後半にかけて生まれた。職業、性格、経歴、考え方のすべてにおいて似通う点のない男たちだ。九〇年代において彼らを結びつけたものは、ただ同性愛者であるという一点だけだ。  彼らの名前は次のとおりだ。新美広。風間|孝《たかし》。神田|政典《まさのり》、永易至文《ながやすゆきふみ》、永田|雅司《まさし》、大石敏寛、古野|直《ただし》。  日本の若い男性同性愛者がどれほど幅広い差異をもって遍在する人々であるかということを実証するために、まずは彼らのプロフィールをざっと紹介しよう。  新美広は一九六五年、東京の最縁辺で生まれた。国道一六号線沿いの荒廃した地域である。一七歳で繁華街での享楽を知り、二〇歳でそれまでの生活とうってかわった活動を始めた。同性愛者の青少年の問題やエイズ対策について考える、同性愛者による市民団体を作ったのだ。それがすなわちアカーである。  裁判の原告の一人、神田政典は千葉県で生まれた。神田は、自分が同性愛者だと気づいたとき、キリスト教の中でももっとも反同性愛者色の濃いモルモン教徒だった。  もう一人の原告である風間孝は群馬県の酒屋に生まれた。闊達な優等生である彼は県立高校の生徒会長をつとめ、東京の私立大学に進学したあと、七〇年代以来、細々とながら命脈を保ってきた学生運動に参加した。  愛媛県の豆腐屋の分家に生まれた永易至文も相当な優等生だった。彼は国立大学で、風間と同じように学生運動に加わった。長じても、人なつこい優等生の雰囲気を失わない風間を陽画とすれば、自らの同性愛に気づいて以来、陰鬱に傾きがちで、インテリの気難しさが濃厚な永易は、いわば陰画であった。大学卒業後、神田は高校の英語教師に、風間は大学院に、永易は出版社に職を得た。  アカーの代表者であり、最初期のメンバーの一人でもある永田雅司は床屋である。ベルリンでスピーチを行なった大石敏寛と同じ一九六八年に生まれた。二人とも首都圏近郊で高校をおえたあと、東京に職を求めた。  永田はきわめて生真面目で、なにごとにせよ思いつめがちな職人気質の男性で、大石は対照的に盛り場での享楽を好むコンピュータープログラマーである。  被取材者の最後の一人、古野直も永田、大石と同じ一九六八年に首都圏近郊で生まれた。両親ともに共産党員で、経済的には恵まれていたが、倫理的にはきわめて強張った特異な家庭環境のもとで、文学を愛する青年として育った。  彼ら七人が、どのように多様な人生の軌跡を経て、日本に生きる二〇代の同性愛者になっていったかは、しばしおこう。  その前に、私はひとつの旅について語る必要がある。  日本の同性愛者の姿を知りたいと考え、彼らに接触した私が、なにより初めに経験したものは、ひとつの旅だった。その旅なしには、私は同性愛者について一切の実感を得られなかったにちがいない。それは、異性愛者の私が同性愛者の共同体にまぎれこみ、彼らの目に映る自分の姿に初めて対面した旅である。私はその旅の中で、おりおりつきつけられる異性愛者としての自分の像にたじろぎつつ、それを鏡像として、初めて同性愛者と呼ばれる人々と対面することができた。  旅に出発したのは、私がアカーに連絡をとった四カ月後である。 「僕は六月にサンフランシスコに行きます」  新美は言った。  何をするために行くんですか。私は聞いた。 「ゲイパレードです。サンフランシスコで大きなパレードがあるんですよ。それに参加するんです」  何ですか、その……ゲイパレードというものは。私はたずねた。 「アメリカのあちこちから、同性愛者が一堂に会してパレードをするんです。二〇年近い歴史があるんですが、日本人の同性愛者が参加するのは初めてです。参加するしないは、それほどたいした問題ではないけど、そこに行けば、あらゆる同性愛者に会うことができるという話だから、いろいろと勉強になるんじゃないかと思ってね」  パレードの存在については、それまでまったく知らなかった。どのようなものか想像もつかない。だが、そこに行けば、いろいろと情報が得られるだろうという点で、私も新美と同意見だった。  私は、裁判を報じるワイドショーをみてアカーに連絡をとって以来、同性愛とは何か、同性愛者とはどのような人々かという問題に当然の関心を寄せていたが、日本で十分な知識を仕入れることがほとんどできなかった。日本の情報媒体は同性愛の問題について完全に無関心なのだ。まじめな書籍も論文も皆無である。同性愛が精神神経科領域での病理からはずされ、当人がそれを自分の本質として認めているなら精神や心理の障害の原因にならないとされたのは、世界レベルにおいては一九七〇年代初頭だ。以後、同性愛を性的逸脱や精神病理として扱う傾向は全体として減少方向にむかっているが、日本ではその認知がいまだに薄い。日本にとって、それはいまだに変態の一種である。  しかたなく、海外で発表された論文を二〇種あまり取り寄せてみたが、発表年代の古さや文化土壌の違いから、それは満足がいくものではなかった。同性愛についての情報の少なさに、私は途方に暮れていた。新美の仲間たちの本質を十分に知るために、同性愛者と同性愛についての確かな実感が欲しかった。なかんずく、社会の一員として生きる同性愛者とは、どのようなものなのかを知りたいと思った。同性愛者は異性愛者の社会的隣人であるという題目だけでは、あまりにも抽象的すぎる。性的指向において対照関係にある異性愛者と同性愛者の共存の現実的な意味を、いわば肌身に近い感覚を含めて十全に知りたいと思っていた。  だから、そのとき私は申し出た。  私も、サンフランシスコに同行してはいけませんか。そのゲイパレードというものを見てみたいのです。そのパレードに参加する人たちと話をしてみたいのですが。  かまいません、と新美はうなずいた。  一九九一年、六月初旬のことだった。私たちは、神田や風間などほかの六人の主要メンバーを日本に残して、初めての旅に出た。  同性愛者とは誰のことか。同性愛者の問題はこの社会にとってどのような意味を持つのか、あるいは持たないのか。日本と外国の差は同性愛者に影響を与えるのか。アメリカのゲイやレズビアンは、日本の同性愛者と同じなのか、違うのか。  そのようなことについて知るための旅だ。すなわち、日本にいては、つかみどころのない同性愛者たちの像をつかむ旅である。  こうして、同性愛者の新美広と異性愛者の私は六月のサンフランシスコへ旅立った。 [#改ページ]   第二章 憂鬱のサンフランシスコ  六月二二日、サンフランシスコは例年とかわらず重苦しい曇天だった。 「いつものことだよ。サンフランシスコでは六月がいちばん、憂鬱な季節なんだ」  当地生まれのジョージ・チョイは言った。  その日、アメリカ西海岸・カリフォルニアには晴天とヤシの木しかないと信じてサンフランシスコを訪れた私たちは、小刻みに震えながら、ジョージの話を聞いた。私たちとは、二六歳の青年、新美広と私を含む数人の日本人である。私たちは、空港に降り立ったとたん、予想もしない陰鬱な曇天と陰気な寒風に見舞われ仰天した。ジョージは私たちの様子を見てこう説明したのである。 「六月には、カリフォルニア中の寒気と曇天が、すべてサンフランシスコ峡谷に結集する。理由はわからない。不思議なことに、峡谷をほんのひとつ越えただけで、空はきれいに晴れあがる。気温も夏なみにあがる。いわゆる�西海岸�風になるわけさ。まあ、今年はとくにひどい天気が続いているがね」  私と新美は、小雪さえちらつく寒さの中でジョージにうなずき、ホテルで荷を解くと、すぐさまブティックを探した。そして、新美は一軒のブティックで皮のジャンパーを求め、私はスポーツ用品店で化繊のスポーツジャケットを買った。  皮のジャンパーは新美によく似合い、あたたかそうだった。だが、スポーツジャケットのほうは寒気をふせぐには薄すぎるうえに、ひどく悪趣味な濃紅色である。 「日本に帰ったら、目立ちすぎて、ちょっと着て歩けないな」  新美がつぶやいた。同感だった。実は、いったんは、より防寒性が高そうな皮製品を探してみたのである。だが、それは、いかにも珍妙な光景だった。ある女性向けの洋服を扱うブティックをのぞいたときのことだ。店頭には小柄な客向きといっても日本人のMサイズ程度のものしかなかった。そのため、店員が苦労して店の奥からSSサイズの黒皮のジャンパーを捜し出してくれたが、それを試着したときには新美をはじめとして、その場にいた全員が吹き出した。 「なかなか、すてきな|ダイク《ヽヽヽ》じゃないか」  ジョージと同様、私たちを出迎え、街を案内してくれたゲイリー・タンがなだめるように言うが、それは事実とほど遠い。ダイクとは、男性的な逞しい容姿を誇る女性同性愛者のアメリカでの通称である。異性愛者が使う場合、とりわけブル・ダイク(雄牛のような、猛々しくさかりのついた同性愛者の女といった意味)と呼ぶときには蔑称にもなりかわるが、この場合は違う。ジョージもゲイリーも新美も、その店の店員も全員が同性愛者だからだ。  私は、その場でたった一人の異性愛者、アメリカ流に言えばストレートだった。そして、カーテンをあけはなった試着室の鏡が映しているのは、長すぎるジャンパーの袖口からかろうじて掌の半分を出し、困惑しきった表情をあらわにしている人物の像だった。  寝巻で来客の前に出てしまった子供の姿が容易に連想できた。だが、ダイクの女性が着れば粋にきまるはずのジャンパーが驚異的なまでに似合わない理由は、体格の貧弱さより、むしろ自分が同性愛者ではないという事実に求められるにちがいない。あまりにも自分の本質とかけはなれた服をまとえば落ち着かないものだし、ひけ目に似た落ち着きの悪さを感じて体をすくめていれば、何を着てもぶざまなのだ。 「もう少し、女性的な雰囲気のジャンパーはありませんか?」  私は店員に助けを求めた。 「それで十分、女性的だと思いますよ」  店員は答え、私は、用語の誤りに気がついて言い直した。 「女性的というのは言い間違いでした。つまり、異性愛者の女性が着るようなという意味です」  言いつつ、同時に私は反問した。いったい、異性愛者の女性が着るような、とはどういう意味だ? 日本にいるときには、それを、単に�普通の�服と表現してはばからなかった。微妙に挑発的なからかいや、冗談や、恋愛感情の応酬の相手から、直接の性の対象までがすべて異性に限られることを、当然として疑ったことはない。そもそも、自分を同性愛者と対照して異性愛者だと規定したことすらなかったではないか。単に�普通�の人間だと思っていたではないか。  私は、異性愛者という耳慣れぬ日本語を初めて聞いたときを思い出した。それはほんの三カ月前、アカーに連絡をとり、同性愛者であることを公言する何人もの若者と話して以来のことだった。自分のことを異性愛者だと口に出せるようになったのは、それから二カ月後だ。日本語になじまない武骨な語感に辟易したせいでもある。だが、率直に言えば、恥ずかしかったのだ。異性愛者というと、まるで自分が異《ヽ》様な性《ヽ》癖を持った人間だと告白しているようだった。性をむきだしで顔に押しつけられたような気分に陥った。異性を性的対象にしているという事実が、これほど羞恥を呼ぶものだとは予想もしなかった。それなのに、同性を性の対象としている人たちのことは、これまで同性愛者と呼んで平然としていた。彼らは同性愛者であり、自分は�普通�の人間だったのだ。  同性愛者とは何かはさておこう。異性愛者とは何者だ。異性愛者は何を着て、どうふるまうべきなのか。自問にすぐさま答えは出ず、自分の物言いが次第に明快さを失うのが感じられた。 「私は異性愛者なので、こういう男性的……という表現は適さないのでしょうが、つまり、ダイクの人が着れば似合うような服は似合わない。しっくりきません。私が着てしっくりくるような服が欲しい。着ていて不自然ではない服が欲しいのですが」  それから、こう付け加えた。 「不自然じゃない上に、なるべくあたたかい服がいいんですがね」  店員は、しばし黙ったのち、儀礼的に店内を見回して首をふった。 「少なくとも、ここには、なさそうですね」  私は、またもや自分の誤りに気がついた。 「そうですね、ここはカストロストリートでしたね」  店員は答えた。 「ええ、ここはカストロですから」  サンフランシスコ市カストロストリート。  その街は、二六歳の同性愛者の青年、新美広の�目的の地�だった。彼は、その陰鬱な六月の最後の日に、全米からの同性愛者の活動団体が行なうレズビアン・ゲイ・フリーダムデイ・パレード、通称プライドパレードに、初めての日本人として参加するために渡米した。ジョージやゲイリーは、彼を招聘したアジア系アメリカ人同性愛者の運動団体、|GA《ガ》|PA《パ》(ゲイ・アジア環太平洋諸島連盟)のメンバーだ。  パレードへの参加は、日本で同性愛者の権利獲得の運動を五年間続けてきた新美にとって、重要な出来事にちがいなかったが、それ以上に、カストロへ足を踏み入れることは、同性愛者の彼にとって大きな意味を持っていた。  この一帯は、昔、カストロヒルと呼ばれた。街路の起伏が激しいサンフランシスコでは、上下動の比較的ゆるやかな地域だ。カストロストリートは、地下鉄のカストロ駅の出口を、丘陵の最高地として始まり、繁華部でやや下り坂になり、店やバーがとぎれる終点近くで再度せりあがる。メインストリート沿いに歩けば小一時間で、かつてカストロヒルと名づけられた丘陵の起伏を往復することができる。  通りの眺めはきわめて小綺麗で、他の通りには必ずみかけるホームレスの姿がここではめったに見当たらない。通りには衣食住をまかなうあらゆる種類の店が集まり、店舗はおおむね広く清潔で客足が絶えない。  カストロヒルは、一九七〇年代初頭、同性愛者の白人起業家の私的な集まりによって開発された。  カストロを、同性愛者たちの�メッカ�であるとして、日本の新宿二丁目界隈のゲイバー街のアメリカ版にたとえる向きもあるが、その置き換えは安易すぎる。二丁目はいまだ歓楽街にすぎぬ一面をもつが、カストロは同性愛、異性愛を問わず、生活者がいる街だからだ。そして行政に対する力を持ち、そのうえサンフランシスコでもっとも富裕な経済力を誇っている。そのため、日中の新宿二丁目は、扉をとざしたバーのみが目につく閑散とした街路だが、カストロは昼夜を問わず人が往来し、生活を営む街である。  この日米ふたつの街の差異を表現するとき、たとえば、こんな比喩もなりたつだろう。二丁目が持つ時間は夜のみだが、カストロは昼夜二四時間を持っている。また、こんな言い方も可能だ。すなわち、二丁目にあるものは消費のみだが、カストロは生産と消費双方の機能を持つ。  ふたつの同性愛者の�メッカ�は本質において異なるのだ。  だが、カストロは現在のような街の機能をやすやすと手に入れたわけではない。そこには二〇年余にわたる既成社会との軋轢《あつれき》と苦闘があった。  アメリカでの同性愛者は、六〇年代以前、強烈な社会的抑圧のもとにおかれていた。アメリカは、教義の基本として同性愛を罪と規定し忌避するキリスト教を精神的支柱として成立している。その規範のなかで生きる彼らは絶望的なほど不幸だった。自分が同性愛者であると宣言することは、よくて社会の枠外にほうりだされること、悪ければ、暴力によって物理的に抹殺されることを意味した。彼らは、男女を問わず、強引な社会の抑圧に声もなくおしつぶされていた。  アメリカ社会の同性愛に対する忌避感にはすさまじいものがある。一例をあげよう。ポール・キャメロンとケネス・ロスの社会心理学者二人が七〇年代最後半にまとめた調査がある。主要なテーマは、ユダヤおよびキリスト教社会の同性愛に対する態度一般についてだが、そのなかに、複数の研究者の調査を総合することによって、時代や宗教的背景の異なる集団別に、同性愛者に対する価値観がどのようであったかをまとめあげたものがある。集団は、ユダヤ、キリスト教の規範を厳守する社会、一九世紀から二〇世紀なかばまでの平均的価値観を持つ社会、一九七〇年代のリベラル層の平均的価値観社会、七〇年代の性的指向平等論者の集団の四種。  それぞれが同性愛をどのように扱ったかは次のとおりだ。ユダヤ、キリスト教を規範とする社会は、殺人者から強盗までを含む凶悪犯罪者と等価。一九世紀から二〇世紀の平均的社会では精神病と等価。倫理的な悪ではないと認識されるのは一九七〇年代からだが、なお、心理的障害の一種と考えられ、正常な状態だとみなす集団は最後の性的指向平等論者のみだ。同性愛は、アメリカにおいて長く、積極的に淘汰すべき大罪として存在していたのである。  その認識に変化がきざしはじめたのは六〇年代後半だ。その時代、アメリカから始まり、日本を含む北半球の多くの国を席捲した思想、人種、性の多様化の解放運動は、アメリカ本国においては公民権運動に、女性問題においてはウーマンズリブへ結集し、文化においてはカウンターカルチャーの氾濫を、そして日本に波及した結果として、青年たちの�政治の季節�を産み落とした。その同じ運動が、既成の性規範の被抑圧者だった同性愛者の解放と顕在化に手を貸したのである。彼らは時代に後押しされ、自分たちの性的指向を殺人者と等価に置く社会と激しく軋みあいながら、次第に少数派としての現実的な力を蓄え始めた。  力とは何を意味したか。それは、自分は同性愛者だと宣言したあとも圧殺されずに、社会の中で生き続ける力のことだ。当初、その力を持つにいたる同性愛者は一握りにすぎなかった。だが次第に多くの同性愛者が、自分の性的指向をあきらかにしたあとも、企業や行政といった社会の表舞台で生き残る可能性を手に入れ始めたのである。  ちなみに、日本語にはまだなじまない性的指向(セクシュアル・オリエンテーション)という用語も、この頃生まれた。日本ではこれに性|嗜好《ヽヽ》と訳語を当てることが多いが、これは原語の意味を考えた場合、まちがっている。性的指向とは、同性愛者であることを、単なるセックスの趣味嗜好の問題から切り離し、全人格の問題としてとらえなおすために用いられた言葉であるからだ。  同性愛とは悪い遊びではない。いかがわしい趣味でもない。それは、性という、人間のひとつの本質の状態を表わす言葉である。これが同性愛者の主張だ。同性愛は即物的な性行為からいったん切り離され、より高位の問題として語られるべきだ。それ以外に、凶悪犯罪と同じゆゆしい位置に置かれていた同性愛の尊厳を救う方法はありえなかっただろう。  私も、また、同性愛に対するそのようなとらえかたに同意する。同意の理由は単純だ。異性愛者である私たちの存在は、今まで、けっして即物的性行為のみから読解され、解釈されることがなかったからである。なぜ、同性愛者だけが、性行為というたったひとつの特異な覗き穴からだけ観察されなくてはならないのだろう。セックスは人間の本質のひとつではあるものの、日常生活においてわずかな一部分をしめる行為でしかない。そして、私たちが異性を性的に好み、ときおりセックスをすること自体が、これまで悪い遊びや異性愛といういかがわしい趣味として責められたり、揶揄されたりすることは一度もなかった。いったいどこに、同性愛者だけがそうされなくてはならない理由があるのだろう。  第一、同性との性行為を行なうことだけが同性愛者である証しとはならない。そもそも、性行為としての同性愛は異性愛者にとって不可能なわけではないのだ。現実に多くの異性愛者が、ちょっとした冒険を行なうつもりで同性との性交渉を持っている。また、同性愛者も社会の抑圧下で異性との結婚やセックスを強いられてきた。七〇年代後半以降に出された性行動に関する多くの研究は、同性愛はその行為の有無からは解析できないという点を指摘しているが、古くは、性科学者として名高いキンゼーが、一九四八年と五三年に出した報告にそれを示唆するデータが見られる。  これによれば、三〇歳の男性で異性としか交渉を持たない人の率は八三・一%。恒常的か否かの別なく、同性と交渉を持った経験者は一六・四%(無回答〇・五%、以下のデータも同様に一〇〇%から両者の加算分を差し引いたものが無回答の率)。同じく三〇歳の女性で前者は八八%、後者は八%。すべての年齢層に範囲を広げると、男性で、前者九二・六%、後者六・八%、女性は九〇・八%と八・四%(男性の統計は四八年、女性は五三年に発表)。  もし、この数字を、そのまま同性愛者の率におきかえるとすれば、三〇歳男性の一六%以上が同性愛者ということになるが、いくらなんでも、これは過剰だ。同性愛者の存在率については諸説あり、もっとも多くは男女ともに一〇%の存在率を主張しているが、私が調べた八〇年代後半までの調査研究文献の多くが男性で三〜七%、女性で一〜二%と算定している。  ちなみに、この比率は、近代を迎えた文化における比率というのが妥当だ。  人間にとって性的指向が同性と異性との二方向に分化する事実はおそらく普遍的なものだろう。だが他方、同性愛の顕在、潜在の別は、その文化や社会構造のありかたに深く関わる問題だと思う。社会の中で同性愛者がどのように存在するかは、その社会固有の事情によって左右されるのではないか。そして、貧富や文化の差にかかわらず、男性同性愛者が三〜七%、女性同性愛者が一〜二%遍在するのは、近代という時代のもとでの存在形態ではなかろうか。  たとえば、近代以前の国家においては、同性愛のありかたは今とかなり異なったはずだ。具体的にいうと、同性愛行為を内包する祭儀によって統治される宗教国家においては、同性愛者の存在率はきわめて高いものとならざるをえなかっただろう。その社会では、おそらく多くの異性愛者が社会的強制力によって同性愛に順化させられていたはずだ。  同じ条件のもとに共産主義国家も、宗教国家と同じ状況にある。もっとも共産主義国家において順化させられるのは同性愛者のほうだ。共産主義は同性愛を資本主義の病理とする教義を持つ。そのため、旧ソ連も中華人民共和国も長らく、自国には同性愛者は一人として存在しないという立場を貫いてきた。宗教にも似たその理念に綻びが見え始めるのは、ソ連邦解体を待たなくてはならない。九〇年代にはいって、まずロシアが少数者としての同性愛者を認め、九二年、中華人民共和国もしぶしぶながら自国民が異性愛者だけで構成されていない事実を肯定した。  また、ヒエラルキー社会の最上段に位置する階級が、性愛の楽しみを含め、すべての利益を享受する社会においても近代と事情が異なるだろう。たとえば、ギリシャやローマの貴族階級に同性愛行為が偏在していた例などだ。日本の中世近世における�衆道�も同じ事情によって生まれた支配階級の嗜好だと思う。同性愛は基本的に労働力を再生産しない性愛のありかたなので、貴族など、労働と無縁な階級にとって自らの属性とするにふさわしい性愛指向と受け取られたのかもしれない。  実際、きわめて多くの人的労働力が必要とされる一次産業の中では、同性愛はめったに顕在化しないと思う。そこに生きる同性愛者は、社会的抑圧のもとに自らの同性愛に気づくことなく、労働力の再生産のために異性愛に順化して生涯をおわるだろう。  だが、一次産業労働者も、ある条件下では同性愛者の大群を輩出することがある。たとえば、彼らが農業の不振などによって本来の労働形態による対価を得られなくなり、自らの性を商品として売買する場合だ。端的な例は現代の東南アジアなど先進国との経済格差が大きな国々にみられる。その国の貧困層は、男女を問わず売春という�商業行為�によって経済の格差を強引に縫い繕っている。だが、それをもって、タイやフィリピンの人々が好色であるというのが妄言そのものであるように、彼らの文化に同性愛指向が高いというのも暴論だ。事実は、彼らの国は貧しく、同時に、近代と異なる構造をもつというだけである。  そして、今あげたような国や文化の条件を持たない近代国家において、同性愛者は前述した比率で遍在する。そして、それを大幅にうわまわる人々が同性愛行為を経験しているというわけである。すなわち、同性愛行為の経験者の比率から、推定される存在率をさしひいた、三〇歳の男性の九〜一三%、女性の六〜七%が、性的指向の本質は異性愛においたままで、同性と性交渉を持った計算だ。しかも、キンゼーが調査した時点は、アメリカでの、いわゆる性解放運動以前。性の規範が緩化した現在では、はるかに多くの異性愛者が同性と交渉を持つと考えるのが自然である。  この数字が示唆するように、同性愛は単に性行為のある、なしによって読解されるべきものではない。それは、人間の本質のひとつである性が、どのような指向性を持つかという問題であり、その意味で同性に対して性のベクトルが決定されている同性愛者は、異性に対してベクトルが定められている異性愛者と等価である。性的指向という言葉はこのような考えから生まれたものだ。また、異性愛(ヘテロ・セクシュアル)という用語も、前述したように日本語になじまないが、これも性的指向と同様の事情によってあみだされた言葉である。  六〇年代アメリカにおいて、同性愛者たちは、その内面をあらわす表現として異性愛や性的指向といった言葉を作った。そして、その言葉によって自分の本質を肯定し、崩壊寸前の自尊心をたてなおす術《すべ》とした。また、外にむかっては、経済力を蓄え、政治的発言力を増していく。  さらに、少数派として自己実現をはかるために、彼らは保守的キリスト教徒の力が支配する中部や南部を嫌い、より自由な西海岸を選んだ。ために、彼らは、ロサンゼルスに、また、サンノゼに基盤を築いたが、その一部が、サンフランシスコで事業の成功をおさめ、カストロヒル一帯に同性愛者のための共同体を開発するために資金を注ぎ込んだ。同時に、企業内での同性愛者のユニオンが結成されるための援助も行なわれた。政治的には、サンフランシスコ市を中心にして、地域議会を起点としたロビー活動が行なわれた。結局、このサンフランシスコでの同性愛者の試みが、西海岸の中でも、もっとも大きな成功をおさめたのである。  そして、一九七五年は画期的な年となった。カストロヒルに基盤を持つ起業家で作った互助組織、カストロ・ヴィレッジ・アソシエイションの会長であり、自身、カストロ内でカメラ店を経営していたハーヴェイ・ミルクが、スーパーヴァイザーと呼ばれる、サンフランシスコの市政にもっとも力をもつ議会議員に当選したのだ。  彼は、地域行政の中で同性愛者が異性愛者と同等の権利を獲得するための法律的な施行を強力に推進した。それは、同性愛者が行政の一員として声高に権利を主張する端緒ともいえた。  さらに、彼は同性愛者のために、ひとつの英雄伝説を作りあげた。彼自身が同性愛の権利獲得運動における殉教者となることによってである。ハーヴェイ・ミルクは、一九七八年一一月二七日、狂信的な反同性愛主義者であったとされる同僚議員、ダン・ホワイトによって、市庁舎にあった自身の執務室において銃殺されたのだ。  それは、個人的には悲劇的な死だったが、同性愛者の共同体にとっては、惨劇であると同時に不滅の英雄の誕生を意味した。すなわち、かつてカストロヒルの一カメラ店主から身をおこし、行政の場で自身が同性愛者であることを公言することによって、自分たちの権利を主張したハーヴェイ・ミルクは、反同性愛主義者の銃弾に倒れることによって、英雄伝説を完結させたのである。  ミルクは、その死によって一人のサンフランシスコ市議会議員から同性愛者の偉大な象徴となった。同時に彼を生み、彼が愛したカストロヒルは、サンフランシスコに数ある丘陵から、市きっての美しく、治安がよく、富裕な、全米最大の同性愛者の共同体であるカストロストリートに変身したのだ。  そして、私がジャンパーを試着した店は、カストロストリートの中心部にあった。つまるところ私はサンフランシスコの、またアメリカ全土の同性愛者共同体の中心にある店にいるということである。ここは、同性愛者が築き、同性愛者が盛り立てた、同性愛者のための街であり、そのうえ、この店が女性のダイクタイプの同性愛者が好む服装を備える店である以上、異性愛者である私に似合う洋服はないのがあたりまえだった。 「スポーツ用品店を見てみたらどうかな」  ゲイリーが助け舟を出した。 「スポーツ用品を扱うところだったら……」  彼は言い淀んだ。 「つまり、あなたにも似合うものがあるかもしれない。多分、そうじゃないかと思う。なぜならスポーツは誰でもやるものだから」  彼の忠告に従って、私たちは、数十分後にカストロストリートから少し離れた街区にある、ディスカウント専門のスポーツ用品店に行った。その店で購入したのが、三七ドルで安売りされていた濃紅色のスポーツジャケットだったのだ。それは、薄くて、安っぽく、悪趣味だったが、カストロの近くで、異性愛者の女性である私が手に入れられる防寒服は、それ以外になさそうだった。 「大丈夫だ、ほんの少しの我慢だよ。パレードの日が近づくと、サンフランシスコは突然、真夏みたいに暑くなる。ジャケットなんか着ていられないほどだ。Tシャツさえ脱ぎたくなるよ。嘘じゃない」  ジョージが慰めたが、私は疑わしいと思った。サンフランシスコの空はあくまでも暗く、重く、雲は深く垂れこめている。少し我慢したくらいで陽気な真夏がやってくるとは到底信じがたかった。  予感はあたった。それは、とても少しの我慢などというものではなかった。  真夏が来る前に、ウィルヒナがやってきたのだ。  ウィルヒナは、サンフランシスコ特有の季節風でも豪雨でも台風でもない。だが、そのすべての特徴を備えていた。強烈で、手強くて、容赦がなくて、破壊的だった。  ほうっておいてくれ、見逃してほしいと懇願しても、いったん目標を定めると猛進をやめないところは、暴風雨なみだった。  ウィルヒナは黒い皮のジャケットと、黒いズボンと、黒いサングラスを身に着けてあらわれた。彼女はメキシコ系のアメリカ人で、力強い肉体と、意志的な顔立ち、きわめて美しい漆黒の瞳の持ち主だ。活発な活動家で信念の人である。そして、その信念は、私に対する場合、異性愛者である私を、同性愛者に変えることに向けられたようだった。 「レズビアンであることは、倫理的に正しいことなの、わかる?」  日本からパレードに初参加する新美に同行している限り、ウィルヒナにいたるところで出会うことは避けられなかった。プライドパレードが行なわれる六月は、各地からの参加者や活動団体を迎えて、サンフランシスコのさまざまな場所でパレードの前夜祭ともいえるパーティーや会合が、毎日のように開催される。ウィルヒナはそのような会合に頻繁に出席し、そのたびに私は彼女につかまるわけだ。 「わかっている? これは、倫理的に正しいことなの」  私はうなずく。  うなずきながら、後ずさろうとする。ウィルヒナの顔と私の顔があまりにも近づきすぎているのだ。漆黒の瞳は美しいが、二〇センチたらずの距離から顔をのぞきこまれると脅威を感じる。そのため、体を引き離そうとするが無理だ。ウィルヒナの手が私の右腕をしっかり掴まえているのである。それは、まだ力強いだけで暴力的な掴みかたではないが、芯に鋼鉄のような力が潜んでいると示威するに十分な痛みを伝えてくる。 「それから、これは人間を幸福にする手段でもある。わかる?」  その表現を聞くのは、これで何回目かだった。  私たちはシャンティプロジェクトで開かれているパーティーにいた。六月二八日の夜である。シャンティプロジェクトはエイズ患者のためのホスピスを運営する事務所。今夜のパーティーは、プライドパレードの運営委員会が主催する大々的な前夜祭だ。  その日も、あいかわらずサンフランシスコは陰気で寒かった。サンフランシスコに到着して一〇日あまりが経過していた。  そして、その間に、私の自己像は実に卑小なものへと縮みあがっていた。これほど短期間に、日本にいたときには�普通�の人間だと信じて疑わなかった自分が、とるにたらず、正当な評価にあたいしない、おかしな人間だと感じるようになるとは、驚くべきことだった。  理由はふたつある。ひとつはウィルヒナであり、もうひとつは、ウィルヒナが私に�宗旨変え�を迫るのをとりなす周囲の人々の反応だった。  ウィルヒナは、初めて出会ったとき、私の腕を掴んでこう問うた。 「レズビアンね」 「いいえ」  私は答えた。 「違うの? なんなの? あなた、ストレートだっていうの?」 「ええ」 「なぜ?」  私は答えを失った。 「レズビアンが悪いことだと思ってる。そうね」  そんなことはありません、と答えようとしていると、ジョージが事態に気がついた。彼は、私とウィルヒナの間に割って入り、小声で言った。 「ウィルヒナ、やめてやってくれよ。彼女はストレートなんだ」 �ストレートなんだ�という部分を、ジョージはとくに声をひそめて言った。それが、初めての屈辱だった。なぜ、そんな小声で言わなくてはならないのだ? 私が異性が好きだということは、普通の声で語れないような事柄か。三一歳のグラフィックデザイナーである中国系アメリカ人、ジョージ・チョイは、きわめて礼儀正しい常識人だ。穏やかで暖かい人柄の好青年でもある彼が、私を侮辱しようとして声をひそめたのではないことはよくわかった。これはジョージの問題ではない。つまりこの街では、私がストレートであることが問題なのだ。  同質の経験は次から次へと積み重なった。  私が異性愛者であるという事実は、つねに小声で私から顔をそむけて語られた。 「すまない。彼女は実はストレートなんだ」  そう言われるたびに、私は縮みあがった。自分が、何か、ひどくいかがわしいものに成り下がったような気持ちだった。  そのうえ、ウィルヒナがやってくる。 「倫理的に正しいの」  彼女は言う。 「幸福になる方法でもあるの」  こうも言う。 「それに得なの。楽なの。異性愛者はそれに気がつかないだけなの」 「そうですか」  そう答えながら、少しも同性愛者になる努力をみせない私は、ウィルヒナにしてみれば、思慮と分別の足りない、�遅れた�東洋人の女性としか見えないのだろう。何度か腕を掴んで説得に努めたあと、彼女は、私を多少知能の遅れた人間として扱おうと考えたようだった。ウィルヒナの口調は日を追うにつれて、ゆっくりと、一語一語を明瞭に話す、いわば幼児にものを言うそれに近くなり、結果、私の自己像は急速に卑小化をすすめた。 「あのね」  ウィルヒナは腕を掴んで、私を引き寄せ、やおら黒いサングラスをとって、そのきわめて美しい瞳で私をみつめながら言った。 「あなた、私が言ってることがわかる? わからなかったら、そう言っていいのよ」  私が屈辱に追いつめられつつある自分を感じて、むっとしていると、彼女は幼児に見せるような笑顔をうかべて言う。 「これはいいことなの。これは正しいことなの。これは幸せになることなの。わかる?」  彼女はたたみこんで問う。 「あなたは幸せなの?」 「わからない」  私は幼児扱いされて当然だったかもしれない。完全にふてくされていた。 「あなたは自分を正しいと思えるの?」 「わからない」  再度答えて、心底、たまらないと感じた。  当時、私の同性愛についての知識はほとんどないと言ってよかった。新美のサンフランシスコ旅行に同行したのは同性愛についての情報を得るためである。アメリカが同性愛者をどのように扱ってきたかもまだ知らない。それが、長く正邪の問題として語られ、多くの同性愛者が、今の私が、ウィルヒナに強制されているように、正しい人間であるために性的指向を変えよと迫られていた歴史にも不明だ。  だが、知識はなくても直観はあった。私が同性愛者ではないということは、幸福や正邪に関する問題ではない。なんであれ別種の問題だ。私の尊厳や知能といった、人間としての評価とは別のところに存在するなにものかだ。  直観はしているものの、ウィルヒナが掴んでいる腕の痛みが、それを口にすることをためらわせた。抗弁したとたんに、彼女は私の腕をへし折るのではないか。彼女の大きい肉体を見ればあながち非現実的とは思えなかった。彼女は容易に力をふるえる。私は無力だ。彼女は、私に同性愛者であれと言い、私はそれに抗っている。今のところ、彼女が暴力をふるわないのは僥倖にしか思えない。私が感じているのは、まさに身体的な恐怖だった。皮膚の内側に入り込み、骨を鳴らし、生理を軋ませる、そういった類の恐れだった。 「これは正しいことなの」  ウィルヒナが繰り返す。  私は周囲を見回した。だが、今日は、大きなパーティーだ。シャンティプロジェクトには、一〇〇人近い参加者がひしめいていた。誰も私などかまっていない。 「これは正しいことなの。百歩ゆずっても、とにかく得なのよ。なぜ、あなたが考えを変えないかわからない。なぜ、人生で得な選択をしないのかわからない」  そのとき、それは反射的な物言いだった。私はウィルヒナに出会ってから、初めて長いフレーズを一気にしゃべった。 「得なんでしょう。でも、関係ありません」  私は腕を掴んでいるウィルヒナの力を忘れようと努めた。 「あなたはレズビアンです。私はストレートです。私たちは違うらしい。でも、私が、たった一度でも、あなたが私と違うから変われと言いましたか?  言わなかったでしょう。一度も頼まなかった。一度も強制しなかった。  だから、私に変われと言わないで下さい。なぜなら、私が、あなたに一度もストレートになれと言わなかったからね。男を好きになれとは言わなかったからね。私は、何も、あなたに強制しなかったからね」  初めて、ウィルヒナは私を直視した。初めて、まともな知性を持った人間として、私を認識したようだった。 「私はストレートで……」  そのあと、自分が信じがたいことを言うのを聞いた。 「ストレートで、悪かったけど」  アイム・ストレート、アイム・ソリー? なぜ、あやまる必要もないことで謝罪するのだ。私は自分にあきれた。サンフランシスコでの一〇日間たらずの時間は、私の自我をそれほど卑屈に追い込んだらしい。 「私は正しい人間かもしれない。間違った人間かもしれない」  ウィルヒナが怒り出すことを予期していた。集中豪雨のような、台風のようなウィルヒナが怒り出したら、カストロのダイクファッション専門店の一番小さいジャンパーさえ身に余った私など、まるで問題ではないことは承知していた。 「私は幸せかもしれない。不幸せかもしれない。私自身でさえ、それはわからない。正しいかもしれない、間違っているかもしれない。幸せかもしれないし、不幸かもしれない。これから幸福になるか、不幸になるかわからない。これから悪いことをするかもしれないし、正しいことを行なうかもしれない。そんなことはわからない」  ウィルヒナは予想に反して黙って聞いていた。 「しかし、それは私がストレートだという事実とは関係ない。私がストレートなのは、私の事実で、いつわらざる状態です」  最後に息を呑み込んで、こう言った。 「私の事実に、あなたは手を触れることはできない。私は異性が好きで、それがあなたにとってどういう意味を持つにせよ、あなたはそれをどうしようもない」  ウィルヒナの顔に予期せぬ表情が浮かんだ。  彼女は笑っているのだ。かなりシニカルではあるが、笑顔ではあった。  彼女は笑って私の腕を離した。  そのとき、ようやく、この女性がこの何日間も私をからかっていたことに気がついた。異性愛者の世界が同性愛者に対してふるった力を、�倒錯�してふるってみせ、それがどんな気分のものかを私に味わわせたのだ。倫理をふりかざし、幸福追求という題目で折伏を試み、ついには損得という抵抗困難なプラグマティズムを持ち出して説得する。そしてそれを執拗に、すなわち同性愛者の若者の自己像が修復不可能なまでに卑小化するほど執拗に繰り返す。本音を漏らせば暴力がふりかかるのではないかという予感で萎縮させ、考えを変えることによって拓くことができる自己実現の幸せをみせつけ、なお肯《がえ》んじない場合には幼児的な頑迷さを苦笑する大人の余裕を演じて、徹底的に相手をおとしめるのだ。  ウィルヒナは、異性愛者の私たちが同性愛者と呼ばれる対照的な性的指向の持ち主に対して言い続けてきたことを代行したのだ。  彼女が意識的だったか、あるいはたまたまカストロにまぎれこんだ東洋人の異性愛者が目障りで無意識のうちにいたぶったのかはわからない。だが、確実なのは彼女がやったことを、私たちが同性愛者に対して行ないつづけてきたということだ。そして私が言いつのったことのおおむねが、同性愛者の人々が長年胸の中におさめてきた抗弁に重なるということだ。  彼らは長い間、無言だった。だが、すでにそれをやめたのだ。  そして、カストロでは誰もが雄弁だった。私でさえ、そこでは無口でいられなかった。 「彼は、日本で初めて本格的な同性愛者のネットワーク作りに成功した男性です。名前は新美広。わずか二一歳のときアカーというグループを創り、六年後の現在、三〇〇人もの規模に拡大させました。彼はその発起人なのです」  私は言った。場所は同じシャンティプロジェクト。ウィルヒナから解放されてのちの出来事だ。周囲を取り囲んだ新聞や雑誌の記者、カメラマンは、私の講釈にいっせいにうなずいた。彼らはすべて、同性愛者を対象にした情報と報道をあつかうジャーナリストたちであり、彼ら自身も同性愛者である。サンフランシスコには、ゲイメディアと総称されるこれらの媒体が数多く存在する。活字と電波を問わず、彼らは自分たちと性的指向をともにする人々に必要とされる情報を提供している。私が言葉を切ると、彼らのうちの一人が問うた。 「つまり、新美さんの団体が、日本で一番大きな団体というわけですね」  いいえ。私は首をふった。 「日本で本格的に活動している団体は、まだひとつしかありません。他にグループがないわけではありませんが、本格的に活動をしているという意味においては、たったひとつなのです」 「ひとつだけ……」  質問者は微かにとまどい、なるほど、それであなたはこの団体を取材しようと思ったわけですね、と別の人が納得した表情でうなずいた。初めてのケースだから興味を持ったわけですね。  私はそれを聞きながら、あらためて新美が発起したグループ、アカーに連絡をとった日の、あれこれを思い出していた。  取材をしたいと思った直接の動機は、前述したように、あるテレビのワイドショーと、その報道前後の対応にあった。  具体的にはこういうことだ。  提訴について説明するため、原告となった彼らのうち二人は、提訴後、テレビでいくつかのインタビューに答えて、テレビの画面に素顔をさらした。インタビューにこたえたのは、当時、大学院生だった風間孝と、床屋の永田雅司だ。二人とも、これまでの人生でインタビューの経験などない人たちである。だが、その場でもっとも大きな動揺を受けたのは、取材現場の素人である彼らではなかった。むしろ、その玄人であるインタビュアーが動揺し、スタジオ内のキャスターのものいいも支離滅裂になった。ある女性のインタビュアーにいたっては、話を聞く途中で混乱のあまり泣きだし、インタビューを中断せざるをえなかった、と後日私は聞かされた。  いったいなぜ彼女は泣き出したのかと風間に問うと、彼はこういう事情だったと答えた。 「おかあさんがかわいそうだ」  彼女は取材なかばにして、そう言って泣き出したという。風間と永田は呆然とした。そのとき母親の話などしていなかったからである。彼らは提訴に至った経緯について説明していただけだ。なぜインタビュアーは泣き出したのか。  おそらく彼女は、自分が彼らのような同性愛者について報道することを予想しなかったからにちがいない。よりステレオタイプな像を予想していたのにちがいない。  同性愛者のステレオタイプとは次のようなものだ。テレビの画面上で、彼らはつねに仮名扱いだ。顔にモザイクがかけられ、話し声の音声は変えられている。そして、もっぱら性と風俗の話題にかぎって、|女々しく《ヽヽヽヽ》告白する。仮名扱いやモザイク処理は、確かに彼らの人権を守るための手段ではあるが、同時に同性愛者とは本名もなのらず、素顔も声も表に出すことができない、うさんくさい人々なのだという見方が一般に定着したのも事実だ。  だが、そのときテレビに登場した風間も永田も、およそステレオタイプから遠かった。実名と素顔をさらしてひるまず、気負わず、風俗の問題としてではなく社会一般の問題として同性愛を語った。彼らが話すことは、まさに生真面目な正論だった。その日の朝、たまたまテレビをつけてインタビューの場面を見た私は、彼らの主張は、まともすぎて退屈なほどだと感じた。  二人は普通の顔立ちで、とりたてておしゃれでも、異貌の持ち主でもなかった。つきなみなスーツを着て、高くも低くもない声で話した。感情がたかぶることもなく、誇張の表現もなかった。あえて特異な点を探せば、二〇代なかばの彼らが、同世代の他の若者に比べて、少し堅苦しいほど真面目に見えるということだっただろう。  おそらくそれが彼女を泣かせたのだ。  彼女は、インタビューを行ないながら、自ら抱いたステレオタイプと現実の彼らの像を重ねあわせることができなかったのである。彼女は早々にその努力を放棄し、自分に理解できる通俗的枠組に逃げ込むことによって、とりあえず業務をまっとうしようとしたのだ。その場合、通俗的枠組とは母子関係のステレオタイプを意味した。  すなわち、彼らがどのような主張をしようと、田舎の母は都会に出て�おかま�になってしまった息子を見れば例外なく悲嘆するはずだという考え方だ。どのような母親も、�おかま�の息子を持てば、必ずや世間に顔向けができない、孫の顔を見ることができない、もう表を歩けないと言って泣くはずだという考えだ。そして、母の通俗的悲嘆は、すべての論理を超越したところに位置して最強だという考えでもある。  だから、彼女は�おかあさんがかわいそうだ�と泣いた。自分を田舎の母に擬して、その場を切り抜けたのである。  彼らのインタビューの様子をスタジオで受けたキャスターやコメンテイターも似たり寄ったりだった。  あるワイドショーの司会者は、 「なんだか普通の人のようなんですが……まるで、隣の家の息子さんのような」  と言って絶句し、アシスタントの女性アナウンサーは、 「でも、普通じゃないんですよね。本当は普通じゃないんですよね」  と嫌悪と茫然自失がないまぜになった表情でいつまでも繰り返した。  コメンテイターの文化人も同工異曲だった。せいぜい、六〇年代のアメリカの性解放運動の、もっとも穏健な認知に立って意見を述べる人がいた程度だ。すなわち、愛情は万民に平等なものだから、同性どうしで愛しあってもよいのではないかという開明的主張である。だが、その主張が、日本の二〇代の同性愛者が九〇年代に提訴した社会的事件とどのようなつながりを持つのかは語られなかった。そもそも、アカーの原告の若者は、愛情について語っていたわけではない。彼らは、なぜ、同性愛者は公共の施設において問題をおこす人物たちとみなされ、拒否されるのか、その見地の是非を問うているのである。一種、牧歌的な開明派の主張は、現代の問題を読解するのに、力不足だった。  それは、まことに画期的な事件だった。なぜなら、われわれの隣の家に住む人々がおこした裁判だったからである。隣の家に同性愛者が住むとは予想だにしていなかった人々は、彼らの声を聞いてうろたえた。彼らが自分と同じように普通の人々だったからだ。彼らがもっと変わった外見を持ち、奇矯な行動をする人々であれば、問題は簡単だっただろう。世間は彼らの奇態を安堵して笑うことができる。だが、彼らはまさに隣の家に住む家族の一員以外のなにものでもなかった。提訴は、その意味で世間を不安におとしいれた。  そして、私も衝撃を受けた。私たちの隣人としてテレビの画面に身をさらした彼らの勇気に感じるものがあったが、同時に、それを報道する側の身も蓋もない動揺に驚いたのである。  そして熟慮のすえではなく、むしろ直観的にその裁判の経過を追わなくてはならないと思った。同性愛者が表通りを歩いたということが、これほどの支離滅裂を呼ぶものであるなら、彼らの裁判がまともに追跡報道される可能性は低い。判決の勝敗が数年後、ごく小さく報道されるのが関の山ではないか。それでは不十分すぎる。彼らがあえて素顔をさらした事情が何かを知りたいと思った。  私はワイドショーが終了した直後にテレビ局に電話をかけ、取材の意図を告げて連絡先を尋ねた。だが、実際に、アカーの事務所に電話が通じたのはそれからきっかり一二時間後である。テレビ局への電話は結局、三人の人々の間でたらいまわしにされた。一番初めの応対者は、 「電話番号はちょっと教えられません」  と断わった。それはおかしい。アカーは東京地裁に提訴している市民団体だとテロップが流されたではないですか。風俗店の電話番号を聞き出そうとしているのではありません。彼らの言い分をもっとよく取材したいだけなのです。そう抗弁すると、ちょっと待って下さい、と言って数分後、別の女性が電話口に出た。同じ用件を話すと、彼女はしばし黙ってから、同じようにちょっと待って下さいと電話口を離れた。最後の応対者が電話をとったのは、電話をかけ始めてからゆうに十数分後のことだった。 「これが電話番号ですから」  彼は声をひそめて伝えた。そそくさと番号を言うと、すぐさま電話を切った。  彼が教えた電話番号にかけると、ある材木屋に通じた。 「うちは、アカーとは言いませんがねえ」  困惑した店主が答えた。テレビ局のスタッフがいかにも秘密めかして伝えた番号は間違いだったのである。  結局、アカーと関係がありそうなさまざまな関係者に電話をかけ、ようやく新中野にある事務所に電話が通じたのは深夜近くだった。  あなたたちを取材したいのですが、とりあえず、事態についてまったく不明なので裁判を傍聴したいのです。なにか、さしつかえがありますか。私はそう切り出した。  電話に出た人は初めての口頭弁論は東京地裁で五月二〇日に開かれます、そこに来てはいかがですか、そう言った。その日にうかがいましょう。私はそう答えた。それからこう付け加えた。私はあなたがたの今回の試みはとても勇気があるものだと思いました。  それは、どうもありがとう。電話のむこうの男性は答えた。  彼らに連絡をとろうと思って果たせなかった一二時間は、いわゆる�普通�の世界に住んでいる私と同性愛者の間をへだてた距離そのものだった。私が軒をへだてた隣に住む彼らと言葉をかわすまでに、結局半日もの時差が存在したのである。  私は、五月二〇日、東京地裁にアカーの初めての口頭弁論を傍聴に行った。  その日、霞が関にある東京地裁七一三法廷は、裁判所の関係者をとまどわせるほど多くの傍聴者を集めた。多くの同性愛者とわずかな異性愛者がいた。おおむねが二〇代の若者だった。原告に立った三人の両親や兄弟姉妹もいた。原告の風間と永田は一五分間の意見陳述で、自分が同性愛者だと気づき、それを受け入れるまでのことを、またアカーに連絡を取り、この世の中に自分以外にも同性愛者がいることを知ったときの安堵と希望を語った。また、日本で同性愛者がおかれている現状を訴えるためには、裁判で素顔と実名をさらすことが必要だったこと、それを彼らの家族も支援していることを述べた。  それからさかのぼること二カ月の三月中旬、私は初めて新美広に会った。アカーの新事務所開きの日である。私が寿司の折り詰めを手にして事務所を訪ねると、そこに二〇人あまりのスタッフが集まっていた。彼らはきわめて若く、元気がよくて賑やかだった。これから行なわれる裁判について、あきらかな期待をこめて話し合っていた。深刻さや屈託は見たところ希薄で、彼らに連絡をとるまで半日を要した私は、その明朗さに好感を抱きながらも、いくらかとまどっていた。  だが、賑やかな語らいをしばらく眺めていると、その中に、どことなく保護者然とした沈黙を保っている人物がいることに気がついた。彼が新美だった。骨太な体格で、勝気な容貌の青年である。無口で、挙措動作がきわめて落ち着いている。そして、その態度が、彼がその場のヘゲモニーを握っていると直観させた。私は、談笑している若者をかきわけて彼に近づき挨拶をし、彼は自分の名前を告げた。 「新美と言います」  私はメモに名字を書きつけた。名前を問うと、彼は短く言った。 「新美はここに一人しかいませんので、名字だけで通ります」  ほどほどに拒否的で、十分に礼儀正しさを保った返答だった。そして、その声音は、異性愛者の女性である私は、とりあえず彼らの�敵�の範疇に含まれることを適切に伝えていた。それは一種の爽快感を伴う経験だった。私はついで、彼がアカーでどのような立場にいるのかと尋ねた。 「事務です。事務処理を主にやっています」  私は彼の顔をしばらくみつめ、それは建前にすぎないだろうと感じた。新美の物腰は事務処理に終始している人物にしては凄味がありすぎる。私は再び聞いた。 「あなたが、このグループのリーダーではないのですか」 「代表者は永田雅司と言います」  永田さんはここにいます? 「今日はいません。床屋の仕事があって忙しいのでね」  あなたは裁判の原告でもない? 「ちがいます。代表者の永田と、大学院生の風間孝と、神田政典の三人が原告です。神田は高校の教師でしたが、提訴に際して、塾の講師に仕事を変えました」  それで、あなたは事務をやっておられる。たった一人で? 「ほかに、大石敏寛と古野直という者が、事務面を担当しています」  そうそう、あなたが最初にかけてきた電話を受けたのは古野ですよ。最初は材木屋にまちがってかけてしまったそうですね。新美はこう付け加え微笑した。めったに表情を動かさないが、笑顔はひとなつこかった。 「あなたは、事務だけをやっておられるだけですか? では、誰が三〇〇人ものアカーというグループをまとめあげているのですか? 仕事で不在だという永田さんですか? それほど多忙な人がまとめ役になれるものですか?」  私がこう尋ねたとき、新美は初めて口ごもった。そのあたりについては、いずれ、と言った。  いずれ、と私も思った。同性愛者の権利をめぐる裁判などという日常なじみのない用件にもかかわらず、取材意欲の湧く相手に出会えて幸運だった。新美という青年と、いずれあらためて話をしよう。聞きたいのは、彼の名前であり、彼がアカーではたしている役割である。そして、同性愛者という未知の問題についての彼の考えを、また、なぜ、私が彼の�敵�の一員になったのかということを聞こう、そう思った。  しばらくたったあとに、私は最後の質問をした。ちょうど自分がシャンティプロジェクトでゲイメディアの取材者に問われたと同じ質問だ。 「日本には同性愛者のネットワークがいくつあるんですか」  こう尋ねたのである。新美は、本格的に活動をしているところはほとんどないと答えた。  彼が自分の名前を教えたのは、それから一カ月あまり後のことだ。新美広と彼は名乗った。あなたを取材してよいですか。取材原稿に、新美広と実名を記載してもかまわないですかと私は問い、かまいませんと彼は答えた。あなたがグループを作ったのですね、と問い、そうです、六年前のことでしたと彼は言った。  そして、新美は日本の同性愛者の事情について、さまざまなことを語った。話し方は必ずしも流暢でも学究的でもなかったが、私は彼が同性愛という風穴を通して、きわめて広範で深い知識を得ていることを知って舌を巻いた。  もっと話を聞かせてくれませんかと私は彼に求めた。当初は裁判の経緯がきちんと報道されないのではという危惧から彼らを訪ねたが、すでに最大の興味は同性愛という未知の分野について知ることに移っていた。同性愛について無知なまま、彼らの社会に対する抗議について関心を持ち続けることはできなかった。  だが新美の同性愛についての知識にも限界があり、前述したように、日本における文献は皆無に近かった。結局、私たちは、空しく帰るのもやむなしという覚悟で、プライドパレードに赴く以外になかった。  そして、シャンティプロジェクトでのパーティーで、ゲイメディアの人々に取り囲まれながら私が感じていたものは、そのような日本での事情と、プライドパレードを二日後にひかえたサンフランシスコの事情との齟齬《そご》だった。  それが私を饒舌にしていた。 「東アジアとアメリカをいちがいに比べることはできません。アメリカで実現しているゲイリブが、日本では実現しないのは進歩の差ではない。文化の格差によるものです。しかし、その格差を知りながら同性愛者が被る社会的な問題を摘出し、裁判の場にそれを持ち込んだ人もいるのです。それが彼です。新美広という二六歳の青年なのです」  私は、シャンティプロジェクトの片隅で、ボーダー柄のTシャツに紺色のジャケット姿で立っている新美を指さした。 「彼は同性愛者が自分たちの権利をめぐる裁判をおこしました。四カ月前のことです。彼と彼の若い仲間がおこした裁判であり、日本の裁判史上初めてのことなのです。私は記者としてこの裁判に関心を持ちました。もし、あなたがたも関心をもったら、記事でとりあげてみたらどうでしょう」  こう言いながら、私はアカーの裁判について説明したパンフレットを、シャンティプロジェクトに集まったアメリカのゲイメディアの人々に手渡した。  実はシャンティプロジェクトの建物にタクシーを横づけするまで、私はパンフレットを配る作業を手伝おうとは思っていなかった。だが、タクシーを降りてシャンティプロジェクトの高い入り口まで刻まれた階段の下に立ったとき考えを変えた。ほとんど英語のしゃべれない新美やその仲間にかわってパンフレットの説明をしようと決めたのである。  私たちの傍らを、プライドパレード委員会の役員が通りすぎていく。このパーティーは、パレードの前夜祭のひとつを兼ねているのだ。そして、もっとも魅力的な同性愛者を選ぶパレードコンテストの受賞者も、この階段を登っていく。受賞者のある人は、異性愛者の私が畏敬を持って見惚れるような美丈夫の男性であり、また、ある人は、その巨躯を美々しい女装で飾っていた。彼が片手でもちあげているスカートは威風堂々と風にはためいた。彼らは、ドラッグクイーンと言われる、異性装をする男性同性愛者の一群である。彼らは、おおむね白人で、そのパーティーの主役だった。  その日の主役である彼らは続々と階段を登り、私たちはそれを階段の下で見上げていた。 「なんか、アメリカ人ってでかいですよね。圧迫感ってあるもんですよね」  新美が言い、私もうなずいた。そして、アメリカ人と伍してシャンティプロジェクトの階段を登ったあと、私も会場を取材しながらパンフレットを配りましょうと、彼に提案した。  とても大きなパーティーのようですから、おとなしく黙っていたら、誰も気づかないでしょう。私もパンフレットを配って、なぜ、日本人の私たちが今日、ここにいるのかを説明してみましょう。そう言った。  このような事情で私はパンフレットを何部か持ってゲイメディアの人々に対した。しかし、同じようなことをしている人々はたくさんいる。パーティー会場を埋めている全員が饒舌なのだ。それが、この日のシャンティプロジェクトでの会合の様相だった。私がしていることはけっして珍しいことではない。会場のあちこちで誰もが自分たちの活動についてアピールしている。そして、私がパンフレットを渡した報道関係者たちも、あいかわらず人あたりのよい笑顔は崩さないものの、少しずつ離れていこうとしている。  そして、最後に残った女性がこう聞いた。 「それで、あなたはレズビアンなんですね」  いいえ、ストレートです。私は答え、彼女はけげんな顔をする。これは初めての経験ではない。異性愛者の女性が同性愛者の取材をしているということは、サンフランシスコを訪ねて以来、出会ったアメリカ人たちに共通した違和感を感じさせる事実だった。  ゲイメディアが発達したアメリカでは、同性愛についての報道は同性愛者によって行なわれるのが普通だからだ。ゲイメディアは、異性愛者によって支配されていた情報媒体から、同性愛者のための独占区域を奪取する形で生まれた。アメリカでは同性愛者と異性愛者は抑圧と被抑圧の二項対立でとらえられている。それは、まことに単純明快な対立構造で、異性愛者は同性愛者を抑圧し、同性愛者はそれに力で対抗するのである。  そのような考えからすれば、異性愛者の私が同性愛の問題について記事を書いていることは、不可解な行為だろう。しかし、それはアメリカでの事情であり、日本のそれではない。とはいえ自国の事情を説明する力量は不足しがちで、われながら情けなかった。説明はいつも、次のような一本調子なセリフとなった。 「日本では同性愛者が社会的に認知されていないのです。差別の有無以前に、一般市民として同性愛者が生活していることが、まだ意識にのぼっていないんです。だから、ゲイメディアというものも存在しない。日本の出版社やテレビ局にもおおぜいの同性愛者がいるでしょうが、彼らが自分たちの問題について語る土壌はないのです。日本とアメリカは違うのです」  サンフランシスコと日本は、同性愛者の生活事情において絶望的なほどかけ離れていた。八〇年代、すでにサンフランシスコ市は、男女を問わず同性のカップルに、異性の既婚者と同じ福祉や社会保障、法律上の権利を保障する法令をさだめている。彼らは養子の斡旋においても異性愛者と同じ権利を持っている。これは二〇年近い追跡調査の結果、同性愛者の養親に育てられた子供が、異性愛者の養親に育てられた子供に比べて、マイナスの影響を受けないと認められたためである。男性二人、女性二人が養子をわが子として育て、堅実な家庭を営むこともサンフランシスコではまれとは言えない。  一方、日本では同性愛とはもっぱら即物的な性的行為の側面でしかとらえられていない。アカーに対して、東京都教育委員会が出した宿泊の拒否理由のひとつは、同性愛者に施設を利用させると秩序を乱すおそれがあるというものだ。この場合、秩序の乱れとは性の乱れのことである。日本では複数の同性愛者がひとつの場に集まれば、必ず性的乱交がひきおこされると信じられ、これは世間一般にも通じる妄想でもある。たとえば同性愛者のことを話すとき、ほとんどの人は妙な笑いをうかべる。性的な話題を扱うさいに日本人がうかべる隠微な笑いだ。  また、拒否回答を出す前、教育委員会は、前述したように、同性愛者も日帰りで、また風呂に入らなければ、特例として利用を認めてもよいという奇妙な妥協案を提示したことがある。同性愛者は、まさに下半身だけの存在で、性行為以外は何もせずに生涯をすごすと思わなくては出せない提案だろう。  サンフランシスコではすでに市民生活を獲得している同性愛者は、日本においては、まるごとの人格を社会に認めさせることさえ難しい。これが現状なのである。 「あえて同性愛者であることを認めれば、よほどの才能や経済力がないかぎり、普通の人づきあいのすべてを失う危険にさらされます。そして結果的に職業と将来の展望も失うかもしれない。日本は仕事の場において、人間関係がきわめて重要ですからね」  不得手な英語での説明は時間がかかる。私はしばらく言葉をきって、あと何を言うべきかを考えた。どう言えば、同性愛者が�結果的に�排除される日本の文化土壌をアメリカ人に理解させることができるのか。 「では、自分が同性愛者であると言わなければ、すべてうまくいくのか。そうでもないのです。日本の企業社会はサラリーマンが結婚して家庭を持つことを前提として成り立っていますのでね。同性愛者は自分がそうだと言おうが言うまいが排除されるわけです。その点、マスコミ人も例外ではないのです」  彼女は儀礼的にうなずいた。 「取材者が同性愛者であればよかったとは思います。しかし、異性愛者である私のほうが負担が少ないのも事実なのです。同性愛者の取材者は、おそらく、取材をする過程で、自分が同性愛者だとあきらかになることを恐れるでしょう。それまでその人が同性愛を認めていなければ、なおさらです」  彼女は微笑した。 「よくわかりました。アメリカでも、最近ではゲイとストレートとの歩み寄りが行なわれています。とてもすばらしいお話だったわ。よい結果をお祈りします」  優雅に別れの握手をすると、彼女は離れていった。  複雑な気分だった。ゲイとストレートの歩み寄り、などという高度なレベルに立っているわけではないことはあきらかだったためだ。私がゲイメディアの人々にパンフレットを配ったのは、その場において、新美たちと私が圧倒的少数派に属したからにすぎない。日本人という少数派だ。同性愛に関して徹底して未開な極東の国から、あたかも漂着するようにして、白人がヘゲモニーを握る大陸へ足を踏み入れた同国人だったからだ。その事実の前には、同性愛者と異性愛者の違いなど、どれほどのものでもないと感じたからである。  その感想は、一部カストロストリートの真実に抵触するものだった。サンフランシスコのカストロストリートは、たしかに異性愛者に拮抗して同性愛者の権利平等を勝ち取った街だったが、それは、同性愛者の中での平等を意味しなかった。あえて言えば、それは白い肌を持つ共和党支持の男性の同性愛者にとっての平等だ。そのほかの人々は、彼らが頂点を築くヒエラルキーの下部に配置された。ヒエラルキーの下層はアジア系が占め、また、女性はつねに男性の下に位置された。すなわち、アジア系のレズビアンが最下層である。頂点に立つ白人同性愛者の男性は、香港あるいはフィリピン移民のレズビアンが、どれほどの貧困に苦しもうが、街路でレズビアン嫌いの男に殴られようが、ともに闘う姿勢はまず見せない。むしろ、自分たちの富の蓄積に忙殺されている。また、ベトナムやタイの男性同性愛者に関しては権利などには無知な、かわいい�坊や�であってほしいと思う一方で、自分たちが異性愛者から二等市民扱いされることには憤激する。  そのなかで、アジア系の新参者である日本人とは何者を意味したか。それは、きわめつきの被差別人種にほかならなかった。  そこにヒエラルキーがあることを、私はプライドパレード委員会の役員十数名が壇上に並んだときに気がついた。彼らはすべて白人だった。最前、私の畏怖の的だった、逞しくて強烈なウィルヒナでさえ、一段下のフロアから、壇上の白人たちを見上げていた。 「ウィルヒナ、なぜ白人だけなの」  さきほどの恐怖を忘れて、私はたまたま近くにいた彼女に尋ねた。 「なぜヒスパニックがいないの、なぜアジア系がいないの」  ウィルヒナは黙っていた。彼女のたたずまいから攻撃性は失せていた。気弱にさえみえた。 「この街の市民の半分はアジア系だというじゃないですか。それなのに、どうして東洋人が誰もいないんですか」  ウィルヒナはようやく口をひらいた。 「見ればわかるでしょう。これが、アメリカの現実というものよ。こんなあからさまな白人優位は、ほかの社会ではもうありえないわ。ゲイコミュニティとは……つまり……極端な人種差別社会でもあるのよ」  別の日、ジョージ・チョイはプライドパレード委員会のパンフレットを指で叩いて言った。役員一七人の顔写真が一覧できるページである。 「白人、白人、白人、白人。黒人がたった一人。中国系なし。日系なし、フィリピンなし、タイもベトナムもない。メキシカンもネイティブアメリカンもなしだ。一七人中一六人が白人だよ。しかもほとんどが男だ。申しわけ程度に白人の女がまざっているだけ。この状態がパレードが始まって以来ずっとかわらない。  そして、彼らは僕たちのことをこういう。|茶色い《ヽヽヽ》坊や。あるいは|黄色い《ヽヽヽ》坊やだ。白人ではないレズビアンのことなどまさに変態扱いさ。  委員会の会長はこの二〇年来かわっていない。もちろん白人の男だがね。その彼が、今年、パレードで出る膨大なゴミをどう処理するかという会議で、どう言ったか知ってるか」  ジョージはドイツ系の委員長の声音を使って言った。 「ゴミ? ゴミならベトナム人か中国人の坊やに片付けさせとけばいいじゃないか」  彼はそれからこう続けて笑ったのさ、ジョージは言う。 「アジア系ってのはゴミのために生まれたんじゃないのか、おい」  ゲイコミュニティは、一方で一般社会に対して自分たちの共同体を奪取したが、その実現を急ぐ過程で、一般社会における�努力目標�のいくつかをとりおとしたのかもしれない。そのひとつが人種差別と性差別の解消だったのだろう。そう考えなければ不自然なほど、ゲイコミュニティの内側には露骨な白人男性の優位主義が根づいている。 「変わらないんですか? ずっと、このままだと?」  私はジョージにウィルヒナに問うた。ジョージは、少しずつは変わるだろうさ、と答えた。僕たちは、ゴミ問題についての委員長の発言に、公式に抗議文を出したんだ。それさえここでは初めてのことだったんだぜ。こう言った。 「彼は抗議文を出されたとき、しまったという顔をした。ざまあみろだ。僕たちが考える能力を持った茶色や黄色の人間だということに初めて気がついたんだろうよ」  そして、私に問われて気丈さを少し持ち直したウィルヒナはこう答えた。 「来年よ。来年を見ていて。あの壇の上に、茶色や黄色や黒色の顔を並べてみせるわ」  来年よ、彼女は私の顔を見て約した。異性愛者の私をいたぶっていたときの表情はなかった。友人に言いわけするような口調で語り、私の腕を軽く叩いた。  新美は、あいかわらず会場の隅に立ち尽くしていた。一七〇センチたらずの身長で、硬くて黒い髪の、無口な東洋人の青年である。賑やかに社交をくりひろげるアメリカ人の中にあって、彼はくすんだ色の小さな石のようにみえた。  サンフランシスコのシャンティプロジェクトで日本人でいることは、なかなか難しいことだった。そして、日本人として語ることは、さらに難しい作業だった。  私がそれに気がついたのは、シャンティプロジェクトのパーティーに臨んでからのことだったが、新美がそれを意識したのは、より早い時期だった。それは、彼の不断のいらだちの原因だった。 「サンフランシスコは自由な街だから、ゲイだから、アジア人だからって差別されることはないんじゃないの」  彼が感情を爆発させたのは、この発言を聞いたときが初めてだった。場所は、カストロストリート近くの中華料理店。シャンティプロジェクトでのパーティーに先立つこと四日前だった。その日の夜、私たちは、GAPAの事務所を初めて訪ねた。GAPAはジョージ・チョイやゲイリー・タンが所属する、アジアと環太平洋諸島出身の同性愛者の市民団体。彼らは、新美をパレードに招き、サンフランシスコ滞在中、諸般の世話役となってくれた。  彼らは親切な人々だった。日本から初めてやってくる同性愛者の青年がとまどわないように、その日、わざわざサンフランシスコに一〇年近く滞在し、GAPAのメンバーと生活を営んでいる日本人男性を二人、事務所に待機させてくれた。新美は事務所でGAPAの活動内容について概略を聞いたあと、その日本人をまじえて遅い夕食をとりに中華料理店へ赴いた。そして、そこで爆発したのである。  彼は、サンフランシスコは自由な街だと言った、一人の日本人に、食事中にもかかわらず険しい声で答えた。 「そんなこと、ないでしょう。まさか、そんなはずないでしょう」  彼のとげとげしい態度に、その日本人は鼻白んだ。なにも気負ってそう言ったわけではなく、一〇年近く前に自分があとにした日本と、サンフランシスコで現在享受している環境との違いを素朴に口にしただけなのだ。それが、故郷の日本からやってきた青年の神経を逆撫でする発言だとは予想もしなかったはずだ。また、アメリカ慣れした彼にとって、そこは参加した誰もが社交的にふるまうべき会食の場である。険のある新美の態度は、彼にとってまことに不本意な反応だった。  彼は会食の間、なるべく新美と話さないように苦慮し、新美もまた、それ以上爆発しないように自分を抑えた。  だが、それも料理店を出て、二人と別れるまでの我慢だった。彼らの姿が見えなくなったとたん、新美は激しく罵った。 「あいつら、最悪だよ。あんた、なぜ、あんな奴らとまともに話すんだよ。そんな必要ないですよ。あいつら、最低だよ」  サンフランシスコは自由な街だなんて呑気な寝言にすぎない。見てきたわけじゃないが、世界のどこにも完全な自由や平等などあるものか。もしあるなら、誰もカストロストリートを作るはずがない。この街は城砦だ。あなたもそう思ったでしょう。  新美は怒りで歯ぎしりせんばかりだった。カストロは、周囲の圧力から同性愛者が身を守るために作った城砦だ。自由がないからこそ、危険があるからこそ築かれた街なんだ。そう思うでしょう。くりかえし言った。  たしかにそう思う。私はうなずいた。カストロストリートは、サンフランシスコの中では、めだって富裕、小綺麗な街だ。周囲の街から区分された城砦のような街と言えなくもない。だが、それほど激怒しなくても、という感想は胸に呑み込んだ。剣幕はただごとではなかった。  私たちは夜半のカストロストリートを歩いていた。その日も寒い日で、スポーツジャケットを通して六月とは信じがたい冷気が肌を刺した。新美は皮ジャンの腕を組み、街路を蹴り立てた。  百歩譲って、カストロには完全な自由があるとしよう。だが、奴《ヽ》が一〇年前に見捨てた日本はどうなるのだ。新美は続けた。いったい奴はどこで死ぬつもりなのか。カストロで一生を送り通せると思い上がっているのか。いつか病を得て帰郷を望んだとき、日本がどうなっていてもよいのか。  奴は重要なことについて何も考えていない。腐ったお気楽野郎だ。新美は激しく言い、私は多少とまどい、黙ってそれを聞いた。彼の怒りの本質をまだ完全には把握していなかったのである。  それに気がついたのは、数日後、シャンティプロジェクトのパーティーの前日に行なわれた、あるディスコでの集まりでのことだ。今回は私も自分の感想を遠慮なく口にした。腕時計を彼の目の前にかざし、文字盤を指さしてこう言った。 「時間は、もう、それほど残っていないんですよ」  新美は腕を組み佇立していた。薄暗い店内でもなお、拒否感が明白な姿だった。彼は、その集まりで、GAPAのメンバーに、踊ろう、一緒に楽しもうと何度も誘われたが、返事さえ返さなかった。そして、私は連日彼が見せる不機嫌といらだちに、半分うんざりし、半分心配していた。GAPAの人々はおよそ愛想がない彼を無礼と感じないだろうか。そして、すべてに不慣れな彼の世話に嫌気がささないだろうか。それではわざわざサンフランシスコまで旅をした甲斐がない。  あなたはサンフランシスコにケンカを売りにきたんですか、それとも仲間を作りにきたんですか。私は尋ねた。もし後者なら、仏頂面をしている時間はないんじゃないですか。 「俺なんか、くるべきじゃなかったんだ」  ディスコの中庭のもっとも暗い一郭から彼の声が聞こえた。中庭の隅に植えられ、盛大に葉が繁った大木の陰に立つ新美の姿は輪郭でしかとらえられない。 「俺、英語もできない。大学にも行ってないし教養もないのに、会う人たちは、みんなインテリだ。話にならない。もっとふさわしい人がきたほうがよかったんだ。日本の事情をきちんと説明できる人。アメリカ人が何を言ってるのか理解できる人。日本人のインテリがくるべきだったんだ」  そのとき初めて、彼の怒りの全容を読みとることができた。日本にいても同性愛と同性愛者について十分な知識を得ることはできないが、アメリカにやってくればやってきたで、文化の画然とした格差に悩むだけなのだ。彼我の差に苦しまない、�お気楽な�日本人になることができれば別だが、新美には不可能である。切ない使命感に燃え、社交好きでパーティー上手なアメリカ人の中で違和感にさいなまれ、きわめて親切なGAPAの人々に、同じ同性愛者としての共通項より、東アジアと北米大陸の住民の間に横たわる埋めがたい差異のほうを大きく感じていらだっていたのだ。 「ねえ、君。僕は日本人の事情がよくわかる気がするんだ。同じアジア人だからね。アジア人は同性愛を白人とか西欧とかの悪習として片付けたがる。チャイナタウンじゃ、今でも、同性愛は白人にかぶれた息子の悪癖なんだ。日本人も、結局、そのとおりなんだろう? 日本人同性愛者が今までめだたなかったのは、いわゆる西洋の流行として軽んじられてきたからだろう? また一方で、アジア的な家族主義に守られて、家庭の問題として処理されてきたからなんだろう?」  中国系のゲイリー・タンがこう問うたとき、新美は返答につまって無表情になった。しばらくしてから、私にこう通訳してくれと言った。 「家族とか社会とかいう前に、日本にはいったいどれだけの同性愛者がいるのかさえわからないと伝えてくれませんか? そして日本では同性愛が人格のレベルの問題としてとらえられていないんだともね」  たとえ、そこに根深い人種差別問題があるにせよ、サンフランシスコの同性愛者は交流の場としてのカストロストリートを、統合の象徴としてのプライドパレードを持つ。また、GAPAのようなグループによって、自分たちに通底する文化背景を確認しあうこともできる。サンフランシスコの同性愛者社会が、さまざまな問題を含みながらも、あきらかに新宿二丁目とは雰囲気が異なる、地に足の着いた共同体基盤をもつのはそのためだ。そして、その基盤に根を下ろして、同性愛者は各自の自己実現をはかろうとしている。  それに比べると、日本の同性愛者はまさに水上に浮いた人々だと、新美は表現した。アカーは、まさにその浮遊する人々を繋ぎ止めるブイとして結成されたが、いったんブイから離れれば、彼らはまた飛散していくのではないか。その不安を持ちつつ、アメリカ人同性愛者の安定に対するとき、新美の口調は自然、とげとげしくなった。 「結局、あなたはGAPAで何をしたいんですか?」  サンフランシスコでの二日目を、わざわざ美容院での仕事を休んで市内案内につきあってくれたゲイリーに対してこう詰問した。ゲイリーは挑発に乗らない。彼は、いたって穏やかに答えた。 「GAPAはエイズの予防啓蒙を行なったり、アジア人移民の同性愛者の実態調査や支援を行なっているが、基本的には、アジア系同性愛者が自分はけっして一人ではないと感じる場であればよいと思っているんだよ。いわば、アジア人の魂の安息所であればよいんだ」  GAPAの会長のフィリピン系アメリカ人ダグラス・ヤラノンに対してはこう噛みついた。 「組織を大きくする気はないんですか? このままでいいんですか? あなたが組織を引率している目的はどこにあるんです」  このままでいいんだよ、ダグラスは答えた。 「なぜ組織を大きくしなくてはいけないんだ。私たちは市民団体であって、政治結社じゃない。ほかの誰かと競り合って勝たなくてはならないわけじゃないんだ。同性愛者の社会に、自分たちなりに貢献できればいい。君こそ、なぜこのままじゃいけないと思うんだね」  ちがうんだ。そんな公式見解じゃなくて、本音を聞きたいんだ。そういう新美の口調は、お世辞にも友好的とは言えなかった。  日系三世のドナルド・マスダには、なぜ、単なる楽天地を求めてサンフランシスコにやってくる日本人に対して何も文句をつけないのかと問うた。 「文句を言わないわけではないよ。しかし、その前に事実を調べなくてはね。だから、僕たちは、日本人社会についての調査を始めている。それが難しいんだ。なにしろ、恥《ヽ》とか身内《ヽヽ》とかいったものを規範とした社会だからね。でも、少しははかどっている」  新美の問いと、GAPAの人々との解答は微妙なところでいつも食い違った。アメリカに根づいて長いGAPAの人々は、同性愛者の共同体を維持するために、すでにそれほど過激な行動や上昇志向を必要としていなかった。彼らはおおむね穏健なリベラリストだった。それがときに新美の態度を荒れさせた。  より卑近な日常生活での食い違いも無視できない問題だった。日常の所作、つきあい、生活行動のすべてにおいて、二六歳の新美広は愚直なまでに日本人の特性を崩さなかった。堅苦しさ、遠慮、抑制の砦にこもり、アメリカの開放的社交との同化を拒否した。  たとえば、彼は一通りの自己紹介と、相手の仕事や役割への礼儀正しい質問を経なければ、けっして会話を始めようとしない。名前も知らない人と親しく口をきくのは、彼にとっては無作法のきわみなのだ。彼は自分を名前で呼ばせなかった。日本にいるときと同じように新美と呼ぶよう求めた。アメリカ式の抱擁を可能なかぎり拒み、おじぎで押し通した。  サンフランシスコで初めてGAPAのメンバーと引きあわされたときの新美の緊張は特筆にあたいした。きわめて社交的に、またひとなつこく投げかけられる質問に、新美はとまどいが高じた無表情で対した。一〇の問いに対して一つも答えなかった。最後にはほとんど無言になり、両手を膝の上にのせたまま身じろぎもしなかった。 「彼は、よほど疲れているのかね」  GAPAのメンバーは心配そうに何度も私に尋ねた。新美の緊張の理由を一言で表現するのは至難の技だと思い、そうね、多分疲れているんでしょう、と答えると、彼らはうなずき口々にこう言った。 「笑いなさい。新美。笑って。楽しそうにして。そうすれば疲れなんかとれるよ」  こみいった説明を避けて、彼は疲れていると答えた安易さを、私は悔いた。新美を窺いみると、彼の表情は不審を通り越して懐疑に近い。初対面の人に、�笑え�と言われる事態は、彼の理解を大きく越えることなのだ。  彼は沈黙の殻にとじこもり、初対面の数時間をすごした。  新美は笑わない。口をひらけば攻撃的だ。いったいどういう男なんだ、という不満もしばらくすると聞こえ始めた。だが、ジョージ・チョイやドナルド・マスダなど、GAPAの主要なメンバーは終始、彼を庇護した。彼らは物慣れぬ新美にある程度手を焼いてはいたが、彼の剛直さとあくまでも同化を拒む頑固さを好もしいと評した。  彼はつきあいやすい人間ではない。だが非常に男らしいではないか。安直に妥協しない。信用に足る人物だ。ジョージやドナルドはそう評価し、新美を弁護した。 「彼はとても若いんだ。若いということは、すぐに結果を欲しがるということだ。そして、劇的な効果を求めるということだ。人生は劇《ドラマ》ではない。しかし一〇〇の退屈を積み重ねることが、たったひとつの成功を生み出すことを、若い人間はなかなか理解しないのは事実じゃないか」  これはドナルドの弁だ。彼は新美に批判的な人にむかってこう言った。 「彼は若いよ、たしかに。だからどうだというんだ。俺たちだって、かつては若かったじゃないか」  新美は、自分がこのような弁護によって守られていることを知らないわけではなかった。自分がもっとも親切なGAPAのメンバーにつっかかっていることも知っていた。だが、同時に自分はけっしてアメリカ人のふるまいに同化しないことも知っていた。そして、それが彼の怒りの中心だった。  彼はたえまない自己嫌悪にさいなまれていたのである。  そして、彼が嫌悪感のさなかに立ち尽しているディスコの一隅で、私は考えつくすべての言葉を動員した。 「あなたはここにくるべきだったと思います。今はどうあれ、帰国したあかつきには、自分こそがサンフランシスコにきてよかったと思いますよ」  このように話した。 「インテリはインテリでしかない。それ以上でも以下でもないでしょう。もちろん、彼らは多分アメリカにあなたほどの違和感を覚えないでしょう。でも、今、必要なのはまさに違和感であり、日常の苦労じゃないですか。日本での同性愛が何かをわかるためには、安易にアメリカに慣れてはだめなんじゃないですか」  大木の陰に隠れて判然としない新美の輪郭にむかって、私は喋り続けた。 「違和感を持たなければ問題の本質をみないですごしてしまう危険がある。それにくらべれば、たとえ、ときには無礼であっても、普通の日本人としての疑問をぶつけるほうがよいでしょう。そのほうが収穫があるにちがいない。収穫が何であるか今はわからないが、そのうちわかるでしょう。可能性があるのならあきらめるべきじゃないでしょう」  それに、と付け加えた。|ダメモト《ヽヽヽヽ》という言葉だってあるじゃないですか。 「そうかなあ」  新美は言い、そうですよ、と私は請け合った。  パレードの日、六月三〇日には、新美も私もへとへとになっていた。アメリカに疲れ、アメリカの同性愛者に疲れ、日本を顧みて疲れていた。  そして、その日のサンフランシスコは私たちの気分と対照的だった。  カストロストリートは奇跡のように晴れ上がったのである。それまでの陰気な曇天が嘘のようだった。サンフランシスコに着いた当日、ジョージ・チョイが予言したように、その日、突然暑い夏が訪れた。雲ひとつない空から陽光はまばゆく照りつけ、目をまともにあけるのも難しい。そして、通常、全市七〇万人の人口を擁するサンフランシスコに、三万人のパレード参加者と一〇万人をこえる観客が集まった。市街の目抜き通り、マーケットストリートに、それらの人々は集中する。この通りで、その日の一一時からパレードが行なわれるのである。沿道には鉄柵が置かれ、ボランティアの監視要員と案内係りが配置された。パレードの終点には運営本部席が設けられ、その前に、マスコミ関係者の写真撮影用の巨大な台が仮設された。パレードの解散地点は広大な公園だ。そこにはパレードに参加した団体の無数のブースがひらかれ、パレード終了後、多くのイベントがひらかれると聞いた。  気温は午前九時で三〇度以上にあがり、熱く乾いた空気の中をおおぜいの人々が闊歩する。マーケットストリート沿いのビルには見物客が鈴なりだ。そして、路上におかれた鉄柵は、歩道を埋め尽くした人々におされて内側に大きく膨らんでいる。久しぶりに浴びる陽光は、それまで陰気な寒さにちぢかんでいた肌を容赦なく照らし、沿道で売っているミネラルウォーターを三本飲んでも喉の乾きはいやされない。  それは、めまいを起こしそうなほど澄明な朝だった。そして新美はこうつぶやいた。 「サンフランシスコじゃ、天気も同性愛者の味方をするわけだね」 「きわめて大がかりなパレードなんだ。だから、それぞれが勝手に動いていたら、かならず迷子になる。いいか。一〇時には、マーケットストリートの時計台の下に集まること。集まったら勝手にあちこちしないこと。そして、順番がきたら、落ち着いて歩くこと。パレードは三〇〇組余りのグループが歩くが、アジア系の僕たちの順番は四〇番台、すなわち一二時半から一時にかけて歩くことになる。長く待つが、歩き終ったあとは好きなようにすればいい。でも、パレードに参加したかったら、歩くまではきちんと規則に従ったほうがいいね」  ジョージはパレードの前日の遅い午前、新美たちが投宿するホテルにやってきて、ことこまかにパレード参加のためのレクチャーを行なった。  彼は褐色がかった肌をした香港からの移民二世だ。アーモンド型の目が美しく、瞳は黒褐色で穏やかな丸顔。中国なまりのあるアメリカ語を、やや高い音調でゆっくりと話す。いつもきちんとした身なりをした礼儀正しい男性である。サンフランシスコの下町で、床屋の母と、市場に勤める父との間に生まれた七人兄弟の六番目で、地元の大学を卒業後、デザイナー事務所に勤めた。GAPAには五年前からかかわるようになり、主に、アジアのHIV感染者・エイズ患者への支援活動である|GCHP《ジーチツプ》(GAPA・コミュニティ・HIVプロジェクト)の世話役として活動してきた。  ジョージはいつも、午前中に新美たちを訪れた。そして、一二時が近くなると忙しげに辞去した。そのあとジョージの姿を見るのは、夜遅くなってからだ。辞去するとき、彼はこう言う。 「さあ、僕の患者に会う時間がきた。では、また」  彼は、GCHPの作業の一環として、エイズの末期患者の食事の世話をしていた。彼が受け持っている患者は、エイズの症状が脳中枢を冒し、自発的な食欲を持つことが困難だ。そのまま放置すれば、たやすく餓死する状態である。ジョージは、この患者に食事を食べさせる仕事を毎日続けていた。  自分本来の仕事と、そのようなボランティア活動を両立させ、さらに、日本からやってきた不慣れな人々をパレードに参加させるという作業は、確実に彼の体力を奪っていた。  ジョージと初めて会ったのは、私たちがサンフランシスコに到着した当日だったが、それからわずか一〇日たらずで、彼の顔には疲労の皺がいく筋か刻まれた。新美たちの投宿するホテルのロビーのテーブルに、疲れ果てた様子でつっぷすジョージを何回か見かけた。 「いいえ、大丈夫。最近、寝不足だというだけですよ。でも、それは、パレードに関係するみんなに共通することで、僕だけのことじゃありません」  ジョージが行なったのはパレードのレクチャーだけではない。彼はほとんど毎日、市内に不慣れな新美たちを、パーティーや会議、打ち合わせの場まで引率した。新美たちの間で、ジョージが、�献身的な彼�と呼ばれるようになるまで時間はかからなかった。そして、気分が荒れがちな新美も、ジョージに対してだけはあまりつっかかることがなかった。ただ一度こう聞いただけだ。 「あなたは、エイズ患者の世話に、なぜそれほど一生懸命になれるんですか? それがボランティアの仕事だからというだけじゃない。もっと個人的な理由があると思うんだ。それは、いったい何ですか?」  ジョージは答えた。  理由は簡単だ。つまりひとごとではないからだよ。僕の担当患者は同じ中国人で、同じ二世で、同じように同性愛者だ。 「しかも、俺たちは香港で知り合いだったんだぜ」  それはこんな話だった。  移民一世であるジョージの両親は、彼がエイズ患者のボランティアをしていることを、ひどく恐怖していた。彼がエイズはそう簡単に罹患する病気ではないと説明してもかたくなな恐怖は解けなかった。  そこで、ジョージはひとつの企みを講じた。床屋を生業《なりわい》としている母に患者の伸びた髪を切ってくれないかと頼んだのである。職人としての矜持がエイズの恐怖を上回った。彼女はおそるおそる患者の家を訪ねてきた。そして恐怖は髪を切る作業を進めるにつれて薄れていき、彼女は長年、客にやってきたように、患者になにくれとなく話しかけた。  その日、患者の意識は幸運にも澄明だった。そして、互いに名前を教え合い、家族について、また故郷について話をするうちに、実は、患者の祖父母の家が彼女の生家の隣で、香港に住んでいた時代には親しくつきあっていたことが判明したのだ。 「あんたは、あの家の人だったの。あの家族に生まれた子供だったの」  母親はそう言って、あらためて患者の髪をなでた。患者はすでに中年にさしかかっていたが、それは子供を愛撫するような手つきだった。ジョージの母は、そのとき、郷里の隣人の家に生まれた男の子の髪をなでていたのだ。 「これ以上、個人的な理由はないだろう? 僕らには、深いつながりがあったわけだ。その彼が病気になって死に向かっているのだから、ひとごとではないんだよ」  新美はとりあえず、その答えにうなずいた。だが承服はしなかった。  何かあると思うんですか、私は尋ねた。隠していることがあるとでも? 「直観でしかないけど、もっとほかに理由があると思う」  だってさ、病人の世話ってね、きれいごとじゃできないもの。社会正義だとかじゃ、たちうちできないもの。新美は続けた。 「病人の世話って、結局、下《しも》の世話のことですもの。まったくきれいごとじゃないんだから」  新美の祖母は彼が物心つく頃から寝たきりだった。麻痺がひどく、口をきくことも自由に寝返りをうつこともできなかった。彼は、その祖母の末期を病院でみとった。小学校高学年のときだ。病人の世話とは何を意味するかを、彼はその年齢で熟知したのである。 「ジョージを疑っているんじゃない。ただ、僕には愛とか正義っていう抽象的な言葉は、どうしてもうわついたものとしか感じられないですね。ひょっとしたら、僕は愛情を信じていないのかもしれない。アメリカ人じゃないからね。日本人にはアメリカ人の�愛�はわからないかもしれない」  ジョージがボランティアに挺身する理由については判断しかねた。だが、アメリカ人の�愛�がなかば不可解という点については同感だった。  パレードは、その�愛�の行進だったからである。それは、なかば恐ろしく、なかばあらがいがたく魅力的で奇怪だった。  マーケットストリートは片側三車線以上の、南北四キロの道路である。始点は市庁舎の時計台で、三〇〇組のグループが路上に待機している。新美はすでにその三〇〇組、三万人の中に呑み込まれ、私はパレードの口切りのグループが時計台の下から出発するのを路上に座り込んで待った。写真を撮るためである。  パレードは一九七一年に始まった。サンフランシスコでの六月の恒例行事になって長い。昔からの参加者である白人は、パレードを歩くことが強い緊張や興奮をもたらした時代はおわったと語る。パレードは、彼らにとってすでに通俗的な観光行事のひとつであり、路上に報道カメラマンやテレビクルーが少ないのも同じ理由だ。  だが、一方アジア系の人々にとって、パレードはいまだに新しい緊張を強いる行事だ。彼らがパレードに参加しはじめたのは八九年、わずか二年前である。参加の直接の原因は、八七年のエイズパニックを経て、それまで同性愛者のヒエラルキーの上部を占有していた白人男性同性愛者の多数が命を落としたことにある。それまで行政や経済に大きな力を持っていた指導的立場の白人を失った同性愛者の共同体は、従来圧倒的下位に置かれていたアジア系同性愛者や、女性の同性愛者の手を借りざるをえなくなった。彼らの協力なしには、同性愛者の共同体の力の維持はすでに困難なのだ。  エイズ以前、パレードは白人の同性愛者による異性愛社会への示威運動にすぎなかった。だがエイズ以降、それはいまだに根深い人種差別の問題をひきずりながらも、より広範囲な同性愛者のためのパレードになりかわったのである。非白人の同性愛者のパレード参加は一九八八年、ネイティブアメリカンを嚆矢とし、翌年東アジア、東南アジア系の人々が加わった。  非白人の同性愛者がサンフランシスコの表通りを歩くようになったのは最近の出来事なのである。彼らにとってパレードは新しい経験であり、それは私にとっても同じだった。  私は午前一一時の太陽に照らされたマーケットストリートの路上に膝をついた。正面には口切りのグループがいる。ダイクス・オン・ザ・バイクス。すなわち、レズビアンのバイカーたちの集団だ。三〇〇人に及ぶ彼女たちは、全員ハーレー・ダビットソンにまたがり、皮ジャンをまとった黒い一群となって出発を待った。スロットルがふかされ、轟音が地を這い熱波のように押し寄せる。  彼女たちはけっして急がなかった。時計台が一一時を打ったとき、ハーレーの大群は悠然とすべりだした。歓声がおこったのは、最後の一列がマーケットストリートを走り出したときである。ダイクス・オン・ザ・バイクスは鋭く口笛をふき、歓声をあげ、初めて速度をあげた。ある人の長い金髪がなびき、ある人はサングラスを短い黒髪の上にはねあげて六月三〇日の太陽のまばゆさに一瞬目を細め、またある人は風にあおられた皮ジャンの前がひらいて、両乳房があらわになった。ジッパーをあけたままのジャンパーを裸体に直接まとった彼女は、ハンドルを握りながら空を仰いだ。  それが始まりだった。そして、彼らは永遠と思われるほど長く続き、無限と思われるほど多様だった。グループはひとつとして同じではなかった。半裸で観客に投げキスをし、路上で性行為のまねごとをしてみせる団体のあとには、熱暑のさなか、ネクタイをしめ背広を着込んだ同性愛者の弁護士の一団が続く。レズビアンを友人に持つ異性愛者と同性愛者の混成団体が通ったあとには、全身皮革でおおったSM愛好者の一群が歩く。  家畜を運ぶ車に白人の男女が積載され、もちろんエンジンはついているのだろうが、浮世離れした美丈夫の黒人がその�家畜�車を太綱一本で悠然と引き、かたわらで無色に近い碧眼のカウガールの集団が牛追いの鞭を頭上で振り回すパフォーマンスは、路上の報道関係者を逃げまどわせた。カウボーイハットをかぶった彼女たちが振る鞭は、長さが二メートルあまり、厚みが一センチほどだ。一撃されれば機材もろとも叩きふせられるだろう。彼女たちが去ったあと、結局、どのような主張の団体だったか思い出せなかった。長い革鞭の空を切る音が記憶をかすませたのである。  剣呑な集団ばかりが歩いたわけではない。トライアスロン愛好者の同性愛者団体が行進すればフォークダンス愛好者も踊った。爬虫類の愛好家と犬好きの人々も行進し、同性愛者と動物の権利を守れとシュプレヒコールした。一方で企業内に結成された同性愛者のユニオンも驚くほど広範囲におよんでいる。地元のアップルコンピューターやリーバイスジーンズはきわめて大規模な団体を組んでいるし、労組員の中の同性愛者団体も多数見受けられる。  身障者の団体も通る。海軍に結成された同性愛者のHIV感染者の一群が、すでに発症した患者の車椅子を押して続く。九一年時、アメリカの軍隊は同性愛者の兵士の存在を認めていなかったので、これはなかなか過激な示威行動といいうる。  子供たちもパレードに加わった。 「私には二人の愛する|おかあさん《ヽヽヽヽヽ》がいる」  そう書いたプラカードを立てた養子の赤ん坊の乳母車が通り、二人のおとうさんと手をつないだ子供たちがあとに続く。一〇代に達した養子たちは、主張をより強く訴えながら行進する。 「私の自慢の娘はレズビアンよ」 「ええ、うちの息子はゲイですとも」  このようなプラカードを掲げた中年男女の大群が通ると、沿道の観衆はとりわけ大きな拍手を送った。  行政関係者も例外ではない。オープンカーに乗った同性愛者の政治家が車中から手を振り、同性愛者の消防士が、また警察官が、さらにはサンフランシスコ市長と市警察本部長が消防自動車とパトカー十数台をつらねて通りすぎる。そして、彼らの車の間を、女装したドラッグクイーンたちが数メートルの竹馬に乗って歩きながら観衆に色とりどりのコンドームを撒く。コンドームを使用して、エイズに罹らない安全なセックスをしようという啓蒙運動の一環である。  最初の数十分、夢中でカメラのシャッターを押し、そのあとは路傍でみつめるばかりだった。当初は、彼らの多様さにナイーブな驚きをもって対したが、まもなく、プライドパレードの意義とは、アメリカでの同性愛者がきわめて広い範囲にわたって存在することの示威運動だとわかり、彼我の違いに愕然としていたのだ。  アメリカは、このパレードで同性愛者の差異をくまなく認め、顕在化し、きわめて過激に主張させようとしていた。パレードが示威する平等主義を、私は畏怖とともに実感し、パレード全体を貫いている欧米型の�愛�を恐れた。そこでは、誰もが誰かを強く愛し、声高に求めていた。高い調子で濃厚に求められる�愛�は、極東の異文化からの旅行者をひるませた。  だが、四〇組台のパレードが始まったとき、なんとか気をとりなおした。この中には、八九年に初めてパレードに参加したアジア系の同性愛者のグループが含まれるはずである。私はマーケットストリートをパレードに向かう人々の群れに遡行して市庁舎にむかった。まだ始点に待機している新美たちと落ちあうためだ。パレード開始から二一年が経過したあいだに規模を拡張し、強力に、また多様になったアメリカの同性愛者集団をかきわけ、私はアジア人グループを求めて歩いた。マーケットストリートの沿道は大変な混雑だ。群衆は続々とその数を増やし、すでにマーケットストリートの全貌をみわけることは不可能だ。  新美は、メキシコ系アメリカ人の賑やかなダンスを踊る集団の後ろにいた。ジョージも、ゲイリーも、ドナルドもいた。彼らは、異様なほど静かに、自分たちの出番を待っていた。さまざまな意匠をこらした、それぞれに主張の声高い人々をかきわけて彼らの姿を見出したとき、アジア系の人々とはなんと小柄な人種かと実感した。黒い髪の背の低い彼らは、またなんと静かな人々だろう。  そして、そのなかでも新美はきわだって静かだった。彼はふりそそぐ陽光のもとで、両足をわずかにひらきたたずんでいた。  ここにいましたか、と私は言い、探すのにずいぶんかかりましたね、と新美は言った。  それにしても、このパレード、怖くありませんかと私は問い、怖い、と彼は答えた。サンフランシスコ到着以来、初めて気を許した口調だった。 「怖くないはずないよ。ここにいると、自分がアメリカにいるんだってことを、実によく思い知らされますよ」  行進が始まると、新美はアカーの名前を書いた横断幕を、もう一人の仲間と持ち、ゆっくりマーケットストリートを歩いた。アジア系の団体は、アカーを含めて五つである。彼らは、身を寄せあうようにしてまとまり、通りの中央を歩いた。穏やかな色彩の小さな集団だった。  新美が初めて目立つ動きをしめしたのは、四キロの行進が終点に達し、そこに設けられたアナウンス席でアカーの名前が呼ばれたときだ。 「次は、日本からやってきたアカーです」  アナウンスは短かった。新美はそれを聞くと同時に、左手を突き上げた。顔をサンフランシスコの空にあおむけて、しばらくそのままでいた。短い黒い髪と汗ばんだ額が正午の激しい陽光に光った。  観客席からぱらぱらと拍手が聞こえた。  そして、全員が全員を見失った。終点にいたって集団を解散すると、行進中の緊張が一挙にとけたかのように、広大なイベント会場にそれぞれが散会していったのである。ある人たちは、イベントを見学に行き、別の人々はコンサートを聞きにいった。無目的に公園をさまよう人もいた。新美もそうだった。私も同じだった。パレードがおわった人々で混雑する公園を右に左に、ただ歩いた。 「ふしぎに穏やかな気分だった。それまで知らない感情だった。  ただ歩きまわっていたんだ。何かを見ていたわけではなく、何かを探していたわけでもない。ただふしぎに穏やかな心をかかえて歩いていたんだ。たくさんの人たちの間をぬけて、こみいった道を何本も歩いた。頭も足も少しふらふらしていた。このまま、どうなってもかまわないやと感じた。心の中で、どうなってもいいやと言ってみた。そして、安堵というのは、こういう気分なのかと思ったよ」  新美は回想する。  アメリカを訪れて以来の不機嫌と不安は影をひそめた。表情から険が失われ、彼は幸せな放心のさなかにいた。ふと気がつくと、トイレを待つ人たちの行列の中で、静かに順番を待っていた。日本にいるとき、新美はつねに短気だった。無口だが怒りっぽかった。行列をおとなしく待つなどもってのほかの行動である。だが、そのときは一生でも待つことができると思った。  何が彼を安堵させたのか。 「世界と自分があれほど折り合っていると感じたことはなかったよ。いつも、俺は折り合いが悪かった。気に入らない世界と肌をすりあわせて気分は荒れていた。  なぜかって、それは俺が同性愛者だからだよ。そして、世界は同性愛者が気に入らないし、俺は世界が気に入らないからだよ。いつも世界にムカムカしていた。  でも、そのとき初めて世界と折り合った。アメリカは違和感だらけの国でもあるし、頭にくる国でもあったけど、少なくともそのとき、あの公園の空気は、俺がこの世界に生きていいんだと言っていた。まわりがすべて同性愛者だからじゃないと思う。そんな単純な理由じゃない。新宿二丁目で同性愛者に囲まれていても、あんな気分になったことはないもの。  あれは、パレードの力だったと思う。パレードはすごく奇妙なものでもあったけど、あれを通じて訴えかけられているものは、結局、同性愛者はこの世界に生きていていいんだってこと。そのたったひとつのことを訴えるのに、あれほど大きなパレードを行なったんだと思う。  世界は初めて俺に生きていいと言った。  あのとき初めて、生きていることに不安も不愉快も怒りも感じないですんだんだ」  日本に帰る前日、GAPAは新美たちのために中華料理店で別れの宴を持ってくれた。その席で、韓国生まれの中国系二世、ツン・ウー・ハンはこう話しかけてきた。 「私はずっとパレードが嫌いだった。異様な見世物だと思っていた。レザーをまとった白人の同性愛者や、彼らの色情狂めいたしぐさは、恥を忘れた人間の姿でしかなかった。SMの人が通ると肌が粟立ったよ。どうだろう。あなたにもパレードはそう見えたのではないだろうか」  そうですね、と即答するのはあまりにも不躾《ぶしつけ》に思えた。一瞬答えをためらったが、ツンは答えを待たずに続けた。 「いいんだ。そう思ってもいいんだ。だが、こういうことも知っておいてほしい。私がパレードに参加したのは二年前のことだ。ほとんどのアジア人にとって、パレードはそれまで参加するものではなかった。無縁なものだとも思っていたね。だから、実際にパレードを歩きながらも、けっしていい気持ちではなかったよ。恥ずかしかった。緊張もした。まったく楽しめなかった。  ところが、後日、ある中国人の同性愛者が私にこう言ったんだ。私はあなたがパレードを歩いているのを見た。それを見て泣いたよ、と。アジア人もパレードを歩くんだ。私たちは一人ではないんだ。仲間がいるんだ。それが嬉しくて泣いたよと」  それから、私のパレード観は少し変わった。あらためて、それはアジア人にとっても必要なものだと感じ始めたんだよ。ツンは言った。私も同感だった。パレードはある面では直視しがたいほど凄じいアメリカの�愛�の開陳であり、別のある面においてはすでに通俗的な観光名物に堕していた。だがそれは同時にきわめつきの新参者である日本人青年、新美広に生まれて初めての安堵と安定をもたらしたではないか。  もちろん、それはGAPAという、アジア人の特性によって結びついたグループなしには成立しない安定ではある。だが、パレードはなんであれ、彼にとって無意味ではなかった。  そして、新美は宴がはねるにあたって、GAPAにむける感謝の言葉を席から立ちあがって述べていた。話し上手とは言えない彼の顔は、おおぜいの人の前で喋る緊張で上気していた。 「新美は僕たちが日本人に対して抱いていたイメージを大きく変えたよ。彼はきわめて男性的で意志的で、きっぱりしている。新美の二六歳という年齢を考えると、彼は本当にがんばっているというしかない」  近くの席に座ったGAPAのメンバーの一人が言った。  新美は翌日サンフランシスコを去り、アカプルコで開催された同性愛者の国際会議に参加して一カ月ぶりに日本に帰った。  出国したとき色白だった肌は、パレードの日の陽光と、その後に続くアカプルコの晴天で褐色に焼けていた。  こうして日本人の同性愛者と異性愛者が、性的指向について手探りした初めての旅はおわった。旅立つとき手ぶらで帰るのもやむをえないと観念していたが、結局は恐れたほど空疎でもなかった。日本を立つ前に比べて、いくつかの認識が増え、いくつかは未知のまま残された。そして旅立つ前、異性愛者の私と同性愛者の新美の間にはほとんど会話がなかったが、旅がおわる頃、私たちは互いの性格と人柄のいくらかを知りあうようになっていた。私たちはすでに無言ではなかった。真面目な話題を主に、冗談めかした話もときに話した。ときたま、きわめて私的な愚痴や打ち明け話さえした。  もちろん、わからないこともあった。同性愛の、また異性愛の本質については判然としなかった。同性愛、異性愛の差異を、アジアとアメリカの文化格差が上回ったためでもある。ジョージもゲイリーもツンもドナルドも、アジア系の同性愛者として語った。アジア人であることは、そのさい同性愛者であることをうわまわる重要事だった。そしてパレードへの参加は、新美がそのアジア系同性愛者の一員であることを再確認する行為だった。それは同時に、同性愛は深くその個人の本質に関わることであると同時に、個人相互を縫い合わせる文化の背景とは無関係になりたたないことを教えた。  同性愛の問題は、すなわち文化の問題だと認識できたことは貴重だった。日本人の同性愛者の問題は、必ず日本社会を横目で捕捉しつつ、その国が生みだしたあらたな問題として解かれなくてはならない。  つまり、それは、�先進国・アメリカでは同性愛はすでに市民権を得ている�というような文脈で解かれてはならない。自国の文化を無視して解読される問題ではないのだ。アジア系アメリカ人についてはともかく、長年、白人が優位をおさめてきたゲイコミュニティと日本の事情は違いすぎる。ハーレーにうちまたがったダイクの大群は刺激的ではあるものの、日本がそこから何かを学びうる光景ではなさそうだ。  同性愛者をどのような社会の一員としてむかえるかという問題は、すぐれて地域的な問題ではないのか。そしてまた現代的な問題でもある。歴史的考察の対象である歌舞伎や衆道の歴史が単線的にのびた先端に、一九九〇年代の同性愛が位置すると考えるのはばかげている。それはあくまでも現代の事情の上で解かれなくてはならない問題なのである。  同性愛者の可能性と困難はともにそこにある。可能性は、それが現代日本という基盤に根を持つことにある。ここ以外でしか解けない問題なのである。そして困難は、その根から枝をさしのべ、葉を繁らせ、小さくとも実となる花をつけるには、日本はあまりにも脆弱な土壌しかもたないことにある。同性愛者が根を下ろすには、土はおざなりに薄い。  同性愛者が異性愛者の隣人として顕在化し、パレードが終了したとき、新美が公園をさまよいながら感じたような世界との折り合いを手にするためには、日本の土壌は暴力的ではないが、酷薄にして冷笑的だ。侮蔑と無視が積み重なった痩せた土地である。  そして、その痩せた土地と、その上にかぼそい根を下ろした若い同性愛者のもとに新美は帰った。すなわち風間孝や、古野直、大石敏寛、神田政典、永易至文、永田雅司たちのもとへである。  帰国後しばらくすると、サンフランシスコのジョージから手紙が届いた。彼の担当患者が臨終を迎えたという報告だった。彼は同じ文面を私とアカーに送ってきた。手紙はアカデミックな言葉になじまない中国系二世として、比較的洗練されない文面である。私は、中国なまりをまじえながらゆっくり喋る彼の口跡と、ともにすごした何時間かを思い出した。  たとえば、ジョージが私を日本料理店に誘ってくれたおりだ。彼は箸を上手にあやつりながらこう尋ねたものだ。 「僕が育った環境と、あなたが育った環境はひょっとして似ているんじゃないかな?」  そうですか? あなたはどういうところで育ったの? 問い返すと彼はサンフランシスコの比較的貧しい一隅ですごした子供時代を話し始めた。こんなふうにだ。 「僕は小さなアパートでおおぜいの兄弟と親戚に囲まれて育ったよ。家は狭くてきれいじゃなかったけど、そういう環境は嫌いじゃなかった。そうだね。僕は生まれた環境にずいぶん影響を受けている。たとえば、わりきることが得意じゃないんだ。そういえば部屋を片付けるのも上手じゃないし、きれいな部屋に一人でいるより、ごちゃごちゃしていてもたくさんの人といるほうが好きだね。つまり、あまりアメリカ的じゃないんだ。  どういうわけか、アメリカ人はわりきることが好きで、孤独が好きなんだよ。だけど、僕はだめだね。仲間と一緒にいないとさびしくてたまらない」  そして、彼は、その�仲間�である香港出身のエイズ患者についてこう書いてきた。 「僕の患者は、もう見ることも聞くことも喋ることもできません。これから訪れる死を、彼が恐怖を持たずに受け入れられるように、そう願いながら看病してきました。でも、最近、彼の別れた恋人が最期を看取るためにニューヨークからやってきました。そして、僕は、彼の元恋人に看護をまかせることに決めました。僕に多くのことを学ばせてくれたホスピスの仕事は、あと数日でおわります」  ここにはジョージの日常がある。俺はそれを羨む。新美は手紙を読んでうめいた。  看護する仲間を持ち、さらにその臨終にかけつける仲間もいて、しかも普通の社会生活もある。このジョージと比べて、日本人の同性愛者はなんと空虚なことか。 「俺と俺の仲間には、子供の頃、親とすごした日常しかない。同じ仲間と作り上げる日常がない。異性愛者と共存する日常はさらにない。思春期に同性愛者であると気がついてからこのかた、自分自身を率直にさらして生きる日常生活はなかった」  それが日本の�形�なのか。  新美はひとりごとのように問うた。  そしてうなずいた。  俺たちは本物の日常ではなく、�カッコつきの�日常しか与えられていない。つまりそれが、日本の形なのだろう。 [#改ページ]   第三章 彼らの以前、彼らの以後  日本で同性愛者が送る�カッコつきの�日常とはどのようなものか。  それは以前と、以後にわかれる。すなわち、同性愛者であることに気づく以前と、それ以後だ。�以前�と�以後�の分水嶺は思春期である。分水嶺を越えたとき同性愛者の人生の景色は一変する。  思春期をむかえる前、彼らは実にさまざまだ。異性愛者がさまざまであるように、同性愛者も多様なのである。  そして、�以後�は�以前�の鋳型に添い出現する。同性愛に気づいたからといって、彼らが一挙に�以前�の鋳型を脱ぎ捨て、同性愛者のステレオタイプに雪崩《なだ》れこむわけではない。これもまた、異性愛者が少年少女期の鋳型を思春期を軸に転回させ、�以後�の人格のもといを作り上げるのと同じだ。  だが、決定的に違う一点がある。  異性愛者の�以後�は、�以前�と連続して成長するものだ。私たちは思春期をこえ大人になる。思春期には基本的にそれ以上の大きな意味はない。  同性愛者は違う。  彼らもまた大人になる。だが、同時に異質にもなるのだ。  具体的には次のような事態だ。  思春期をむかえた同性愛者は、まず自身の資質が周囲の多くの友人、知人、また兄弟、両親と異なることを感じる。最初は、ちょっとヘンな感じにすぎないが、そのうち、それはたしかに異質な手触りを増してくる。違和感は独特のものだ。それまでは、よくも悪くも、周囲の人々と似たりよったりの平凡な少年や少女が、ある日、自分のなかに周囲との決定的な差があることに気づくのである。  それがよいものか、悪いものか、最初のうちは判断もつかないだろう。だが、少なくともそうなりたいと、本人が望んだ結果ではないのだ。個性や癖とも違う、何かヘンな状態、奇妙な違和感である。ふと気づくと、内面に芽生えていた差異なのである。  そのうち、それははっきりとした特徴をそなえはじめる。漠然とした違和感から、あきらかな違いへと移り変るのだ。すなわち、兄弟は、友人は、そして自分を生んだ両親は異性が好きなのに、自分一人は、異性を好まず、性的に同性にひかれるという違いである。  その時点で同性愛という概念を知る人がわずかあり、知らない人が大半をしめる。  だが、知る人も知らぬ人も、まもなく、自分の内面に芽生えた差異がなにかやっかいごとをもたらしそうだという予感を覚え始める。  その予感にとまどう同性愛者は少なくない。彼らの周囲にはそれについて正しく説明できる大人が乏しいのだ。だからといって、友人どうしの会話としても成立しにくい。友人は、異性愛者としての思春期を乗り切るのに精一杯なのだ。  結果、ある人は差異を持つことそのものに恐怖して、また、ある人はそれが暗渠に似た性という領域での差異であることにうろたえて、人知れず身悶えるようになる。  そして、自分にやっかいごとをもちこみそうな差異を内面からふるいおとせないかと、一度ならず試みる。だが、それは微動だにしない。光の届かぬ深い内奥に根をおろしているのだ。  そのうち彼らも、同性愛という根を抜けば、自分そのものが空虚となってしまうことを知るようになる。  新美の仲間たちの思春期も、まさにそのとおりだった。  そして、互いにへだたった土地と境遇に生まれ育った、彼ら二〇代の若者たちは、同性愛という分水嶺をこえたことによって、たくまず、ひとつの共通点をもつことになった。  皮肉なまでの非時代性をである。  一般的に他人との差異に敏感で、�隣の人と同じ�であることを求める二〇代の人々の中で、彼らはあからさまに異なった。そのため、彼らは�隣の人�とまったく違う問題意識をもたざるをえなかった。時代に逆行すると評しても過言ではない、オーソドックスな問題意識である。  私はなにものか。私はいかに生き、いかに死ぬのか。私と私以外の社会はどのように争い、和解するのか。  その問いが彼らを一九八〇年代おわり、新美の仲間として交錯させ、また同じ問いが、一九九三年六月、大石敏寛という一人の日本人同性愛者をベルリンの国際会議閉会式の最後の演説者に送り込んだのだ。  彼らは、その問いを生んだ同性愛者としての思春期を、いかにむかえたか。  それは、まさに、七人七様の人生の風景だった。  例えば、同い年の永田雅司、大石敏寛、古野直は一九六八年、同じような都市周辺部で、次のように異なる�以前�を送っていた。  永田は床屋の二階で育った。神奈川県川崎市幸区。目の前を大きな産業道路が走り、ダンプが通るたびに店舗兼自宅の床屋は揺れた。幼稚園にあがるまでに、店に居眠り運転したダンプが突っ込んだことが二度もある。公害問題が盛りを迎えていた昭和四〇年代前半において、川崎は公害都市のひとつの典型だ。工業団地に囲まれた一郭で生まれた彼の記憶は、まさにスモッグとともにあった。  父母は二人とも床屋である。両親だけではない。彼の親戚は、父方も母方もすべて代々床屋を生業とする一族だ。母方の祖母は神奈川県厚木に二〇人の従業員を使う床屋を経営し、三人の姉妹にそれぞれ川崎、横浜、新橋の店をまかせた。  母は長女で、千葉県船橋出身の父と見合い結婚して川崎に店を出した。まもなく生まれたのが彼である。三歳まで産業道路の交差点角の家ですごし、それから横浜の店に移った。母の姉妹たちは、そのようにして店を回り持ちしていたのである。  父の記憶はきわめて乏しい。父は、永田とうりふたつの顔立ちの、細面で無口な男性だったというが、父がいる風景は数えるほどしか思い出せない。物心がつく頃、母はすでに父と離婚していた。自発的な離婚ではなく、父が見合いのさいに心臓疾患を隠して結婚したという理由で、祖母に強引に離婚させられたのだ。女手ひとつで床屋を大きくした祖母は一族のゴッドマザーであった。誰も彼女に逆らうことはできず、離婚したものの、互いに好きあっていた父母が復縁したのは、祖母が亡くなったあと、彼が小学校一年生になってからのことだ。だが、その生活も長く続かず父は彼が小学校四年の時、発作をおこして頓死した。  永田は父が亡くなる一カ月前の日曜日の午後を覚えている。当時は埼玉県に暮していた。家は一階が床屋の店舗。二階に三部屋。二階への階段を登ると正面に四歳違いの妹の部屋があり、永田は扉をあけはなった部屋で妹に絵本を読んでやっていた。長い間そうして遊び、ふと階段のほうを見て、永田は素頓狂な声をあげた。父親が階段をのぼりきらぬまま、二階の廊下ごしに息子と娘をじっと眺めていることに気がついたのだ。父はそうやって三〇分あまりも子供たちをみつめていたらしい。永田は初め仰天し、そのうち父の姿がおかしくて笑い出した。妹がつられて笑い、父も笑った。三人は長い間笑い続けた。その一カ月後、父は急逝した。  母が父の死から立ち直ったのは二カ月後だ。彼女は店に若い女性を雇い、仕事を再開した。一〇歳の永田は、店を懸命に手伝うけなげな息子として近所で評判だった。少年の彼にとっては、家長である父の死と、その後の生活上の困難が最大の問題だった。同級の男ともだちに対して淡い憧れを抱いた記憶はあるが、それが現実の性衝動を伴わないかぎり、同性愛の問題は永田の意識にのぼらなかった。職人の息子である彼は、現実ばなれした抽象的問題を考えることになじまないのである。  その点で、古野直は永田と対照的だった。古野は、ある時期まで空想の世界にのみ生きる少年だった。  六八年五月に生まれた古野には兄が一人いる。両親は、ある野草の名前を兄につけた。もし古野が女の子として生まれたとすれば名前は�なずな�になるはずだった。両親は子供たちに、野の草花のように清廉な一生を送れと願ったのである。古野はあいにく男の子として生まれ、直《ただし》という比較的凡庸な命名になったが、都会には珍しい野草の名前をつけられた兄こそ災難だった。虚弱な体質で、小さい頃から眼鏡をかけていた兄は、近所の子供にとって格好のいじめ相手だった。いじめる理由はことかかない。古野の家庭は、長男の名前にふさわしく、ずいぶん浮世離れした環境にあったのである。  古野家の家風はあくまでも勤直だ。たとえば、けっして民放は見ない。NHKのみ。新聞は「朝日新聞」と「赤旗」。両親は共産党員。そのため、二人の息子は子供どうしのつきあいの必須科目とも言えるアニメの話題も知らず、学校では親から頼まれた党の運動についての署名簿を回覧していた。これでは、世間からうきあがるのも自然のなりゆきである。  大きな黒目がちの瞳を、武骨な眼鏡でかくした古野は、兄よりは世間との確執を避けやすい名前を持っていたが、それも程度の差にすぎなかった。華奢な長身で、おとなしいが、気分が乗れば陽気なお喋りの一面を持つ彼は、地域の中に数少ない友人をみつけ、より多くの知己を文学作品の中に見出した。そして、少年期に入ると、当然のように夢想を好むようになった。空想の世界で、彼は自由で万能だった。杖をひとふりすれば世界を一変させることができる魔法使いに自らを擬した。ままにならぬ現実はそこでは問題にもならない。古野は、避けえない現実生活における不適応を、夢の世界で解決した。まさに正統的な文学少年の姿勢である。  それに比べると、大石は不適応という言葉さえ知らぬ素朴な環境に育った。彼は六八年一〇月千葉県で生まれ、静岡県の郊外部で育った。父の実家がその土地にある。大石は五人兄弟の下から二番目で、双子の戸籍上の兄だった。上に二人の兄と一人の姉があり、その下に二卵性双生児の兄弟が生まれた。 『天皇陛下の家』。それが彼の生家のあだ名である。とくに金持ちだったわけではなく、単に一階に一〇畳の広間を持つ古い日本家屋だというだけだが、子供たちは、木造の日本家屋の珍しさを的確に言い表わす言葉を持たず、結局、天皇が住むような古い家という素朴にしてユニークな表現に落ち着いたのである。家の近くに大きな食品メーカーの工場があり、大石の家はその従業員を下宿させていた時期もあった。  素朴は地域の特性でもあり、また大石の性格でもあった。父は祖父が経営する塗装会社に勤め、母は病院の事務をとっている。家族一同が顔をそろえる日曜日の朝ごはんはふかし芋、昼ごはんはラーメンに決まっていて、幼児の大石はそれがむしょうに嬉しかった。彼は客観的にみればささいなことを素朴に喜び、わずかの楽しみで無邪気に満足する子供だった。  双子の弟とは外見、性格、行動のすべてにおいて対照的だったが仲はよかった。小柄な弟はスポーツ少年団に入りサッカーに熱中し、大柄な大石は姉と一緒にピアノを習い、運動会では五〇メートル競走の選手だった。弟は我が強く主張を通すためなら殴り合いも辞さなかったが、大石はものごとを要領よく丸くおさめるほうを選んだ。弟は好悪がはっきりし、勉学においても負けず嫌いの優等生だったが、大石はよほどのことがないと他人を嫌わず、成績を上位におしあげることははなから諦めているようなところがあった。  大石のあまりにも平和指向型の態度を女っぽいとからかう友人もいないではなかった。敏寛という名前のかわりに、|トシコ《ヽヽヽ》とふざけて呼ぶ級友もいた。だが、そのふざけかたが度を越すと、ケンカの強い弟が殴りかかって兄をかばった。それは、大石にとって嬉しいというより不思議な光景だった。弟がむきになるのはありがたいが、トシコと呼ぶのが友人であれば、彼は深く傷ついたりはしないのだ。同じ土地で育ち、幼稚園も小学校も一緒という間柄に、深刻な嫌悪が生まれるはずがない。そう信じていた彼は、自分のために地面をころがりまわってケンカをしている弟をはらはらと見守っていた。  そして、中学にあがったあとも彼は自分が男女どちらを好きなのかを知らなかった。性的な記憶として、小学校高学年のときカブスカウト活動でキャンプに行き、みんなでシャワーを浴びたとき、自分の体にあらわれた第二次性徴を他人がみとがめるのが恥ずかしいと感じたことを覚えているのみである。そのとき、彼はわずかに体をひねって体毛を他人の視線から隠したが、それも強烈な羞恥のためではなかった。ほとんどすべての少年が経験する淡い恥じらいの感情によるものだといってよかった。  彼は自らの性に気づき、結果、滑らかであるべき世間との違和感に気がつくまでにはかなりの時間を要した。彼は自分を普通だと信じ、自分を嫌悪する人々が出現する可能性など想像もしなかった。  もちろんすべての同性愛者が、大石のように自分の本質に対して意識希薄で楽天的だったわけではない。  対照的な人々もいた。  たとえば永易至文だ。彼は思春期よりはるかに早く、自分が同性愛者だと気づいた。大石の二歳年上、一九六六年夏に生まれた永易にとって、同性愛であるという意識は自意識の始まり、個人の歴史の始点とほぼ重なっていた。痛ましいほど明晰な認識だった。  まだ保育園に通っている頃だ。永易はアニメのヒーローで勃起した。タイツをまといブーツを履き、マスクをかぶったヒーローである。たとえば�仮面ライダー�などだ。ヒロインには反応しなかった。ヒーローにのみ反応し、勃起をズボンの上から手で押さえると一層気持ちがよくなることも知るにいたった。  永易の祖父は愛媛県の瀬戸内沿いの中規模都市で豆腐屋を営んでいた。一族はすべて近隣に集まっている。そのあたりで豆腐屋の屋号を知らない人はいない。  市は工業城下町である。一九世紀なかば、住友が鉱山を拓き産業化した。市内の住民のほとんどがなんらかの形で住友と関連を持つ。  永易の生家は市の郊外、海沿いの農村地帯にあった。車で数分走ると瀬戸内の海浜に出る。四国と本州中国地方をへだて、近海魚の豊饒な漁場である瀬戸内海は、高湿度の夏の午後、鏡のように凪ぐ。耐えがたい酷暑、無風の一刻がすぎ、再び風が海沿いの街路をそよぎ始める夕暮れ時には、さざなみの立つ明るい墨色の海面に夕陽が迫り、残光を背負って美しい影絵のようにたたずむ釣り人が堤防に散見された。背後をふりかえれば、四国特有の高低二段構えになった山岳が霞みがかった光を通して眺められる。再び湾に目をやれば海原はあくまでもたおやかに波立っている。  彼の母方の家族は、絵葉書の情景にも似た瀬戸内沿いの土地に古くから根づいていた。父方は郊外の農家の出身である。そして、この濃い血縁がからみあう土地柄で、永易は四歳たらずのとき自らの性のありように気づいた。  大石とはちがう理由で、永易の家庭に波乱はなかった。母は十二分に優しく社交的で、父は好人物の家長だった。そして彼は物心つく頃から、ぬきんでて頭がよかった。二歳きざみで弟が二人あったが、彼らは兄に似ず平凡で、永易は余裕をもって弟たちとつきあった。彼の家はまさに安定した家庭の見本である。  もし、そこに一片の齟齬があるとすれば長男が同性愛者であることだが、永易は内側の葛藤を外に見せない自制をすでに持っていた。  自制心は、彼が人一倍早く感得した自らの性の感覚にも歯止めをかけた。アニメのヒーローに勃起した保育園の時代から、彼は快感とともに、なにか非常にまずいことを抱え込んでしまったという意識を持っていた。勃起に対しても、またそれをズボンの上から押さえていることについても、それは人に見られてはならないこと、誰かに言ってはならないことだと思った。秘密なのだと感じ、かえってそのためにアニメ番組に興奮し、その感覚を人に気取られることを畏怖した。  絵葉書のように美しい瀬戸内の風景の中で、永易は痛ましい自意識の塊だった。その中心には言葉は与えられていないものの、驚くべき早熟さで捕えられた同性愛の核心があった。少年の永易は、優秀さというコインの裏側にきわだった疎外感を隠しもっていた。  永易の知的優秀さを残して、疎外感だけを除き陽転させれば風間孝の性格になる。永易の一歳年下、一九六七年に生まれた風間孝は、彼と実によく似た家庭環境にあった。だが、風間は両親の自慢の長男、弟妹のよい兄貴として、深刻な悩みとは無縁に生きていた。  風間も永易と同じように血縁の深い土地柄で育った。群馬県の郊外都市である。両親は土地で酒屋を営んでいた。二つ違いで妹が生まれ、七歳下に弟が生まれた。風間はライトバンで配達にまわる父の助手席に乗るのが好きだった。父は新潟から上京後、酒屋の見習いを経て、当地生まれの母と結婚し店をかまえた。人当りがよく、なにごとにつけてもほどがよい人物だ。日曜日の朝はまだ幼い長男を傍らに座らせてテレビの時事放談を見ていた。週日の夕方にはワンカップ大関を酒屋の横で立ち呑みする会社帰りの客と、景気や政治の話をするのを好んだ。議論好きだが、基本的に中庸で人なつこい。  風間はこの父によく似ていた。父親っ子と言ってもよく、幼い頃は、どこにでも一緒について歩いた。父の議論を横で聞いていたので、社会問題への関心は年齢不相応に高かった。小学生の頃に細川隆元の本を注文購入した記憶がある。だが、議論好きでもけっして他人に嫌われない父に似て、風間のこのような行動も、生意気な早熟とは受け取られなかった。コツコツとよく勉強をするが陰気ではなく、はきはきものを言うものの攻撃的にならない、闊達な優等生として周囲に受け入れられた。  その反面、この酒屋の長男が実は早くから性にめざめていたことに気づく人は少なかっただろう。永易と同じように、最初の記憶は幼稚園の頃だ。アニメに勃起した永易より、風間の記憶はリアルだ。前後の事情はさだかでないが、ある日、彼は男のともだちと裸で抱き合っていた。それはとても楽しい遊びだったので、彼らはいつまでもじゃれあっていた。そのうち、親がそれに気づき、頭ごなしにそんなことをするんじゃありませんと怒鳴り、彼らはわけられた。  風間は、その時点で、自分の行為に罪悪感を持っても不思議ではなかった。抱き合って楽しかっただけでなく、大人に激しく叱責までされているのだ。だが、彼はこの経験によって、まったく傷つかなかった。性に関しては早熟だったが、自意識のとりこになることはなかった。誰の肌にも触れず、ただテレビの画面にうつった映像に勃起しただけで、憂鬱な自意識と畏怖にみちた罪悪感を抱いた永易とは好対照である。  男ともだちと抱き合っていたものの、それが周囲から排斥されるような、珍奇な性的興奮から行なわれた行為だという意識がまったくなかったからだ。自分が行なう性的な行為と、同性愛という異端《ヽヽ》とはまったく隔絶されていた。親からどれほど叱責されても、同性愛者としての自意識がかすり傷ひとつ負わなかったのはそのためだ。  彼は、自分の人生に孤立を予想しなかった。つねに、多くの親しい仲間とともに歩めることを疑ってもみなかった。地方都市の小中学校で成績面では一、二番をあらそい、生徒会ではリーダーシップを発揮して会長をつとめていた。彼はきわめて幸せな少年ということができた。  風間の無意識の幸福を根こそぎ覆し、同性愛者の少年の不幸を一挙にになわせれば、それは神田政典になる。彼は、幼い頃からけたたましい変り者として生きる以外になかった。一九六五年に千葉県で生まれ、周囲と折り合わぬ性格から仕事先を転々とかわる父の気まぐれによって引越しを繰り返し、物心がついたときには東京の最辺縁の町に落ち着いていた。  上に兄、下に妹がいる。兄弟は神田にとって、その程度の意味合いの存在にすぎない。情緒的な家族の連帯は薄く、父親にいたってははっきりと嫌悪の対象だった。父は建築士の仕事のかたわら、近所の子供相手に空手を教えている。無償で道場をひらいているため、近所では評判がよかった父は、自分の長男と次男も空手の練習に参加させた。そして運動神経のよい長男には満足したが、次男には失望した。反抗的ではないが、いやいや練習に通っていることが明らかで、第一、運動神経が鈍い。父はいつまでたってもうまくならない次男にあきれ、一方、神田は道場での時間が早く過ぎ去ることを待っているだけだった。  神田は、気分次第でやにわに怒号する父を嫌った。外面はよいが、家族の生活に対しては無責任な父に一貫して親近感をしめさなかった。安定した仕事を持たない夫をもって苦労する母には同情していたが、母親のほうは、次男がなぜほかの男の子のように元気がよくないのかといぶかっていた。  神田は家の中にある時計や宝石、化粧品などをもてあそぶのが好きだった。時計を何度も分解して壊し、母をひどく困らせた。母は息子に外で遊んだらどうなのと勧めたが、彼は外に出るのを嫌った。それでも、小学校の級友に、むりやりソフトボールに誘われたことが一度ある。そのとき彼はこう言った。 「僕はソフトボールが下手だと何度も言ったのに、君たちがどうしてもと無理を言うからきた。だから僕は努力はしない。努力をするのは君たちのほうで、このゲームが僕にとって楽しくなきゃ嫌だ」  このような正論が現実にむくわれるはずもない。すぐさま、彼はへたくそだと罵られた。泣いて家に逃げ帰り、以後、ぜったいに誘いに乗らなかった。だが、ソフトボールに誘われようと誘われまいと、神田が集団になじまない子供であることは明らかだ。母が、仕事の安定しない父の稼ぎを補うために近くの工場のパートに出ていたので、小学生の彼は学童保育を受けていたが、そこでも異質だった。ほかの子供たちは、おとなしく昼寝や読書をする時間をどうやって中断させるかに熱中していたが、彼がやりたいことはおとなしい昼寝であり読書だった。学童保育の仲間が駄菓子屋で万引をしようぜ、などと計画していると、彼は嫌悪で死にそうな気分になった。  神田が求めたのは、静かにしていたいという望みが、周囲に尊重されることだけだった。自分が自分らしくあることを邪魔されぬことだった。だが、それは却下された。理由は、ただ彼が元気であるべき男の子だからである。彼はつねに孤立していた。まわりに迷惑をかけるわけではないのに、なぜ自分の要求は拒まれるのか。ただ静かにしていたいだけなのに不当ではないか。神田は主張した。  だが、周囲からみた場合、彼はけして静かな存在ではなかった。率直に言って、人騒がせな少年だった。小学校高学年で、彼は肩まで髪を伸ばしていた。当時は一九七〇年代なかば。長髪が世間ではばをきかせていた時代である。小学生の神田は、理由はわからないながら、長髪が好きだった。周囲にそんな髪型の人がいないことも、あえて髪を伸ばす理由になった。そして、声変りの時期がまだおとずれていなかったので、髪の長い神田は、よく女の子にみまちがわれた。  高い声と、かわった髪型で、彼は異端を排除する世間に対していつも怒っていた。�単純カッカ�というのがあだなである。ちょっとしたことで、すぐカッとして怒る変り者が彼だった。  しかも物心つくやいなや、神田は女言葉をしゃべった。一人称をわたしと言い、それをくれ、と言うかわりに、それをちょうだいとしゃべった。語尾は�よ�であり�わ�だった。誰のまねでもなく、教わったわけでもなかったが、聞きまちがいがないほど明瞭な女言葉である。すなわち、周囲と穏当にまじりあう可能性がなかった。暴力的でも不穏当なことをするわけでもないが、男と女のステレオタイプを順守する世間にとって彼はあきらかな厄介者だった。  神田が女性的な言動と、妙に論理的な攻撃性で周囲からきわだっていたとすれば、それを男性的に、そして肉体派に反転させれば新美広になる。  彼は、町の荒廃から生まれた。やすらぎも、うるおいもなく、肌を刺すような緊張と、救いがたい貧しさと、その結果としての暴走が彼の故郷だった。新美は神田と同じ東京の最辺縁で育った。だが、神田がより安定した新興住宅地域で育ったのに比べて、新美が生まれたのはアメリカ軍の基地近く。国道一六号線沿いのその地域は、外国人労働者問題から、貧困、暴力、公立学校の荒廃まですべての都市の問題が集約され、救いのない渦をまいていると言われてきた。  彼はそのさなかに生まれた。神田の場合、形骸的に保たれていた家庭さえ、新美は持たなかった。彼は物心ついてしばらくしても、自らの父と母を肉親とはとうてい思えなかった。  父の一族は浅草の魚屋。母は韓国の釜山生まれで引き揚げ後、北九州で育った。自分のことを九州弁のならいとして�オレ�と呼び、それにふさわしく気性はきわめて激しい。彼女は中指に大きな紫色の珠のついた指輪をしていた。その珠は新美にとって痛みの象徴である。母は気性の激しさのままに、しばしば息子を指輪をはめたこぶしで殴った。一方、父は男らしいとも酷薄ともいえる美貌の持ち主で、そのような風貌を持って生まれた男のならいとして寡黙で、子供は人生の邪魔とでもいうかのように、一切、あたたかい関心をしめさなかった。  そのような父母の間に長男として生まれた新美は後年、同性愛者は親子の希薄な人間関係によって作られるという陳腐な俗説を知ったとき、思わずうなずいたことさえある。彼の家庭は、それほど徹底的に情愛の希薄な雰囲気だった。  両親は大型団地の近くに魚屋を開いていた。店はおおいにはやり、店舗も一時は三軒に増えたが、家業の繁盛の一方で、あたたかい家庭を営むことは両親ともに苦手だった。苦手という意識さえなかったかもしれない。商売の儲けはもっぱら浪費に使われ、子供の教育や一家団欒、また、多少なりとも、環境のよい場所に住いをかまえる資金として使われることはなかった。  両親はあきらかに、子供を育てるに足る家庭の形を知らなかった。父は休日をギャンブルですごし、浮気沙汰もたびたびおこした。母は息子を実姉と実母が同居するアパートに預けて週日は仕事に熱中し、たまの休みは遊びで費やした。  新美は実家と祖母たちのアパートを転々とし、何が家庭の生活かを知らずに育った。外遊びの嫌いな、したがって友達づきあいも避けたがる、極端な偏食癖をもつひよわな子供だった。二歳下に妹が生まれ、彼同様実家と祖母たちの住居を転々として育ったが、彼には妹がかわいいという感情が湧かなかった。少年期以降、顕著に発揮される男性的な側面は、幼児の頃にはまだあらわれない。その頃の彼の望みは、家の中で一人遊びをしたいということだけだった。  荒廃は家の中にあるだけではなかった。家庭の外も、子供が健やかに育つ最低限の環境をもたなかった。新美が小学校に就学してまもなく、家業はかたむき始める。両親のおおざっぱな性格は、店舗を規模拡大するのにむいていない。実家近くに支店を三軒出したのが最盛期で、まもなく父は共同経営者に資金を持ち逃げされ、巨額の借金をかかえこんだ。  新美は、住み慣れた祖母たちのアパートから、借金をかかえた両親のもとへ帰り、あれこれと返済の手立てを企てる父母の計画のままに、転居と転校を繰り返す。とうてい安定した友人関係を築ける状態ではない。そのうえ、転校生が被りがちな暴力による通過儀礼が転校のたびにふりかかった。彼は�新入り�の力を試そうと集団で襲いかかってくる暴力に、何度か負け、何度か勝った。一週間も寝込むほどのケガを負ったこともあれば、相手に同程度の返礼でむくいたこともあった。  その経験は、新美の心身にいくつかの変化をもたらした。一見きわめてひよわに見えた偏食児童が、たびかさなるケンカを通して誰よりも精悍な少年に変わった。そもそも新美は体格がよかった。運動神経も抜群によかった。いったん自分の力にめざめると、彼は早々にケンカのコツをものにした。  また、新美は敵意に満ちた環境に肌をさらすことによって、集団心理を一瞬のうちに把握し、操作することを覚えた。新美が転校を繰り返した東京の北西端の一帯は、一九七〇年代後半、最悪の学校の状況にあった。校内暴力は日常茶飯。無傷の教室はまれで、半壊状態の校舎さえ珍しくなかった。何にもまして生徒の精神が荒れはてていた。  新美がもっとも長く学校生活を送った土地は、当時、あまりにも悪名高かった暴走族、ブラックエンペラーの発祥地で、彼の住いがある団地は�族�の巣窟だ。ブラックエンペラーは国道一六号を、また青梅街道を暴走するだけではなかった。学校の校舎の中をも暴走した。バイクの爆音が聞こえ始めると授業は自動的に放棄され、生徒は教室を飛び出した。それは�族�どうしのケンカに加勢するためだったり、教室を襲ってくる�族�のパイプやチェーンから逃げ惑うためだったりした。いずれにしても誰一人、机に座っている生徒はいなかった。  少年たちを脅かすのは、仲間の暴力だけではなかった。暴走族取り締まりの名目によって警察が少年たちに暴行を加えるのも日常茶飯事である。その地域に住む、ケンカの強い少年が暴力沙汰から逃れることはほぼ不可能だった。  新美の神経は、このような環境の中で生き残るために一種動物的な勘をそなえはじめた。彼はいつケンカやリンチが勃発するかを、登校した瞬間の空気で察知した。暴力が、一匹狼である自分に向くのか、校外の集団に向くのか。それは回避可能か、うまく立ち回れば矛先を自分以外の誰かに向けられるのか、あるいは重傷を負う覚悟で受けて立つ以外にないのか。判断において、彼は正確無比だった。人間の一面の真実を知っていたからだ。  人は扇動次第でどんなことでもやってのける。  新美広はこの殺伐とした認知だけを武器に思春期に突入した。それは残酷なほど正しく、同時に、少年が抱く世界認知としてもっとも悲惨なもののひとつといえた。  だが、そこにふたつの救いがあった。  ひとつは祖母だ。  祖母は、新美の乏しい感情生活を唯一うるおす水路だった。新美は、母性や愛情という言葉を耳にすると、今でも反射的に祖母を思い出す。祖母は理屈ぬきに彼を愛し、優しい感情を与えた唯一の人物であるからだ。祖母は愛情を行動でも言葉でもなく無形の感覚として彼に伝えた。これは比喩ではない。事実上、彼女は口がきけず、身動きすら容易にできなかった。  祖母は、新美が物心ついた頃には、すでに脳卒中で寝たきりだったのである。  だが、寝床に横たわった祖母は幼い新美に、なにがどうあれ、孫を愛し無条件に受け入れていることを感じさせた。まともな対人関係を築くに足る環境を与えられなかった新美が、それを記憶に残すことができたのは幸運としか言いようがない。  祖母は、その後、症状が重くなり病院に収容された。そして、ケンカに明け暮れていた新美にとって、もっとも楽しい時間とは、土曜日の午後、祖母が入院している病院に店一番の新鮮な魚を持って見舞いに行き、昼飯をともにすることだった。彼は食事の介護をし、おまるをとりかえ、寝返りをうたせた。そうしながら、祖母の症状がそれほど悪化しない前、まだアパートの布団に横たわっていた頃の記憶を愛しんだ。その記憶の中で、幼児の新美は彼女の布団に一緒にはいり、孫を抱くことも話しかけることもできない祖母の顔をみていた。  もうひとつの救いは、彼が同性愛者だったことである。  性のめざめはけっして早くなかった。だが、それはおとずれると同時に、彼の関心をあやまたず同性に向けた。恋人を作ったのは中学二年のときだ。同級生の一人だった。彼は同性への愛情を古野のように夢想の中でもてあそばない。同時に永易のような痛ましい自意識とも無縁だ。彼は自意識の土壌となる他者との人間関係網を十分に持たなかった。  彼にとっての愛情とは、相手を抱き締め射精にいざなうことである。同性愛という言葉は知らないが、彼は自分が男を性的にも心情的にも愛している事実をはっきり知っていた。  それが彼を救った。  中学入学時で、彼はすでに暴走族の構成員の一歩手前にいた。彼の前には、暴走による死か、暴力団の下部組織にくみこまれる将来がひらいていた。だが、彼は結果的にその道を選ばなかった。 �族�は暴走し、鉄パイプで武装するだけではないからだ。彼らはきれいな女の子を戦勝品のように侍らせ、異性との性にも暴走する。そして、�族�の男と女がくりひろげる、粗暴にして徹底的に異性愛指向の空気は、同性愛者の新美の嘔吐をさそった。彼は半裸の女を両脇に抱いてバイクで疾走する男根の群れのような�族�を嫌悪した。  新美広という少年は、異性愛者であったならいずれかの時点で命を落としていた可能性が高い。彼はそれほどまでに危険な環境にあって、自身、危険な存在だった。  だが、彼は死なず、暴力団の闇にも溶けなかった。  同性愛者だったからだ。  そして、同性愛者たちに思春期が訪れた。�以後�の季節だ。一九八〇年代なかば前後のことだった。  彼らの�以後�はどのような光景だったか。  一九八六年の春。たとえばこのような光景があった。 「どう言えばいいのかわからん。なんや、お前のことが好きでたまらん」  永易至文はこう言って、相手を抱きすくめた。 「好きなんや。お前が好きなんや」  抱き締めた相手の唇に唇が触れた。思考はすでに情感の奔流に没し去った。何をどうすればよいのか、一切考えが及ばない。彼は一九歳で、初めての接吻だった。体と心を寄せ合う方法を接吻以外に知らず、ただ好きや、たまらんのやと言い続けた。  永易は岡山にいた。相手の実家に立ち寄ったのである。永易はその年、東京にある国立大学に合格していた。相手は大阪の予備校の同級生である。永易は関西の大学を受けた彼の合否発表を見るために岡山に同行し、その日、ひとつの床の中にいた。  彼とは、予備校時代、もっとも仲のよい友人だった。読書家だが、闊達に喋る、顔立ちが知的に整った男性である。親友だと信じ込んでいた彼に、自分が強烈な恋愛感情を持っていたことに気づいたのは、別々の大学を受験し、合格後は関西と関東に別れなくてはならない事態を目前にしたときだ。  それまでポスターなどで男性の半裸を見て興奮したことなどはあっても、田舎の大秀才としてすごした永易には、自分の性的指向を生身の人間に向けるという発想が欠けていた。同性愛を意識するのは早かったが、現実的に誰かを好きになることを知らなかったのである。  それだけに、初めて恋におちたとき、彼はほとんど時代錯誤を思わせる悲恋のとりことなった。それまで他人を性的に好きになったことがないので、彼は、恋愛とは、具体的に何をどうすることなのか想像できない。思いが切迫するあまり、性衝動すら感じなかった。ただ、別々の大学にひきさかれる前夜に、胸にあふれる恋慕を打ち明けることしか考えなかった。打ち明けたあとは、当然のように別れが訪れると信じて疑わなかった。  そして、恋人を抱き締め続けた夜が明けると、永易は岡山駅で彼と別れた。今後出会うことはないだろうと信じた。いい思い出をくれてありがとうと、涙をこらえて言った。  絵に描いたような悲恋など世の中にありえないと知ったのは、それからほんの三カ月後だ。永易は関西の大学に行ったはずの彼が、実は東京の大学にいることに気づいた。彼がなぜそれをひた隠しにしたのか、永易は即座に見抜いた。彼は永易が同性愛者として自分を愛していることを恐れ、厭ったのだ。  三カ月前の悲恋は、たちまちにして修羅へと姿をかえた。たえまなく血を吹き上げる自尊心をかかえて、永易は彼にもう一度会いたいと懇願した。拒否されて懇願は哀願にかわった。  さらに拒否されたとき、永易の自尊心はすでに血を流さなかった。すでに壊死《えし》寸前だった。しかもなお彼は生き続けなくてはならない。彼は大学の寮にとじこもった。その国立大学の学生寮は、これまた、やや時代錯誤を思わせる自治委員会によって管理されていた。彼らは政治議論にあけくれ、インターナショナルやシュプレヒコールの声が聞かれた。  ちなみに、これはその大学だけの特質ではない。現在、二〇代の大学生によって行なわれている政治活動の全般的傾向なのだ。その雰囲気は、学生運動は七〇年代のおわりを以て命脈を絶ったと信じる人々を、ややもすれば愕然とさせる。推測するに、学生運動が七〇年代なかばに衰退し、その後に続いた私も含む世代が、いわゆる�全共闘世代�への嫌悪感をともなう無関心に徹したため、かえって�全共闘�の方法論は一種の歴史の化石として、はるかに若い世代に、二〇年前そのままの形式を保ってひきつがれたのだろう。  ともあれ、生まれて初めて性的に男性を好きになり、愛すると同時に失恋した永易が閉じこもる場として、その寮は最適の条件をそなえていた。そこには浮世の風はめったに吹きこまない。彼らは寮の大部屋で、ひとつの大鍋で作った料理を全員で食べ、消費と恋愛沙汰にあけくれる�昨今�の学生を軽侮してすごした。  だが、その一人、永易至文が実は、恋愛沙汰の痛手そのものから寮に逃避したことを知る人はいなかった。ましてや、その恋愛の相手が男性であることは想像だにされなかった。  そして、その四年前、一九八三年のアメリカ、ユタ州・ソルトレイクシティでは、次のような悲惨な思春期の光景が展開された。  神田政典と、彼の留学先のホストファーザーのいる光景だ。ホストファーザーは怒り狂っていた。そして神田は彼の顔をみあげて身震いしていた。 「お前はゲイなのか。もしそうなら日本に強制送還してやる。学位もあきらめることだな。もしこの家にいたかったら、ゲイをなおすことだ」  ホストファーザーはこう怒鳴った。  神田は一七歳の夏のおわりにこの家にやってきた。モルモン教徒の一家である。神田自身も、日本にいるとき、すでにモルモン教徒として受洗していた。中高生に、英語を無料で教えてくれる教会が神田の家の近くにあり、英語好きだった彼はそこに通っていた。そして、それほど強い宗教的関心はなかったものの、教会の牧師に誘われて洗礼を受けたのである。それがたまたま、モルモン教の教会だった。同性愛をもっとも忌避するキリスト教の一派である。  神田は信仰生活にさほど強い関心をよせたわけではなく、いうなれば英語を教わる方便として洗礼を受けたため、モルモン教の同性愛嫌悪については忘れていた。第一、自分がかなり変人だという自覚はあったものの、同性愛者だという意識はいまだに希薄なのだ。同性愛の知識は日本にはきわめて少ないのである。  神田は将来、英語の教師になることをめざして、高校二年のなかばで留学試験に合格し、モルモン教徒であるところから、当然のようにその牙城であるユタ州のソルトレイクシティの家庭に預けられた。しばらくして、神田は、それはとんでもない選択だったことに気づいた。ソルトレイクシティは一〇代の少年が同性愛者であることに気づくには、最悪の宗教都市だ。住人のほとんどがモルモン教徒なのである。そしてモルモン教は同性愛だけでなく、直接生殖に関わらない性一般、自慰や避妊までをも強く禁じているのだ。  神田は卒業証書を受け取るまでにあと半年を残すのみだった。そして英語は上達したが、折も折、ホストファーザーが彼が同性愛者であることを知ったのである。それは留学のもくろみを水泡に帰しかねない事件だった。  きっかけは、神田が女の子とのデートに行く気配もみせず、うつうつとしているのを見て、ホストファーザーが学校のカウンセラーと話をしてごらんと勧めたことにある。そして、カウンセラーは彼の性的指向を即座にみわけた。モルモン教があまりにも強く同性愛を忌避するため、皮肉なことに、ソルトレイクシティでは同性愛に関しての心理障害が珍しくない。ちなみに、これはモルモン教だけの事情ではなく、アメリカ全土にならしても、同性愛者の青少年の自殺率は、異性愛者のそれと比べてきわめて高い。調査によっては六倍におよぶと算定されることもある。  ともあれ、同性愛者の少年の悩みに通じていたカウンセラーは、神田を面接して二回目で、あなたは同性《ゲ》愛者《イ》なのではありませんかと言った。  神田は当初それを喜んだ。生まれてこのかた、周囲との違和感のタネだった自分の本質にようやく名前が与えられたからである。ゲイとは、神田が初めて得たアイデンティティだった。  そのとき、彼に常識的な判断がなかったわけではない。モルモン教が同性愛を忌避することもわかってはいたが、初めてアイデンティティを得たいきおいで、ついホストファミリーの同年配の子供にそれを打ち明けたのである。それは、即座に父親に筒抜けになり、彼は今、神田を強制送還すると脅しているわけだった。 「いったいどうしたらいいんだ。今、この家を追い出されたら逃げ込めるところはあるんだろうか」  ホストファーザーがさんざん恫喝して部屋を去ったあと、神田は数少ない日本人の知人に電話をかけて助けを求めた。 「そりゃ、ホストマザーの機嫌をとる以外にないよ。おじさんが追い出すと言っても、おばさんが反対すればどうにかなるんじゃないか」  彼はその一言にすがった。気分屋で家族の独裁者として恐れられているホストマザーに、すぐさま鍋の豪華なセットを贈り、ご機嫌とりにつとめた。幸運にして作戦はあたり、ホストファーザーはしぶしぶながらこう譲歩した。 「しかたない。君のゲイの問題は、留学期間がおわるまでこの家では問わないことにしよう」  ホストファーザーは重々しく宣言し、神田はにっこり笑ってみせた。心中ではとにかく愛想よく半年をすごし、卒業証書を手に入れて日本に帰ることだけを念じていた。  半年後、彼は無事に証書を受けとって帰国し、大学受験資格を取得すると都内の私立大学の英文科に入学した。  留学は思春期の彼に、いくつかの事実を与えた。同性愛者という名前もそのひとつだ。同性愛者の孤独もまたひとつ。そして最大のものは世間に対する恐怖感だった。  帰国後、彼は留学前にもまして孤立した。留学する前、彼は変人ではあったが恐怖心はなかった。いまや、彼は変わっていて、しかもそのことに恐怖しているのだ。孤立は当然の結果だった。しかるに、彼は孤立に耐えうる人柄ではない。人並み以上に他人からの注目と愛情を必要とするのである。彼は必死に他人と接触をはかった。多くの場合、それは失敗におわった。神田はゲイマガジンの通信欄に手紙を出し続け、それでも足りずに、ついには公衆便所の壁にかかれた卑猥な落書さえ熟読するようになった。だが求めているものはめったに手に入らなかった。  同じ一九八三年。静岡では大石敏寛が妙に予感的な思春期のただなかにいた。  彼はなんともいえない不吉な感じにさいなまれていた。中学の廊下だ。彼は、目の前にエイズという文字を見ていた。その文字に、彼は本能的な嫌悪感と恐怖を感じた。大石が中学校を卒業する寸前で、すでにエイズという正体不明の病気はアメリカとヨーロッパで不吉な話題となっていた。そして、日本でも単なる海外ニュースのレベルではあるが、エイズについての報道は流されていた。  大石が見ていたものも、その報道の一種と言えた。彼は廊下に張られた壁新聞を読んでいたのである。 「エイズは同性愛者の病気です」  新聞にはこうあった。  そのとき感じた嫌な気分は、いったいどのような質のものだったか。大石は、今でも考えることがある。中学三年のとき、同性愛者であることをすでに意識下では認めていたのかもしれない。だが、ひとつはっきりしているのは、エイズと同性愛の関係をさかさまに考えていたということだ。  エイズが同性愛者の病気だとすれば、エイズに罹ればその人が同性愛者だとバレることになるんだな。こう考えたのである。病気になったうえに同性愛者だとバレたら、いったい周囲からどんな目で見られるだろうか。大石は想像して名状しがたい嫌悪感を味わった。  しばらくのち、今度はテレビで同性愛者のドキュメント番組を見た。その番組でもエイズが同性愛者の病としてとりあげられていた。しかも、罹れば例外なく死にいたる疾病だという。大石は壁新聞を見たときと同じ不吉さを感じた。  すでにセックスの実態についての知識はあった。また、それに関して、大石らしいきわめて素朴な結論も持っていた。  自分はセックスはしない。これが結論だ。理由も簡単である。女の子にまったく性的興味がわかないからだ。なにがあっても女性との性交は不可能だという確信があった。それを不幸とも奇妙とも感じなかった。それは彼にとって、ひとつの事実にすぎなかった。  その奥にもうひとつの事実があることに気がついたのは、壁新聞とテレビのドキュメントに身ぶるいしてからまもなくだった。地元の新設高校の一年生になった大石は、駅前の本屋でゲイマガジンを発見した。  それは、大石のそれまでの人生で、もっとも激烈な感覚だった。刺激が音をたて、脳髄から四肢へ走った。彼はいそいでその雑誌を買い、一人になって、自分の全身を貫通した刺激の実態をあらためて凝視した。それは男性の裸体だった。  凝視のあとで、彼はいったんその雑誌を捨てた。激しい興奮の裏に、一抹嫌悪を感じたためだ。だが、それが男性の裸体に対する嫌悪ではなく、ゲイマガジンのポルノ風の体裁に対してのものだと確信してからはまよわなかった。彼はゲイマガジンの定期購読を始めた。高校二年になっていた。自分が求めているものは男とのセックスだと、彼はこのうえない明瞭さで把握した。  まもなく、大石はゲイマガジンの通信欄に恋人を求めるコメントを送った。同じ市内に住む三〇代の男性が連絡をとってきたので、陸上競技場の裏で待ち合わせをしてホテルに行った。偽名を名乗り、同性愛者であることを隠して生活をしている男性だった。初めてのセックスの相手という以外に特別の感慨はなかった。一カ月つきあうと、同性とのセックスとはどのようなものか、だいたいわかったので別れた。  彼は神田と違い、性の相手に愛情も理解も求めなかった。実に単純な理由からだ。彼は家族や友人を愛し理解している。それで十分だ。なぜいまさら見ず知らずのセックスの相手にまで愛を求めなくてはならないのだ?  彼はセックスに対してまったく情緒的ではなく、そのためセックスの機会にことかかなかった。情緒が乾いているほうが、セックスの相手は探しやすいのである。  大石は、夏休みにゲイマガシンに紹介されていた新宿二丁目を訪ねた。ゲイマガジンを集めた書店で視線が合った男性とセックスをした。それからあとも何回か上京した。  東京は、無風状態の田舎で育った大石にとって、もっとも恐ろしい都会だった。田舎者を手玉にとって身ぐるみはいでしまう魔都だった。そして彼はセックスが、あたかも危険を冒して都会に出ていく代償と考えたかのように、それなしには、けっして東京をあとにしなかった。セックスの機会を手にするためには勤勉だったが、ホテルを出るときには罪悪感にさいなまれた。同性愛に対する罪悪感ではなく、セックス全般に関する羞恥まじりの嫌悪に近かった。あえていえば、見ず知らずの人と接触した気持ち悪さだった。  大石にとっては、東京はセックスの機会を得る街だった。それ以上ではない。  そして、一九八六年、日本でのエイズパニックの前年、大石は高校を卒業し、東京の専門学校に進んだ。コンピューター技師の資格をとるためだ。そして、彼は新宿二丁目という同性愛者の繁華街を自分の庭とすることになった。  その�庭�で、いまひとつの思春期が展開していた。新美広の思春期である。  彼は高校二年生で、そのとき、新宿二丁目で一人の初老の男の話を熱心に聞いていた。 「われわれホモは女装していたり、していなかったりします。どこからみてもホモとわかる、私みたいなホモもいるし、あなたたちみたいに普通の人たちもいます。つまり、同性愛者はどこにでもいるんです。会社の中にも盛り場にも、家庭にもいます。  われわれは昔からいました。ホモなどという言葉が生まれる前からです。ホモという言葉が日本に入ったのは昭和四〇年代です。私は大正六年生まれです。だから、ホモという言葉など知らなかった。私たちは、単に女嫌いと自分たちのことを言いました。そして、世間から嫌われてきたけれども、私は自分をやましいと思ったことはない。  私がこういう話をするのは、君たちを誘いたいからではない。君たちと寝たいからではない。私たちはここに生きているということを言いたいからです」  彼はこのように語り、新美はその言葉を胸の中で反芻した。彼は�おはなしおじさん�と呼ばれていた。二丁目のゲイバーの名物の一人である。  その日、新美は、そのバーを中学時代からの恋人と一緒にのぞいた。ゲイマガジンに、その店が同性愛者が集まるところだと紹介されていたからだ。新美と恋人は二回、その店の前を素通りし、ようやく三回目に足を踏み入れた。なよなよした女性的な男が意味ありげな視線をかわしていたり、逆に力ずくで客を言いなりにしようという凶暴な男が集まっているいかがわしい店なら、店員を殴り倒してでも逃げる覚悟だった。店に入ると、入り口近くにいろりが切ってあり、いろりの近くにカウンター、奥に椅子席があった。若い人が二、三人、年配の男が一人座っていた。その年配男性が�おはなしおじさん�だったのである。 �おはなしおじさん�は、新美たちのように初めてゲイバーを訪れた若者に、同性愛者についてのレクチャーをほどこす使命感に燃えた人物だった。ゲイバーは単なる風俗店ではなく、同性愛者の一種の共同体として、必要な情報を得ることができ、人間関係を築ける場だということを�おはなしおじさん�は熱心に説いた。  新美は感動した。二丁目がひとつの社会だという考えは、一縷の希望だった。  だが、頬を紅潮させた彼が隣に座った恋人を顧みると、彼は退屈そのものという表情をうかべていた。それが、新美が初めて恋人との将来に不安を感じた瞬間だった。  新美の恋人は、彼と同じ中学から、同じ都立高校に進学した。中学の卒業生の三分の一が就職し、八分の一が少年院送りなどでドロップアウトするなかで、高校進学者は珍しい。新美も高等教育の必要をとくに感じていなかったが、恋人が進学するというのにひきずられる形で、一緒の高校に入学したのである。  簡易住宅団地で育った新美にとって、同じ地域ながら、裕福な新興住宅地に住む恋人の存在意義は大きかった。新美は、リビングルームというものを、恋人の家を訪ねて初めて知った。放課後、恋人と一緒に下校することは一日のうちで唯一、すがすがしい時間を意味した。当時、すでに団地の住居に父母ともによりつかず、妹はうるおいのない家庭に絶望してなかば家出状態で、学校もドロップアウト寸前だ。リビングルームと一家団欒のある恋人の家庭は、あらゆる意味で新美にとっては夢物語である。  恋人は同年代の少年にくらべて身体の成長が遅かった。事実上、性交が可能になったのは高校もおわりになった頃である。それまでのあいだ、彼らは世の中で誰よりも好きな友人どうしとして抱き合っていた。  身体の成熟の違い以外に自分たちにはくいちがいはないと新美は信じていたが、実は、そこに決定的な違いがあった。新美にとってそれは悲劇の芽でもあった。新美は彼以外の同性にも性的な魅力を感じていたが、彼のほうは新美でなければ抱き合いたいとは思わなかったことだ。  すなわち、恋人は根本的には異性愛者だったのである。彼は新美が大親友であるからこそ、抱き合って嫌悪を感じなかった。かけがえのない親友への友誼のあかしとして新美の性的指向に同調もした。だが、それは彼自身の性の本質ではなかった。  当初、新美はそれに気がつかなかった。恋人も自分と同じように同性が好きなのだと信じて疑わない。だが、ときおり、恋人はとんちんかんなことを言った。そのいくつかを、新美は今でも鮮明に思い出すことができる。そのさいに感じたかすかな懐疑も、同時に思いおこせる。それは、もしや恋人は異性愛者ではないかという懐疑だったが、新美はその恐ろしい疑いが意識の表面にうかぶことを、力ずくでおさえこんだ。  それは、たとえばこんなときだ。 「お前、俺は女みたいな格好をしたほうがいいのか」  恋人は中学三年のときこんなふうに尋ねたことがある。 「まさか」  新美はのけぞった。 「何、考えてんだ。お前が男だから、俺はお前が好きなんじゃないか」  また、こんなこともあった。 「あいつら、俺のことをホモじゃないかって言いやがんだ」  高校の友人に、お前と新美は仲がよすぎる。ひょっとしてホモじゃないのかとからかわれたとき、恋人は激怒してそう言った。新美は彼の怒りに首をひねった。 「なんで怒るんだ。お前、そうじゃないか」  恋人は妙な表情をうかべて問い返した。 「そうじゃないかって、何がそうなんだよ」 「お前、ホモじゃん。実際に」  新美が答えると、恋人は黙り込んだ。  ゲイマガジンを初めて電車の網棚にみつけたときもそうだ。 「こんなの、みつけたよ」  新美が雑誌を渡すと、恋人は一瞥して顔をそむけた。 「いやだな、そんな雑誌」  そうかなあ。つぶやきながら新美はもう一度、雑誌を見た。たしかにポルノのいやらしさはあるが、恋人の目のそむけかたには別種の嫌悪がある。その雑誌のどこを、それほど嫌悪しているのか、新美はいぶかしく考えこんだ。  その様子を窺い見ていた恋人が、思い切ったように言った。 「なんだっていいけどさ。とにかく、それ、家に持って帰らないほうがいいんじゃない? 捨てちゃえよ」  なんで? 新美は聞いた。なんで家に持って帰るとやばいんだよ。 「わかんないけど、やっぱり俺はやばいと思うよ。やめたほうがいいよ」  恋人は神経質な口ぶりでそう答えたが、結局、新美は雑誌を持ち帰り、ぱらぱらと流し読みした。さほど面白くも刺激的でもなかったが、広告ページで、新宿二丁目に昼間から営業しているゲイバーがあることについては、その雑誌で知った。  そして、それが、今、二人が�おはなしおじさん�の話を聞いている店なのだ。  隣に座った恋人は今でこそ退屈そうにみえるが、むしろ望んで二丁目にやってきた。自分たち以外の同性愛者を見てみたい。そう言ったのだ。それは新美の思いでもあった。彼ら二人は、その日、�おはなしおじさん�のいる店で半日すごして帰った。そして、それをきっかけに、たびたび二丁目へでかけ、おおぜいの同性愛者に出会った。  その経験が新美と恋人の差を画然とわけた。  自分たち以外の同性愛者を見て、新美は自分が同性愛者であることをあらためて実感し、一方恋人は新美以外の同性愛者を見て、自分が異性愛者だと確信したのである。  そして、思春期をむかえた新美は�たけし�になった。 �たけし�は二丁目のバー街でつけられた名前である。  彼は用心深かった。なかには�おはなしおじさん�のような人もいるが、基本的に水商売に生きる人々は信頼できない。彼はそう直感し、バーには行っても、本名を名乗らず、住居もあかさなかったのだ。そして危険なまでに若く蠱惑《こわく》的なのに、警戒心をけっして緩めない彼に手を焼いたあるバーの店主が、あるときこう言った。 「あんた、名前をぜったいに言わないんじゃ、声をかけようにもかけられないじゃないの。わかった。言いたくないなら、私が名前をつけてあげる。あんた、ビートたけしのファンだったわね。これから、あんたを�たけし�って呼ぶことにする」  こうして彼は�たけし�になった。  そして、新美の恋人は女性とつきあい始めた。二丁目のバーを訪ねた直後、すでに新美は彼との別れを予感した。ひとつには、新美自身が彼以外の同性愛者の恋人をみつけたためである。その人は音大に通う大学生で、中学時代からの恋人と違ってまぎれもなく同性愛者だった。彼と比べてみれば、やはり以前の恋人はぎくしゃくしてみえた。  あらためて考えれば、最初の恋人が異性愛者だということは、新美の目にも明らかだった。新美はついにそれを認め、彼との間柄は自然、疎遠になったのである。最初の恋人は高校三年の一年間、女の子とつきあい、卒業するやいなや彼女と結婚し、子供を作った。仕事は大工職に求めたという。いったん土地を離れたが、最近、新美がかつて住んでいた団地にまいもどったともいう。家庭生活がどのようかは知るよしもないが、ときに酒に酔って荒れることもあるという。すべて高校の同級生仲間から、新美がまた聞きした話である。  新美は、自分以外の同性愛者と出会うかわりに、おさななじみの恋人を失った。中学以来、恋人どうしだった彼らは、一方が女性の恋人を持ったときをさかいに、すべての関係を絶ち、一方は同性愛者の社会に身を投じ、また一方は異性愛者の世界に将来を求めた。  それはあらがいようのない運命といえた。  だが、思春期を迎えると同時に恋人を持ち、そののち、望んで二丁目に出ていき、他の同性愛者を知った新美は、同性愛者のなかにおいては、実はきわめて少数派なのである。  新美のほかの仲間たちは、おおむね、そのような機会には恵まれなかった。古野直は東京の郊外で、風間孝と永田雅司はそれぞれ北関東の地方都市で、表向きは平穏無事な生活を送りながら、ひとつの共通した苦悩を抱え込んでいた。  世界中に同性愛者は自分一人しかいない。それが彼らの苦悩だった。  思春期を迎えた彼らは、すでに、自分が女の子を性的に好きになれないことを知っている。そのような状況を変える手立ても、また積極的に同性を求める手腕や度胸も持てなかった。古野も風間も永田も同じだった。  彼らは、この広い世界の中で、自分だけが変り者なのだと信じた。その孤立と苦悩から逃げようとあがくこともあったが、だいたいの場合、絶望の深さに負けて、再び氷のような孤独と萎縮の中に逃げ込むのがならいだった。  どれほど多くの人々の中にいても、彼らは、いつもたった一人だった。  だが、彼らが知らないうちに出会いは予想外に近くに迫っていた。  それぞれの思春期の傷を負い、また、同性愛者であるための避けがたい孤独を背負いながら、出会いは次第に近づきつつあった。出会いとは、彼らと新美広の邂逅《かいこう》である。すなわち彼らが世界の中で自分はたった一人ではないと知る、その瞬間である。  一九八六年の夏が初めての出会いだった。  その年の夏休み最後の週だった。 [#改ページ]   第四章 交錯  すべては、その夏休みの二年前に始まった。一九八四年の春だ。父がこう言った。 「俺はもうだめだ。多分、この団地から一歩も出られずにおわるだろうよ。俺にはそれがわかっている」  それは、おそらく生まれて初めて、父とその息子、すなわち新美広がまともに話をした瞬間だった。新美はその日、両親と妹の住む団地を出て、都心で一人暮しをすると宣言した。それまでも家族のほとんどが家に居つかない奇妙な生活ではあったが、やはり一言断わっておいたほうがよいだろうと考えたのである。  新美は高校を卒業したばかりだ。将来のあてはなく、頑丈な肉体だけがたよりだった。一八歳の同性愛者として、はたしてまともに生きていけるのかどうか。考えることは、その一点に集約された。家族に対しては愛着も信頼もなかった。憎みもしないが好きでもない。ふとなにかのおりに、自分が両親のような異性愛者ではなく、同性愛者のカップルから生まれたらどれほど幸せだっただろうと考えることはあった。新美はそれほどまでに同性愛者を慕い、異性愛者を疎んじた。自分と性的指向を同じくする人々とともに生きることだけが、彼の望みだった。そして、ついに自分が同性愛者のカップルから生まれたらよかったのに、という非現実的な夢を見るまでにいたったのである。それは、空想癖のない新美が唯一抱く夢想であり、その件に関すること以外に、家族が彼の頭にうかぶことはなかった。  家を出ることに対しても、だから、とりたてた反応を予期していなかった。そのため、父がふいに漏らした感慨は長く新美の記憶に残った。 「俺はだめだが」  父は長男に言った。 「お前が団地を出ていくというのなら、お前、この団地からできるだけ離れるようなことをやってくれ。二度と、ここにもどってくる必要がないようなことをやってくれ」  この団地は敗残者の団地だ。父はつぶやいた。ここにいる人々は、ここを出られない人々だけだ。彼は魚屋をつぶしたときに背負った巨額の借金をいまだにかかえていた。調理師の免状をとり、各地の料理屋をまわって手間賃仕事をしているが、借金はおそらく死ぬまで彼にとりついて離れないだろう。慢性的な窮乏状態のなかで、父はすでに積極的に生きる意欲を失っていた。 「お前、俺ができなかったことをやってくれ。ここからほんの少しでも離れられるようなことをやってくれ」  新美は、その父親の言葉を不思議なもののように聞いた。父が自分への気持ちを表明するようなことは、そのときまで予想もしなかったのである。だが、言われてみれば、彼自身もその団地から出ることを意識下で強く求めていた。  彼らが住む団地は、昭和三六年から三八年にかけて、東京都が地方出身の低廉賃金労働者を入居対象に作った簡易耐火住宅群である。団地と名前はついているが、およそそれらしいたたずまいではない。私鉄の駅から数十分バスにゆられると、広大な敷地に小さな平屋住宅が散在する団地に着く。トタン板で周囲を囲んだ屋根の低い平家の正面には、一坪にみたぬ小さな庭が設けられ、一間幅の掃き出し窓が庭に面している。だから、家をおとなう人は、トタン板のとぎれた入り口から、僅かな菜っ葉などが植えられた庭を通り、沓脱ぎを踏むわけでもなく、濡れ縁をまたぐでもなく、掃き出し窓を引いて直接家に入ることになる。窓ガラスは往々、大きく破損し、そこに週刊誌を当てて風を防ぐ家もあれば、ベニヤ板を当てる家もある。  団地はいくつかの大きな道で仕切られ、そこを歩くと、平家の棟々を越えて、激しい風が吹きつける。団地内のバス停留所のベンチにはスプレーペンキの字が、当時の極彩色を失ったものの、いまだ鮮明に読み取れる。ブラックエンペラー東大和連合。  土地に不案内な人が団地をすみずみまで歩きつくすには一時間あまりを要する。同時に、ここが昭和三〇年代以降のあらゆる開発から取り残された、いわば都市の空洞なのだと納得するにも同じだけの時間が必要だ。建築当時の姿で年月を経るままに荒れ果て傾いた板塀、破れた窓、穴のあいたトタン板、無人になった半壊状態の空き家などは、あまりにも時代離れした風景で、それが高度成長が実を結ぶ前の日本の風景を撮るための映画のセットなどではなく、現実のものだとにわかには実感できないのである。  新美は、時代から取り残されたその団地で同性愛者であることに気づき、暴走族の発祥地の殺伐たる空気の中で、孤立の予感に怯えた。  そして、彼は今、一八歳の同性愛者としての自活を求めるために団地を去ろうとしていた。だが、学歴も教養も経済的な裏付けもない新美にとって、将来はけっして明るい色彩を持ってはいない。父は、この団地から一歩でも遠ざかることを息子に望んだが、同性愛者である息子にとって、それは必ずしも社会的成功を意味するわけではなかった。彼は、団地にさえ帰れず、孤独な同性愛者として、街の片隅で人生を無為に蕩尽するかもしれないのだ。  だが、彼は出ていくことを選んだ。  ひとつには、団地の周辺に、いたましい恋愛の記憶がわだかまりすぎたからだ。  中学時代以来の恋人も、また、そのあとつきあったが、結局別れることになった恋人も、団地のそばの住人である。高校卒業まぎわまでつきあった二番目の恋人とは、双方とも十分すぎるほど傷ついて別れた。  別れの原因は新美にあった。同性愛者に対する強すぎる愛着、そして繁華街に対する強すぎる憎悪が、恋人とつむいでいた小さな平和をやぶったのだ。  繁華街に対する憎悪は、新美にとって一種の近親憎悪である。新美は偏愛に近い強烈さで、同性愛者を愛し、異性愛者を疎んでいる。だからこそ、同性愛者が繁華街で見せる虚偽を許せないのだ。  繁華街には、同性愛者であることを隠蔽して異性愛者の世間と折り合い、週末のみ二丁目で同性愛者としての自分を解放する人々が集まる。新美は彼らに強く反発した。人はそれぞれの事情に束縛されて生きざるをえない、などという斟酌《しんしやく》が新美にはない。若い彼は、この点においてはきわめて狭量だった。  新美は繁華街に慣れるにつれて、彼らへの憎悪をつのらせた。それは、客観的でもなく、ただひたすら直線的なだけの憎悪だったが、それだけに、日本の同性愛者の実情がはらむ虚実をつくことになった。二丁目は、新美広の怒りにもっともな言い訳ができなかったのだ。  一週間無難に働いた報酬として二丁目での解放がある。繁華街に遊ぶ彼らはそう言う。だが、酒と享楽しかない繁華街での解放とはいくばくのものか。新美は罵った。実生活から遊離し、酒とタバコと悪徳の匂いしかしない自由とはどれほどのものか。週末だけの自由を、そもそも自由というのか。では、週日の現実はいったいどうなるのか。週末の自由とは、結局、奴隷の自由のことではないのか。  そして、次のようにも罵った。同性愛者がいつまでも薄暗い社会の片隅に閉じ込められているのは、あながち、異性愛者の世間が同性愛者を抑圧するからだけではない。同性愛者自身が、自分たちには奴隷の自由、すなわち、世間という�主人�が土曜の夕方から月曜の夜明けまでの何時間か険しい管理の目をそらせたすきに、つかのまの快楽をむさぼる自由しかないといわんばかりに行動していたからではないのか。  教養のオブラートにつつまれないだけに、新美の怒りは同年配の若い同性愛者に対して、奇妙に強烈な吸引力を持った。�たけし�は、よるべない思いを抱えて二丁目をさまよう若い同性愛者が頼るに足る人格と魅力を持っていた。それは一種の性的吸引力にはちがいなかったが、彼自身は自分の魅力を、単に性的なものにとどめたくないという願いに駆られていた。そして、次第に彼の周囲には、同年配の同性愛者が集まるようになった。まだ高校生の頃だ。  それが彼と恋人との関係をささくれだたせたのである。  新美の恋人は音大に通う学生だった。きわめて繊細、敏感な感性の持ち主で、自身が同性愛者であることについては周囲に漏らしたくないと考えていた。だが、週末の二丁目だけを息抜きとする同性愛者たちを嫌悪する新美の前にあって、彼は自分の安定指向を恥じた。そして、新美が二丁目に集まる同年配の青年たちの相談所を、数人の仲間とともに始めると、自分から望んで住居をその連絡先にあてたりした。  だが、そもそも、彼は新美のようにもっぱら外に対して行動をしかけるやりかたにはむいていなかった。ピアノを愛し、芸術を好む彼は、もっと内向的で静かな同性愛者として生きたいという本音を、新美への愛情のためにむりやり押えつけていたのである。 「俺は疲れた」  ある日、彼は言った。新美が高校三年生の最後をむかえた頃だ。新美はすでに二丁目に集う若者たちに単純な情報提供や、素朴な電話相談を行なう数十人からなるグループを作りあげていた。 「もうダメだ。自分が同性愛者だということを受け入れるだけでも大変なのに、これ以上、お前のやることについていけない。自分のことを考えるだけでせいいっぱいなんだ。もう、俺はだめだよ」  彼はノイローゼ寸前だった。新美と話している間に、さしたる理由もなく、発作的に泣き出すことが数回を数えた。 「大丈夫だよ。俺はお前をひきうけるよ。安心していい。俺はすべてをなげうつから。俺はお前とつきあうこと以外に、何も考えない。すべてを投げうってお前をひきうけるよ」  そのとき、もしこのように言えば彼は救われただろう。今でも新美はそう思う。だが、その一言を彼が切望していることを知りながら、新美はそれを言わなかった。 「言わなかったんじゃない。言えなかった。あまりにも早い時期に二丁目に出て行ったから、あまりにも多くの同性愛者たちを見てしまったから、同性愛者たちの将来がどれほど希望がないものか、いやというほど実感したから、どうしても自分たちだけが幸せならいいと思い切れなかったんだ」  二丁目で遊ぶ人々は、明るく絶望して、悲しみもなく乾いて、明日を信じずに今日を楽しんでいる。そして、新美は彼らの本質的な不幸に呼応せずにはいられないのだ。  この心情は、単純に新美個人のヒロイズムに還元できないところがある。それは、同性愛者全体の事情を正面から考えた場合、一種の必然性をもつのだ。つまり同性愛者の社会は、全体の幸福と個人の幸せが乖離《かいり》して成り立つほど、社会として成熟、分化していないのである。それはまだ社会でさえない。そして社会なしに、また個人もありえない。すなわち、社会以前の段階にある同性愛者たちにとって、全体としての幸不幸は、結局、直接個人の幸不幸に響きがちなのである。新美はそれを本能的に察知していたというべきではないか。 「もちろん、将来に希望なんかなかったですよ。自分一人が、同性愛者をどれほど考えたところで、世の中がどうにかなるわけじゃなさそうだし、第一、目の前にいる奴はノイローゼ寸前だし、奴を救えないくらいなら、誰一人ほかの奴なんか助けられるわけない。俺は砂漠の中にいるようでした。砂を噛むようでした。  それでも、自分だけがつかのま楽であればよいとは思えなかった。奴が死ぬほど苦しんでいると知っていても、俺にはできなかったんですよ」  その新美の前に恋人はくずおれた。  彼らは別れた。そして新美は、前の恋人以上に、彼との別れを哀惜し傷ついている自分を発見した。前の恋人と違い、彼は自分が同性愛者であることに関しては揺るぎなかった。そして、新美は初めて愛情と性の充実との一致を、彼にみいだしたのである。  彼は愛と性というふたつの領域にまたがって、新美の前にあらわれた真正の恋人と言いえた。彼を失うことは、新美にとって私生活の一部を失うことであり、その記憶が残る団地付近を往来するだけで痛みはかきたてられた。  彼は、団地を出た。当面の生活費は、羽田での荷揚げ労働や、基地での肉体労働でまかない、一年後には、運送会社の寮にもぐりこんだ。  団地を出てからの新美は何を求めていたのか。  まず、彼は�たけし�から脱皮しようとしていた。  それはどのような内容の脱皮だったか。  ともかく�たけし�ではないものになることだった。その時点では、彼自身もそうとしか言いようがなかった。  肉体労働で生活を支え、恋人の音大生としての将来を見守る将来は破綻した。では、自分はなんのために生活の資を稼ぎ、家族とも無縁に生きているのか。彼は自問を続けた。少なくとも、稼ぎを二丁目につぎこむためではなかった。あるいは、週日は異性愛者のふりをして暮す男性へ、週末の自由と享楽を与える若者として暮すためでもなかった。  何をすればよいのか、彼は考えあぐねた。一〇代おわりの新美のかたわらを流れる時間は不透明に混濁していた。そして、彼は、時間の渦のただなかで孤独だった。いったい、そのとき何を考えていたものだろう。新美はいまだにその答えを得られない。ただ、二丁目の�たけし�以外のなにものか、東京のスラムで生まれた青年以外の何ものかになろうと思っていた。団地を離れる日思いがけず父が口にした望みと似た何ものかを求めていた。  そして、団地を出てから一年後、将来への見通しはいまだ不透明ではあるものの、彼は二丁目の同年配の同性愛者のグループをさらに大きくしていた。それは、いわば繁華街の修羅場を無事にくぐりぬけるために必要な相談所のようなものだった。二丁目が持つむきだしの弱肉強食の力の前で途方にくれている、同世代の若者の駆け込み寺と言ってもよい。  二丁目の弱肉強食は、端的に言えば次のような形をとる。田舎から出てきた若い男の子が、二丁目の常連に、数時間あるいは数日の時間とセックスを売り渡し、代価としていくばくかの金と、将来への失望《ヽヽ》を手に入れること。最悪の場合には代価を得ることもできず、二丁目の路上にほうり出されることである。すなわち、�人買い�である。そして、新美の当面の敵は繁華街を�人買い�の場として利用している同性愛者たちだった。  皮肉なことに、新美自身は、その被害からもっとも遠いところにいた。きわめて巧みな処世術と勘で、�人買い�の修羅場をすりぬけてきたのである。だが、すべての若い同性愛者が新美のように世間慣れしているわけではない。彼らは、しらずしらずのうちに�買われる立場�に陥り、しかもそれに気がつかないこともしばしばだった。�売り買い�は、つねに殺風景で猥雑な雰囲気のもとで行なわれるとはかぎらない。それは、愛情めいたカモフラージュをほどこされることもある。金銭が一時的な目くらましの役割を果たすこともある。  第一、�人買い�の場面においては、買い手のほうが売り手よりはるかに世間智にたけていた。そこには、社会的有名人もいる。たとえ同性愛者であることが世間に露呈したとしても、自分の立場を失う危険が少ない芸術的才能の持ち主もいる。また、長年、自分が同性愛者だということを隠蔽しながら、驚くほど大きな企業を経営する老人もいる。すでに晩年に足を踏み入れた彼らは、二丁目に生々しいセックスだけを求めにくるわけではない。それまで�|隠れ同性愛《クロゼツト》者�として生きてきた自分の思いを継承してくれる、息子がわりの同性愛者の青年を求めにくることもある。そのような老人の願いにほだされる若者も少なくない。  二丁目にはさまざまな人間の思いが交錯していた。そして新美は、中年や初老の同性愛者に共感しないわけでもなかった。だが、同時に彼は、�日陰の�立場を大前提とした人間関係が、どう糊塗しようと、沼地に似た陰性のつながりであること、そして、その湿地に足をとられることによって、どれほどにたくさんの若い同性愛者が、まともに生きる気概を失ってしまったかをつぶさにみていた。  若い彼らはとまどっているのだ。新美はそう感じた。二丁目を浮遊しながら、彼らは自分たちの心身にまとわりつく湿潤な空気のもとに、いっさいの真剣な問いをからめとられ立ちすくんでいるのだ。  彼らも、抵抗したくないわけではない。しかし、いったいどうしたらよいかわからないのだ。なぜなら、彼らは同性愛者だということに気がついて以来、現実から目をそらして生きてきたからである。また、�おかま�という、世間が彼らに課した枠組にあわせて、自分が当然の攻撃性、怒りを含めた気概を持つことをあきらめているからである。�おかま�は女性的でなよなよしていて、まともな意見などなく、恋愛沙汰だけを騒ぎたて、空しく人生をやりすごせばよいと思い込んでいるからだ。  それなら俺が、それはまちがっていると言ってやろう。新美はそう思い決めた。  俺たちは、たしかに同性愛者だと言ってやろう。だが世間の日陰者じゃない、世をすねた大人たちのおもちゃじゃない。俺たちは同性愛を隠して生きている人々のなぐさみものではない。俺たちは俺たちだ。誰の犠牲でもなく、誰の身代りでもない。 �たけし�こと新美は、こう言い続けることによって、繁華街で若い同性愛者のグループ化をはかった。  そして、一九八五年、ひとつの事件が新美を�たけし�から決定的に離脱させた。  同性愛者たちの間でひきおこされたエイズパニックである。  それまで、繁華街に集まる若者と、ゲイマガジンの通信欄への投稿者を中心に、関西と東京でいくつかの若い同性愛者の集まりができあがっていた。だが、それはいまだに同じ悩みを持つ人々の寄り合いにすぎない。とりあえず、一〇代の根なし草的な若者が、繁華街の陥穽におちいるのをくいとめる防波堤としての役割を果たしてはいるが、それは必ずしも前向きな目的設定といえなかった。ともすればそれは二丁目からの、または|同性愛嫌い《ホモフオビツク》な世間からの、単なる駆け込み寺の機能を果たすだけという場合が多かった。  駆け込み寺はないよりはあったほうがよい。だが、それだけでは十分ではない。駆け込み寺の存在は、同性愛者がつねに弱い立場の人間だという事実を補足するものの、それ以上の積極的意味合いを持ちえないからである。  同性愛者として、日本の社会により深く、鋭く、爪を食い込ませるに足る問題を、�たけし�から脱皮しつつある新美は求めていた。  エイズは彼が求めたそのものだった。  始まりは八五年夏である。ある有名ゲイマガジンと私立大学病院が協賛して一〇〇人の同性愛者のエイズ検査なるものを行なった。すでに、ゲイマガジンなどでは、エイズという奇妙な疾病が、同性愛者に特有な性行為と思われている肛門にペニスを挿入する、俗称アナルセックスによってひろまる病気だと報じられていた。  同性愛者一〇〇人のHIV検査は、もっぱら、同性愛者の健康を保障するためのこころみだとされ、その夏、ゲイマガジンがつのった一〇〇人の同性愛者がHIVの陽性陰性を問う検査を受け、そのなかの五人が陽性、すなわち、発症はしていないがHIVに感染していることが判明した。  そして、この検査の直後、日本における初めてのエイズパニックはまことに人為的に作られた。本来、検査の結果はきわめて私的な情報として、報道においては特別扱いをうけなくてはならないはずであるにもかかわらず、一〇〇人中五人の陽性者が出たという事実はきわめてすみやかに東京新聞と毎日新聞で報じられたのである。  一九八五年一〇月のことだった。  新聞は次のように結果を報じた。  すなわち、同性愛者の五パーセントがHIV感染者である。  ここに、日本のエイズ、および同性愛者に対する恐慌が端を発した。実際には、この五人の感染者のうち、日本に在住している人はたった一人で、その他四人はすでにアメリカで検査ずみで、自分が陽性であることを再確認した人々だったにもかかわらず、いったん、病院での調査が新聞に漏洩されてからは、日本の中にエイズとは�おかま�の病気だという認識が定着したのである。  巻き起こされた恐怖感と同性愛者忌避《ホモフオビア》の大きさを考えると、そのきっかけとなった調査は実に小規模なものだった。たった一〇〇人を対象とした、一冊のゲイマガジンと私立総合病院の提携調査にすぎないのである。にもかかわらず、それはすみやかに全国紙をまきこみ大がかりな報道に膨れ上がった。  すでにその年の三月、エイズサーベイランス委員会は、男性同性愛者を認定患者第一号としていたので、パニックはいやがうえにもあおられた。この一連の動きの背景には、エイズを同性愛者の病気と定義することによってまぬがれうるもうひとつのエイズ問題があったと考えられる。  たとえば、血友病の問題である。  同性愛者の五パーセントがHIV感染者であるという報道が流された時期、一方で非加熱血液製剤の使用によるHIV感染者患者の存在がすでに判明していた。  そして行政府は、製剤の輸入を危険を承知しながら長年許可してきた責任の弁明に苦慮しているところだったのである。そのような時期に、エイズは同性愛者という繁華街に住みついたいかがわしい遊び人が自業自得で得た病気だという認識が世間に流布されれば、結果的に行政府は一息つくことができただろう。  ところで、同性愛者の存在が他のHIV感染の原因追求の力を弱める要素として利用される事情は日本に限らない。それはほかの国にも共通してみられる傾向なのである。たとえば、アメリカでも一九八三年に同性愛者がHIV感染者の第一号として認定されたが、実際にはそれ以前に感染がひきおこされていた非加熱製剤経由の患者を認定したのは、同性間の性行為感染の第一号認定から三カ月たったときだった。  ところで、日本でのエイズパニックは同性愛者の感染を端緒としてひきおこされ、その後、独自の展開をみせる。八五年から八七年にかけて、厚生省は、繁華街での流行を食い止めるためという理由のもとに、保健所や病院でHIVの検査を受けた人々の情報を、上部機関に吸い上げることを義務づけた『エイズ予防法』への制定に動き始めたのだ。そして、その予防法への反対運動が新美のグループを、単なる同性愛者の�寄り合い�から、より大きな目標のもとでの、同性愛者たちの顕在化へと発展させたのである。  予防法は三つの要点を持つ。  ひとつは、感染を確認した医師に対して、次の二つを義務づけたことだ。まず感染者にHIVの伝染防止に関し必要な指示を行なう義務。次にその感染者の氏名、居住地以外の情報を知事へ報告する義務。ふたつめの要点は伝染防止の指示を与えられたにもかかわらず、なお多数の人々に感染させるおそれがあると医師が判断した感染者については、氏名と住所が知事に対して公開できるという点である。  多数に感染させるおそれとは、感染した人々が、常識的な抑制を越えて性行動をひろげるおそれということだ。  ところで常識的な抑制とはどのようなものか。すなわち一夫一婦制の倫理観に近いものと考えるのが妥当だと思う。そこにおいては、売春や風俗産業の従事者もさることながら、いわゆる普通の結婚生活の枠組からはずれる人々は、性行動において非常識だと判断される可能性が大きい。もちろん、異性との家庭を築くことのない同性愛者は、�常識的な�枠組からかぎりなく遠くに位置づけられる。  予防法の三番目の要点はより強権的な趣きが強い。すなわち多数に感染させるおそれがあるとして知事に氏名等を通報された感染者に関しては、知事は伝染防止の指導という名目で、職員を通じて必要な質問を行なうことができる。そのさい、感染者が虚偽の回答を行なった場合には罰金刑に処される。  そしてなにより同性愛者を社会的に不利な立場にたたせた要因は、予防法にほどこされた修正案をめぐってひきおこされた。これは非加熱血液製剤経由の感染者に関する修正案である。すなわち、製剤によって感染した人々については、氏名、居住地以外の情報の通報義務が除外されるというものだ。  これは本来、同性愛者など性行為感染者と製剤による感染者を区別する目的で作られた修正案ではないのだが、結果的に製剤によって感染した血友病患者は同情に価する�よい感染者�、性行為、とりわけ認定第一号患者に指定された同性間性行為で感染した人は�悪い感染者�というイメージが流布するきっかけとなった。  具体的には厚生省の保健医療局長が、製剤による感染者は、定期的に医師の指導を受けているため、多数の人々にHIVを伝染させる危険はないといった旨の国会答弁を行なったり、一部の血友病団体関係者が、修正案は血友病患者の社会的立場を考慮したものであると発言して、あたかも修正案の適用外に置かれた性行為感染者の社会的立場が低いかのようなイメージを世間に与えたのである。  そしてこのようなイメージは、マスコミ報道などによりすみやかに増幅され、世論として定着した。  つまり、製剤によって感染した血友病の人々は、気の毒だが悪い人ではない。だが、セックスでHIVに感染した人々は自分勝手に性を楽しんだ�おつり�として感染したのだから自業自得だ。しかも、彼らは反省しない。目を離せば、いつまた危ないセックスに興じるかわからないから、個人的な情報を管理する必要があるということだ。  これが日本の世論だった。エイズは、そこでは個人の倫理をはかるふるいとして扱われていた。つまりHIVに感染したということは、血友病のようなやむをえない事情をのぞき、その人物が倫理的に悪い証拠なのだ。  予防法をめぐるこのような事態は同性愛者たちを大きく変えた。たとえば、エイズ以前、同性愛者の問題は、たとえば二丁目での|人買い《ヽヽヽ》事情に対する苦情や、家族や社会に受け入れられないといった悩みに終始していた。あくまでも個人的、私的レベルでの苦悩であり、心配事である。それらは解決しなくてはいけない問題だが、同時に瑣事に近いそのたぐいの問題をいくら問いつめたとしても、そもそも同性愛者全般にわたる問題とは何なのかという本質的な問いへの光明が見えにくいのも事実だった。  エイズパニックはその限界を打ち破る事件だった。  皮肉は、エイズがまことに多くの同性愛者を殺したことにある。その一方で、生きている同性愛者に対しては、自分たちの問題を正面切って話す機会を与えたということにある。エイズは同性愛者の宿痾《しゆくあ》であり、同時に、同性愛者がみずからの問題を語るための強力な伴走者でもあった。  エイズパニック以来、同性愛者たちは同性愛の問題をより一般的な話題として語る可能性を手に入れたのだ。エイズは一般社会と同性愛者の社会双方を貫く問題だからだ。そのため、同性愛者はエイズを語ることによって、自分たちの属性である同性愛について語る可能性を手に入れたのである。  それは画期的な転機だった。  同性愛者はそれまでどれほどあがいても、性風俗の枠組をぬきにしてみずからを語ることができなかったからである。もちろん、エイズパニックによって、同性愛者が正面切って発言する機会が十分に与えられたわけではない。それはささやかな可能性にすぎなかった。だが、たとえささやかであるにせよ、本質的な部分において事情はかわった。  たとえば、新美は、同性愛者の代表としてエイズ予防法への反対表明を、東京都など公的機関に対して行なうことができるようになった。たとえ人為的に作られた報道にせよ、同性愛者はエイズの認定患者第一号という立場を得ているためである。  また、予防法は感染者一般を囲い込む偏見構造をもっているだけでなく、性行為による感染者、とりわけ同性愛者へのあからさまな蔑視を含んでいるためでもある。予防法は、家庭を持つ異性愛者は、まともな生活環境の中で常識的な性生活を送るが、同性愛者にはいっさいまともな生活がないといった世間の評価を強める役割を果たした。  異性との家庭生活を送らない人々は、もっぱら繁華街で性生活を送る。そして、エイズという汚染を�まっとうな�結婚生活を送る人々にまきちらす。このような考えに対して新美たちは初めて反対することができた。それは、彼らが初めて世間に焦点をさだめた攻撃だった。それまで、彼らはとるにたらぬ�おかま�として扱われてきた。だが彼らはエイズという契機を得た。そして、その契機によって世論の偏見がきわめて明確になり、彼らは初めて攻撃することを知ったのである。  一九八六年、すでに同性愛者の問題は、二丁目という�庭�の内側での問題ではなかった。それは全世界をまきこむエイズ流行という前代未聞の事件を核にはらみ、急激に膨れあがりつつある、時代の課題のひとつだった。そして、新美広というわずか二一歳の高卒の青年は、そのとき時代の課題の一端をたしかに担っていた。  こうして、その年、夏休みの最後の週、初めての出会いが実現した。  その夏の日、朝の五時半に、永田雅司は越谷の自宅で目を覚ました。目覚めた瞬間から緊張で体がこわばっていた。  でかける時間になると、普段着からアロハシャツと麻のズボンに着替え、ポケットに工作用のナイフをしのばせた。護身用の武器である。  埼玉県越谷から東京の中野まで、彼を運んでいく電車はまるで大型冷蔵庫のようだった。クーラーが利きすぎていたのだ。だが、永田はその冷気を全身にあびながら汗を流し続けた。  中野駅に着いてからはじめて、自分が今日行くべきところを知らないことに気がついた。 「中野サンプラザというところはどこですか」  通行人をつかまえてこう聞いた。その人は駅前のビルを指さした。永田はビルにたどりつき、六階までエレベーターで昇った。部屋を探しあてたとき、無意識のうちにポケットのナイフを手で探った。扉の把手をしばらく握り、手前に引きあけた。  正面に壇がしつらえてあるのが目に入った。  そこに新美広がいた。 「そのときの僕には明日がなかったんです。そして、突然、明日を与えられたんです。中野で、です。中野で僕の明日はみつかったんです。僕は熱にうかされたようになりました。食べることも忘れ、眠ることも忘れました。何をすることも忘れました。同性愛者として生きることができる。そういう明日があるということに夢中になって、僕は生きることさえ忘れていました」  一九八六年夏、中野サンプラザでの記憶を、永田雅司はこのように表現する。その日の永田と新美の出会いは、その後に続く主要な同性愛者たちの出会いの口切りだった。  永田は、まさにその扉をあけたのだ。  新美がそのとき中野サンプラザで開いていたのは、エイズ予防法をきっかけとしてグループの改編をはかろうとしていたアカーの会合だ。具体的には、二丁目など繁華街以外での、積極的な仲間集めだ。同性愛者すべてが繁華街に集まるわけではない。会合は、繁華街の存在を知らなかったり、また嫌悪する同性愛者に訴えかける手段のひとつだった。とはいえ、ポケットにナイフをしのばせた永田はそのような事情など知らない。また、サンプラザの会合場所の扉をひらくまで、永田の同性愛者像は実におぞましいものだった。  その会合についてはゲイマガジンの誌上で知った。一〇代から二〇代の若い同性愛者の話し合いの場が、中野サンプラザでひらかれると雑誌にあったのである。永田がそれに参加したいという旨の手紙を出したのは、そのゲイマガジンを信頼したからでも、同性愛者の会合に期待したからでもない。  ゲイマガジンは人一倍潔癖な永田の嫌悪をさそった。なぜ、人間の体をこれほど露悪的に撮影したり表現したりできるものなのか。永田は半裸の体にふんどしをしめて陶酔しきっている男性のヌードを見るたびに、編集者と雑誌の愛読者の正気を疑った。雑誌同様、二丁目もおぞましく、暗く、世にもおそろしい悪所としか思えなかった。  永田は中学のおわり頃、自分の性的指向に気がついた。抽象的な考えが苦手な床屋の息子らしく、彼が自分を同性愛者だと考えたのは友人の一人を強烈に好きになったからである。また女性に対してなんら性的興味が抱けないからである。  ある日、床屋の二階の自室で彼はその友人に抱く感情と対面した。彼は友人を愛していたが、とうていそれを彼に告げるような気分にはならなかった。また、すでに性衝動は覚えていたものの、彼とのセックスを夢見ることもなかった。彼はそのとき、友人との恋愛をどのように展開しようかと悩んでいたのではない。自分が同性に対して持つ不思議な衝動について考えていたのだ。長い逡巡のあと、彼は絶望的にこうつぶやいた。 「僕は、どうもホモとか、おかまとか、同性愛者とか呼ばれるものらしい」  そして彼は、まったく希望のない将来像にむかいあった。次のような将来だ。 「僕は親とは住めない。僕は女装をしなくてはならない。僕は一生、場末《ばすえ》の恐ろしく暗い隅で生きなければならない。  友達にも、親戚にも、おふくろにも会うことができずに一人で生き、一人で孤独に死ぬんだ」  彼は実際には女装などしたくもなかった。そもそも女性が疎ましいのだ。繁華街などにも出ていきたくなかった。テレビの特集などで見る二丁目は、いかにもけがらわしい悪徳の街である。暗闇を通して赤外線カメラでとらえられた、二丁目の同性愛者は、画面を通してさえ目を刺すかのような尿臭の漂う片隅で、得体の知れぬ獣の群れのようにうごめいていた。永田はふるえあがった。彼は太陽の下で自然に囲まれてすごすことを愛していた。  だが、永田の持って生まれた過剰なまでに生真面目な性格が、同性愛者として生きるためには、そのような嫌なことを経なくてはならないと思い詰めさせたのである。その思い込みは、かけがえのない母親の期待を裏切る自責的な気分と、なにごとも修業という回路を通さなければものごとを考えることができない職人の卵としての発想の双方から生まれた。  永田にとって、女装をすることや、繁華街に出ることは、大人の同性愛者として生きるために必要な修業を意味した。一人前の床屋になるためにはつらい修業を経験し、うっとうしい人間関係のあれこれを乗り越えなくてはならない。同性愛者になるのもきっと同じことだろう。同じような刻苦勉励を経て、同性愛の少年は、めでたく一人前の同性愛者になるはずだ。  そのような考え方が、いささか滑稽なまでの思い詰めかただとは、まったく考えもしなかった。  彼は唇を噛み、学生服を着て自転車にのり、隣町の本屋まで大嫌いなゲイマガジンの定期購読を頼みに行った。本屋の女店主はさぞ驚いたことだろう。緊張で青ざめた、いかにも真面目そうな制服姿の少年が声を励まして、 「『薔薇族』の定期購読をお願いします」  と頼みにくるのである。  同時に、彼は母親のために立派な床屋にならなくてはとも思っていた。  高校は普通科に進んだが、卒業後は床屋になるべく、休みは実技練習に通っている。一族郎党のすべてが床屋でしめられている家に生まれたため、彼は床屋以外の将来を考えられなかった。だが、その時点で事態は少しかわった。床屋になる将来と、一人前の同性愛者になる将来が、複線化したのである。  だが、それは容易に縒《よ》りあわすことのできない二本の線だった。永田はいかに大人の床屋、大人の同性愛者になるか考え乱れた。  高校最後の夏休み、中野サンプラザを訪れる前の永田はすでに正気を保つだけの余裕を持ちかねていた。目の前に孤立の壁がたちはだかり身動きがとれない。息苦しさは耐えがたく、何かをしなくてはおかしくなりそうだった。たとえ、それがどれほどおぞましく、いかがわしい同性愛者との出会いにおわるとしても、永田は中野サンプラザに行かざるをえない気分に追い詰められていた。  そして、彼はその部屋で壇上の新美をみつめ、集まった一〇数人の聴衆を眺めた。  そこにいるのは、赤外線カメラでとらえられた地の果てに住む奇態な動物の群れではなかった。彼らは平凡で、あえていえば永田自身によく似ていた。普通の風貌と普通の物腰の青年たちである。 「そりゃ、そうだよな」  永田はひとりごちた。 「そりゃ、そうだ。そういうもんだよな。だって、僕が普通なんだから、ほかの人だって、そうそうかわっているはずがないんだ」  新美は会合なかばで部屋に入ってきた、いかにも若々しい青年に目をとめた。その青年は、壇上から見ていてもわかるほど興奮している。パネリストであるか否かにかかわらず、会場の誰かがしゃべると、一言一句聞き逃すまいと、話し手を注目する。彼の表情は必死でもあり、また夢見心地でもあった。無意識のうちに何度もあいづちをうっていた。  あいつを会合のあとの飲み会に誘ってみよう。どうも縁がありそうだ。新美は決めた。  彼はすでに各地の同性愛者のグループや、同性愛者によって構成される国際組織の日本支部とも連絡をとりあうようになっていた。これら同性愛者のグループは、予防法に反対の立場をとる医師や他の民間グループと提携して、政治家への働きかけや行政組織への陳情活動などをすすめている。日本にとってのエイズ元年は、この国の同性愛者にとっても、集団化、顕在化の元年でもあった。  それまで公共の施設を借りて会合を開くことなど夢想だにしなかった同性愛者は、すでにこのような会合を通じてメンバー作りに手を染め始めたのである。  だが、それは容易なこころみではなかった。二丁目以外で同性愛者を集める試みは、だいたいにおいて流産しがちだった。  理由はいったい何だったか。  一九六五年生まれの新美に次のような反省が浮かんだはずもないが、それは組織作りの方法があまりにも古臭かったからではないか。そう私は推測している。  そのような会合では、活動家と呼ばれる人々が、自由や闘争、人権、革命、性解放といった七〇年代用語を駆使して、集まった人々をアジテートしたが、�政治の季節�から二〇年を経た一九八〇年代おわりにおいて、そのような方法と用語によって、みずからの鬱勃とした不満を概念化したいと望む若者は、おそらく少ない。  時代は、すでに活動家に学校の校門近くで呼び止められ、喫茶店で�世の中の矛盾と不正�について高い調子で�オルグ�されるときをすぎている。社会矛盾に抗議するためにデモしなくてはいけないと熱狂するようなナイーブさは、金融緩和政策によってだぶつく�バブル�な円の全盛のさなかで、経済的豊かさを背景として個人的趣味に自閉する八〇年代の若者にはもっとも乏しい資質だった。  さらに、同性愛の問題は世の中の大勢にとって、大上段から語りにくい問題でもある。同性愛の問題は、いわば日本の中で多数派と少数派がいかにおりあっていけばよいのかという、きわめて地味な問いだ。問題の設定がそもそも大勢の熱狂を呼びにくいだけでなく、無前提にその問題に共感をしめす人々が、世の中の絶対少数だという難点がある。  つまり、これは政治の腐敗や財界の犯罪といった、いかにも抗議の大義名分をもぎとりやすい問題ではないのだ。  そのような事情に対して、抽象に偏りがちな論旨と政治用語で�オルグ�するやりかたは有効ではなかった。同性愛者差別を声高に訴える活動家を前にして、自分たちが受けている差別とはいったいなんだろうと会衆はとまどった。同性愛者の権利とは、いったいどのような人が何を行なうための権利なのかと、かなり意識的な同性愛者でさえとまどった。  新美は、そのなかにおいて次第にユニークな方法を生みだしつつあった。彼は同性愛について、他の日本人同性愛者と同様、日本語から学ぶことができず、しかたなく英語文献を苦労して読み下すことによって知識を得ていたものの、本来およそ抽象的な思考になじまない人物である。  そのため、彼は会合を開くにあたって、自分の身丈にあわない抽象論をかわすことを避け、同性愛者であれば誰もが黙秘できない現実について、それぞれが否応なく話し出さざるをえない場をもうけようと考えた。そして、そこにやってきた人たちのなかで、自分の仲間としてやっていけそうな人に声をかければよい。  新美は、会合においても、きわめて身近な話題をテーマに選んだ。彼は、社会正義の実現を企てていたわけではなく、むしろただ素朴に仲間《ヽヽ》と呼べる人々を求めていただけなのだ。同性愛者の集団にひとつの社会性を持たせることが、彼が半分無意識で求めた目的だった。  そして、永田が新美に出会ったとき、彼が設定したパネルディスカッションのテーマはこのようなものだっだ。  新宿二丁目とあなたはどうつきあっていますか?  二丁目でどのような経験をしたかという話題から、その会合は始まった。  そして、永田は会合がおわりに近づいた頃、何かを話さなくてはならないという欲求に、やみくもにかられた。同性愛者として話したことは今までない。今がそのときだろう。部屋の扉を引きあけた瞬間からつづいていた興奮が彼の背中を押すことになった。 「二丁目については」  永田は立ち上がって言った。  彼はそのとき、一年前に初めて二丁目を訪れたとき、ふと誘われるがままにアパートまでついていった中年男性のことを思い浮かべた。その男性はアパートでたくさんのクラシックのレコードを聞かせた。いわれるがままにレコードに耳を傾け、数時間じっと座っているうちに、おそらく、自分はクラシックさえしらない無教養な少年だと思われたのだろうと永田は感じ始めた。たしかに教養はないが、あからさまに馬鹿にされて平気というほどではない。一七歳の永田は歯がみをした。そして、いとまごいを告げるきっかけを必死に探し、外が薄暗くなるのを待って、ようやく、帰りますと言い出した。 「なんで、帰るんだ」  アパートの主は驚いて言った。 「あの、申し訳ないけれども、とにかく帰りたいので」  永田が再び言うと、彼はふと薄笑いを浮かべた。そして、ディズニーランドで売っていたという、顔面ほどの大きさがあるスティックつきのキャンディーを永田にもたせた。  帰り道、永田は、そのキャンディーの意味について考え続けた。そして、ひとつの結論に至った。つまるところ子供扱いされたわけだ。レコード鑑賞のあとにひかえているセックスに耐えられないほど|うぶ《ヽヽ》な坊やだと思われたにちがいない。  永田はたしかに繊細な風貌の持ち主ではあったが、子供だましの飴を貰って喜ぶような男ではなかった。彼は噴き出すような屈辱感とともにキャンディーを駅のゴミ箱に捨てた。  中野サンプラザの会場で話し始めた永田は、そのときの屈辱の記憶につきうごかされていた。 「つまり、必要なのはきちんと見ることだと思います。  何かをやるか、やらないかではなく、それが、自分にとってどのようなものなのか、他人にとってはどうあれ、自分はそれをどう思うのか、そのことについての十分な分析と理解がなくてはふれてはいけない場所。それが二丁目なのだと思います。  誰よりも真剣で慎重な人、大人の力をそなえたと信じられる人が二丁目に行くべきなのだと思います。  もし、自分がまだその力を得ていないと思うなら、二丁目に行く必要はないです。二丁目に行くことが大人になることじゃないです。逆なのです。大人になって、その上でなお二丁目のような場所が必要ならいけばよいんです。若い人が背伸びして大人になるために二丁目に行くのは、原因と目的をとりちがえているだけだと思います」  一時間後、新美は壇上から下りて、永田に話しかけた。一重の切れ長の目を見開いて体をこわばらせている永田の気持ちをほぐすように穏やかな笑顔を浮かべた。新美は微笑むと、それまでのこわもてぶりから、一転、ひきこまれるような優しい表情にかわる。 「このあと、少しお酒を飲んだりして、もっとリラックスした話をするんだけど、あなた、一緒にきませんか? お酒を飲めない年なら、普通の飲み物もあるだろうし、どうですか、もう少し一緒にいませんか?」  永田は、その会合を通して、新美とはなんと不躾な男だろうと思っていた。  その青年の態度は、ほとんど粗暴といってよかった。彼はつねに攻撃的なしゃべりかたでものをいうだけではない。新美は抽象論を毛嫌いした。同性愛を文芸の問題として潤色したり、同性愛者の問題解決を社会正義の実現としてとらえる優等生的な意見が出ると、不躾な彼は、主催者であるにもかかわらず露骨に舌打ちをした。気に入らないときには机を爪先で蹴った。  新美の粗暴はなかば演出だった。彼は、それまでの会合で、同性愛者自身が、ともすれば同性愛の生々しい現実から目をそらせるために抽象論に逃げ込みがちであることを知っていた。そして、抽象に逃避したら最後、けっして前向きな解決の糸口が見出せなくなることも知っていた。  同性愛をエロティシズムの問題としてとらえるのはひとつの論点だが、それは、男の同性愛者が同居のためのアパートを借りるのがなぜ至難の技なのかと分析する役にはたたない。日本にはなぜ正義や平等といった規範が根づかないのか、という議論は政治の腐敗構造を分析するうえでは有効だろうが、なぜ酒好きでもない自分が同性愛者に会うためには繁華街をうろつかざるをえないのかという問いに答えを与えることはできない。また、同性愛はそれぞれの同性愛者に固有の問題なので、話し合いなど不可能だとシニカルに考えることは自由だが、それならなぜ、このような会合に毎回、緊張しきった、永田のような青年があらわれるのか解釈できまい。  同性愛に対する論や思想が不要だということではない。それはおおいに必要だろう。また、社会制度の充実がすべてを解決するわけでもない。たとえば、将来、同性愛者世帯への年金制度がひかれることがあっても、なお同性愛者はさまざまな独自の苦悩をかかえこみ、年金は経済的問題以外の悩みを癒すことはないだろう。  だが、同性愛の問題を考えるとき、それはどこから始められるべきか。新美は、それはまず、現実の直視からだと実感していた。現実の把握なしには、すべての論はすみやかに空虚になる。そして、空虚な論をみんなで弄《もてあそ》んだあとには、より深い失望と孤立感が残されるだけなのだ。論は必要だ。思想も必要である。しかしそれは現実という手強い相手と切りむすんでこそ、豊かなみのりを得られるものではないのか。  だから、新美は話し合いが空論に傾きかけると、即座に舌打ちをした。現実から目をそらさせようという気配を感じると机を蹴った。その威嚇のもとに、同席者を直視しがたい自分たちの現実にひきもどそうと企んだのである。  自分たちは社会のなかでどのような存在なのか。その点にまず目をむけさせなくてはだめだ。それが新美の実感だった。自分たちがあきらかに|二等の人間《ヽヽヽヽヽ》としてあしらわれていること。しかもそれを当然のこととして受け入れていることを知らなくては、だれも先に進めないのだ。  新美の不躾は、このような実感の表現であり、それが永田を驚嘆させた。新美のような同性愛者に、それまで会ったことがなかったからである。永田がわずかながら知っている同性愛者は、いちように人当りがよかった。やさしい物腰でものやわらかにふるまった。だが、そのやさしさは、裏面に深い諦観を隠しもっていた。すなわち、同性愛者は世間の日陰者であるという諦観である。  新美はそのようなやさしさとも諦観とも無縁だった。ただこわもてだった。 「どうですか、このあと、少し一緒にすごしませんか」  その新美に言われて、永田は宿縁めいたものを予感した。  新美が同性愛に対して持つ情熱に自分もまきこまれること。そして、それを自分が望むだろうという予感である。  その日以来、永田は毎週日曜日になると、同性愛者の国際組織の日本支部が事務所を置くアパートに働きにやってきた。  四谷にあるその事務所は、以後半年間新美と永田の二人によって実質上切り回されることになり、一九八七年三月、永田が高校を卒業した翌日、彼らはそのアパートを出て、自前の事務所に引越しをした。中野にある、異様に日当たりの悪いアパートの一室だ。  引越し前、永田は母に自分が同性愛者であること、今後、新美とともに同性愛者のグループ作りを行なっていきたいと考えていることを話した。 「やっぱり片親だからいけなかったのね。私が育て方をまちがったのね」  母はこう言って泣き、永田は憤然とした。 「僕は、片親の子供として悪口をいわれないように、必死にがんばってきました。母が世間からうしろ指をさされないように誰より努めてきたんです。その母にこんなことを言われるのは心外でした。僕は一挙に心が冷えました。自分の育て方が悪かったと思いたいなら思えばいい。僕はそう思って家を出ました」  そして、家賃の安さだけが取り得のその部屋で、新美と永田は共同生活を送っていた。  彼らは恋人になったのか。ちがう。  単なる仕事上の協力者だったのか。これもちがう。  彼らはいわば一体だった。いいかえれば、新美がそれから二年の間に主要な仲間を吸収することができたのは、永田が必要な雑事をすべて肩代りしたからである。もし、永田がいなければ、新美は特異な組織力を持ちながら、早々に燃えつきていただろう。生真面目でおとなしい永田には新美のかわりはできない。だが、彼を組織の中心として機能させる役割については誰にもなしえないことをやりとげた。単純にして退屈な事務作業を繰り返して、けっして諦めなかったのである。  高校を卒業したばかりの永田は、時間を大幅に割かなくてはならない床屋修業はとりあえず避け、虎ノ門の喫茶店ウェイターのアルバイトを始めた。そして夕方事務所に戻ると、連絡事務や電話のカウンセリング、また全国から寄せられる相談の手紙の処理に忙殺された。永田は毎日、ほんの数時間の睡眠しかとらなかったが、その彼が疲れて眠る早朝、新美はこれまたわずかな睡眠からめざめて新聞配達にでかける。  新美が新聞配達で得た給料はすべて永田に渡った。そして、永田は他のグループとの会合などに忙殺されて、新美にはとうてい手の付けられない事務一切と、二人がかつかつ生きていける程度の家事をひきうけた。  睡眠不足と疲労から、彼らは急激に痩せ細っていった。疲れのあまり会話もなく、新美と永田は日当たりの悪い一室で短い眠りと単調な作業を繰り返していた。  そして、それから二カ月後の五月、新美と永田は上野公園にいた。  その日、公園ではエイズ予防法に反対する複数の市民団体が集会を行ない、ブースを出して公園の散策者にパンフレットなどを配っていた。そして新美も、予防法に反対するグループのひとつとして、『動くゲイとレズビアンの会(通称アカー)』の看板をあげたのである。公園のように誰もが往来する場に、同性愛者《ヽヽヽヽ》という名前がかかげられたのは、おそらくこれが初めてのこころみだっただろう。だが、新美も永田もそれに感動する余裕はない。彼らは連日の激務にやつれはて、永田は高校時代からすでに十キロ近く体重が減り、新美は蒼白な顔色だった。そして彼らが設けたブースは、他の団体に比べていかにも小さくささやかなものである。  ブースの前をおおぜいの人々が通った。何人かは、アカーの看板に目をとめた。しかし、しげしげとみつめる人は少なく、新美たちに話しかける人はさらに少なかった。  だが、新美も永田も気がつかぬうちに、彼らと同年配の一人の大学生が、ブースの前を三回往復していた。  彼はそぞろ歩く人々にまじってめだたず、けして看板を直視することもない。だが、さりげない往来のあいだに、彼はアカーという名前を正確に読み取り、ゲイとレズビアンというカタカナを脳裏に刻み込んでいた。  彼は感動していた。彼は風間孝だった。  高校を卒業して、東京の私立大学に進学した風間は、子供の頃の持味だった闊達さを、さすがに一部失っていた。思春期をむかえて、きわめつきの順応型優等生の風間も、自分が同性愛者という異質だと認めざるをえなかった。だが、家族との深刻な葛藤さえ経験したことのない彼にとって、同性愛者という事実はとうてい素直に受け入れられるものではない。  彼は東京の私立大学での勉強と、その大学に細々ながら命脈を保っていたノンセクトの学生運動に没頭した。彼は、そのうち学生運動にかぎらず、あらゆる差別撤廃を追求する市民運動に親近感をしめした。それらの運動が教える、ほとんど現実から遊離しかかった理想主義的正義追求の姿勢は、明朗な正義漢でありつづけたいと願う同性愛者・風間孝にとって一種の逃げ場でもあった。  彼は、その日も、エイズ予防法に反対する市民運動に興味を持って上野公園を訪れた。人なつこい彼はつねのように一人ではなく、大学の友人と一緒だった。だが、彼の感動をもっともそそったのは、エイズ予防法反対という主張ではなく、アカーがかかげた一枚の看板だった。  公衆の面前で自分たちが同性愛者だと宣言する人たちもいるのか。  彼は驚いた。そして新美や永田を見た。彼らが自分と同じ普通の風貌の男であることに感動した。  だが、その感動は、いつものように大学の友人と共有できるたぐいのものではなかった。それは、そのとき、風間一人の胸中におさめなくてはならないものだった。  そして七月、中野の事務所に、一人のきわめて内気な男性が永田を訪ねてきた。 「同性愛についての英文資料翻訳のボランティアを募っていると聞きましたが」  男は尋ねた。永田がたしかに募集していると答えると、彼はそれをやってみたいと言った。永田は、最前、ヨーロッパで行なわれた同性愛者の国際団体による会議の議事録を渡して翻訳してみてくださいと促した。男は言葉少なにうなずくと資料を持ち帰った。  一〇日あまりのち、永田に返された彼の翻訳は正確だった。その後、何回にもわたって、新美と永田は彼に翻訳を頼み、彼はいつも無言でうなずくと資料を受け取って帰った。  およそ影の薄いその男は、初めて事務所を訪ねた日、教職員採用の一次試験に合格したところだった。その年の初めから試験勉強に没頭していた彼は、一次試験の合格報を聞いて、ひさしぶりに好きな映画を見に街頭へ出た。好きな英文学の本も久しぶりに買った。そして、ついでに購入したゲイマガジンでアカーが翻訳ボランティアを求めていることを知ったのだ。  彼もまた、エイズパニックをきっかけにして同性愛の問題が、性風俗の枠組を離れて顕在化することがなければ、新美と知りあうことがなかったはずの人物だった。性を卑しむからではない。むしろ、彼は同性愛者との直接的な性生活については他人の力を必要としていなかった。その点では完全な個人主義者だった。  彼がアカーを訪ねたのは、同性愛者のグループが、直接的な性の問題とは関係なく英語翻訳の能力を求めていると知った驚きによった。彼は英語を偏愛していた。同性愛者として、その能力がいかせるとは思いもよらなかったため、アカーがそれを求めていると知って喜んでいた。  神田政典である。  小中学校では機関銃のような女言葉でしゃべりまくって、�単純カッカ�とあだなをつけられ、高校時代留学したユタ州で自分が同性愛者であることに気づき、あわや強制送還されそうになった神田の五年後の姿がそれだった。彼はしばらくして、ある私立高校の英語科教員に奉職する。  一〇代を不毛な恋愛の記憶で埋め、そのとき一〇代にまさる孤独な二二歳をむかえていた神田からは、饒舌も、これみよがしな自己主張も表面上影をひそめていた。息さえひっそりと吐くようだった。長身の彼は、学校の教師むきの金縁眼鏡の奥に、実は大変な強気を秘めた明るい色の瞳を隠し、ともすれば毒舌をはきがちな唇をぴったりと閉じ、そのわずかな隙間から小声を漏らして用件を伝えた。  だが、彼は次第に頻繁に事務所を訪れるようになった。そして新美は、この神田という男にはめったなことで私生活のことなど尋ねないほうがよいと直感した。とりあえず彼とは、英文の資料翻訳を仲介にしてつきあったほうがよい。直接接触しようとこころみれば、彼は次の瞬間逃げ去るか、その場に崩れ落ちるかどちらかだろう。あるいは過剰防衛の大爆発をおこすかもしれない。いずれにしても剣呑だ。一〇日に一回ほどの間隔でひっそりと事務所を訪ねてくる彼には、内部によほど大きな傷を負っている気配が濃厚だったのである。  同じ頃、永田は東京で働いている一人のコンピュータープログラマーから手紙を貰った。  アカーとはどのような団体なのだろうか。そのような質問がひかえめに書かれた手紙だった。永田は、ぜひ事務所を訪ねてきて下さいと書いた。だが返事はこなかった。それはよくあることだったので、永田はすぐさま彼のことを忘れた。  だが、手紙の差出人は返事をもらったことを忘れなかった。彼は大石敏寛だった。彼はゲイマガジンでアカーのことを知ったものの、同性愛者の団体というと、どうしてもいかがわしい集団しか思い浮べることができなかった。とくに、それが東京の団体だというところに彼の不信感の根があった。田舎育ちの彼にとって、東京は怖いところだった。そのうえ同性愛者の団体とくれば、連絡をとるなりとんでもない目にあわされそうな気がした。  しかし、大石はアカーという団体の存在を忘れたわけではなかった。  彼は自分がいつかそこを訪ねるだろうと思っていた。今ではないが、いつかだ。礼を失すると思いながら、永田への手紙の返事を書かなかったものの、いつか自分は同性愛の問題にかかわるにちがいない。  八八年の五月、新美たちは東京大学で講演会を開いた。  そして、陰鬱な表情の四国なまりの一人の男がこの講演を聞きにきた。永易至文である。 「肌の白い男だな」  永易は新美を見て思った。そして彼がスーツを着ているのを見て、ある感慨を覚えた。  なんと同性愛者もスーツを着るのか。そういう感慨である。  新美は、永田のときと同じように壇上から永易の姿をとらえ、講演がおわったあとで酒にさそった。永易はほとんど無言でついていった。新美は焼鳥屋に入り、永易は呆然とこう思った。  なんと同性愛者はビールを飲み、焼鳥を食べるのか。  彼自身は、その頃、あまりにも強い不適応感に悩み、いっそのこと中国へ留学でもしようかと考えていた。四国の郷里にいるとき、永易の楽しみはラジオで北京放送を傍受することだった。毛沢東に傾倒した時期があった。政治への興味もこの時期に生まれた。永易はどのような問題に対しても、ひたすら思想的に対処しようとしていた。  その彼にとって、ビールを飲み、焼鳥の串をくわえる同性愛者は衝撃だった。彼は初めて、同性愛者の日常を見たのだ。  彼は、それからアカーのもっとも無口な一員となった。だが新美は、永易のあまりにも暗い目つきを見て、正直なところ彼がまともに社会にむかいあえるのだろうかと、何度もあやぶんだ。  そして、古野はまだ他の同性愛者の誰にも会わず、両親が強いる、�正しい暮し�と、同性愛者である自分の現実との間にはさまれて立往生していた。彼は私立大学に進み、誰かを好きになりたいと思っていた。だが、文学青年の古野は現実面での積極性をもてず、ただ何か予想もしない境遇がふりかかってきて、気弱な自分が一変することを夢想するだけだった。実際には、それは、二年後に到来するアカーとの出会いであり、また、新美広という男との出会いだったが、そのときの古野は、もちろん何も予感してはいなかった。  エイズは、こうして新美の前にいくばくかの道をひらいた。  それまで彼と無関係であり、またエイズパニック以降でなければ知りあわなかったであろう同性愛者が新美の前を往来したのである。彼らはいちように、グループのリーダーとしての新美の特性に瞠目した。それは必ずしもリーダーシップの高さに対してではない。アカーのような、いわゆる�市民運動団体�を引率する人物としての特異さ、あえていえば異質に対してである。  新美はまったくステレオタイプではなかった。いわゆる良識派ではなく、市民社会の理想や、草の根からの社会改革などの信奉者ではなかった。そのポーズさえとらなかった。だが、それは彼の関心が異性愛者が多数派を占める社会で、同性愛者はいかに生きるかという一点に絞られていることを考えれば当然のことだ。  たとえば、新美と対照的な�良識派�である風間孝は、その理想主義的な考えを推し進めるかぎり、けっして自分が同性愛者であることを前面に押し出すことはなかったはずだ。彼にとっては、同性愛への差別解消は、�草の根からの社会改革�がすべて終了し、市民社会が理想とするあらゆる価値観の平等が実現されたあとに結果としてもたらされるはずのものである。 「僕は、本当にそんな夢みたいなことを考えていたんです。すべての価値観の平等が実現すれば同性愛は問題でさえなくなる。そのとき、僕は初めて自由になるとね」  風間は回想する。 「それが夢想にすぎないとは思わなかった、いや、思えなかった。すべての価値観の平準なんていう、現実離れした理想と一体にする以外に自分の同性愛の問題を考えられないのは、要するに自分自身でそれをいかがわしい、直視したくないものだと感じているためだと認めたくなかったわけです。僕は、当時、ほんとうにそんなふうでした」  おそらく、風間がおちいったと同様の思考の筋道によって、同性愛の問題は、いわゆる�良識派�の反差別運動からはつねにはじきだされてきたのではないか。環境から動物愛護にいたるまでおよそすべての差別に反対してきた市民運動は、どのような理由からか、これまで同性愛差別だけは、らち外に置いてきた感がある。事実、新美の仲間作りが他の市民団体の援助を受けたことはなく、新美以前に同性愛を主眼に据え、本格的に活動するグループは少なかった。それらの運動はなぜ同性愛については避けて通ったのか。それについての明晰な説明を、私は寡聞にして知らない。  だが、反差別運動が草の根からの改革によって市民社会が理想とするあらゆる価値観の平等を目的としていたなら、同性愛の問題がはじきだされるのは自明のことだと私は思う。  まず、あらゆる価値の平準は、おそらく実現しないと思われるからだ。第一、それは�市民社会の理想�とするにはあまりにも過激すぎる目標である。すべての価値観の差異が平らにならされたときとは、すでに国家も文化も消滅した状態だろう。おそらく�市民�の大半はそのような事態を喜ぶまい。すなわち、それは達成不可能な目標であり、したがって同性愛差別が結果的に解消されるときも永遠に訪れないということである。  また同性愛者は、圧倒的少数派だからである。いわば、�草の根�とはいっても、きわめて狭い範囲の草の根である。社会の構成員一般の幸福追求とは重なりあいにくい。草の根運動の要諦が�名もないわれわれ�が社会に対して行なう抗議だとするなら、同性愛者はあまりにも数少ない�われわれ�なのである。  同性愛の問題は、一般的な方法によっては陽の目をみない特異な問題だと思わざるをえない。市民運動という優等生の方便めいた抗議に同調し、その行列の最後尾に名を連ねたとしても、出番が訪れる可能性はきわめて少なかった。出番をつかむには、単線的な差別撤廃運動に対して、まったく枠組の違う、あえていえば一種横紙破りの力を加えるようなTPOが必要とされただろう。いいかえれば、ある特異な条件のもとでしか同性愛の問題は、世の中の大半にとって意味を持ちえなかった。  その条件のさいたる例がエイズだった。エイズによって、同性愛の問題は社会正義の実現や価値観の平準といった文脈ではなく、より切実な現実としての突破口を得た。  そしてその突破口の可能性を、ほとんど動物的な勘によってかぎつけたのが新美だ。これまた、まったく市民運動のリーダーに似つかわしくない人物だった。  同性愛はエイズという、時代の�横紙破り�によって、その表面に浮上した。そしてエイズがあけた小さな噴出口から、同性愛者は窒息寸前に浮き上がる稀有な可能性をとらえたのである。  そして、新美は、仲間が集まり始めた八六年から八七年にかけて、文字どおり、従来の市民運動の引率者らしくない試みを行なっていた。  彼は、エイズパニック以降の繁華街に沈潜していったのだ。しかも、それはゲイバーやディスコではなかった。彼は、もっとも危険な領域と言われる場所に赴いた。乱交場だ。新美は、そこに|ある《ヽヽ》事実を探しにいったのだ。  なぜエイズ以後も、実質上、繁華街で�人買い�を行なう男性同性愛者がまったく減らないのか。その理由を探しに彼はそこへ赴いた。  ところで男性同性愛者はエイズ検査に対してきわめて拒否感が高いことが知られている。エイズ予防法のような、検査による情報が一部、上部行政機関に強制伝達される場合になると、エイズ検査を受けると表明する同性愛者はわずか三〇%だ。同じ問いに対する異性愛者の男性の回答は九〇%、女性も同じ九〇%。情報が行政に伝えられなければ検査を受けると答えた同性愛者は六〇%。これは、医学専門雑誌『ランセット』の調査である。ちなみに、同性愛者の拒否率は、血友病患者、性産業従事者と同じ。つまり、もっとも罹患の危険が高いグループほど、検査は受けたがらない傾向にあるわけだ。  それはなぜか。そして、いくらエイズの恐ろしさが訴えられても、繁華街の男性同性愛者はなぜ性生活をかえないのか。そもそもなぜ彼らは繁華街で、乱交場で性を消費するのか。新美はそれを身をもって体験しようとしていた。彼はふたたび�たけし�となって、新宿をはじめとする同性愛者のための風俗街に出ていった。 「繁華街については、どうしようもない街だと思っていました。  いやな街、むかつく街だった。でもね、その街は死人を出す街なんだよね。それは、決定的にまちがいないんですよね。死人はね、この街から出なかったらどこからも出ないんですよ。そして同性間性行為関連感染者の隣では、異性間性行為関連感染者という死人が出る。それは、二丁目と歌舞伎町が隣りあっていることからだってよくわかるでしょう。日本は、あきらかに死人を生みだす街をもっているんだよ。それを無視しては、同性愛の問題も語れないし、エイズについても語れない。  繁華街というものは、どれほどエイズの恐怖を訴えてもけっして反省しない人々の群れらしい。では、どうして反省しないのか。本当のところは自分で確かめなくちゃ、わからないじゃないですか」  新美自身、かつては繁華街の住人だった。�たけし�のかつての隣人は、本当に、エイズという感染症の危険について周知徹底されてもまったく行動形態をかえないのだろうか。そもそもエイズについて、どのように思っているのだろうか。  一九八七年から八八年の一年間にかけて、新美は東京の風俗営業界をのきなみ歩き回った。  ゲイバーについては、�たけし�時代によく知っている。新美は、より直接的な性交渉の場─乱交場─に身を投じた。都内に五〜六軒あるサウナと、同程度の軒数をかぞえる旅館である。アメリカでエイズが蔓延しはじめたのも、このような同性愛者の乱交場からであった。それは、まさに死人を生む街の暗渠といえた。  彼は一人の若い客としてその場に赴き、服を脱いでサウナに入った。おおぜいの人々の誘いをおおむね断りつつ話をし、そのうちの何人かには自分がなぜ乱交場にきたかを語って、別の日に話を聞いた。そして、新美自身が性的興味を抱いたわずかな例外に関しては、乱交場から引き離したあとに何回かのセックスを持った。  一年間、そのような経験を重ねた上での結論はどうだったか。 「乱交はなぜ必要になるのか。同性愛者を死ぬほど憎んでいる同性愛者がいるからです。自分自身が同性愛者であることを深く憎む同性愛者がいるからです。そういう人々は、自分以外の同性愛者の顔も見たくない。話もしたくない。一緒に酒を飲むなどまっぴらです。しかし、セックスはどうしても処理しなくてはならない。乱交場は、そういう人たちに適しているんです。暗い室内で誰とも喋らずにセックスだけはできるからね。  乱交場では、極端なことを言えばみんながみんなの顔を見ることを嫌っているんです」  だが、自分の本質である同性愛を憎悪しつつセックスするつけは大きい。  エイズはもっとも大きなつけだが、それだけではないことを、新美はまさに肌で知った。  彼は、たった一年で、エイズをのぞくさまざまな性行為感染症を患ったのである。クラミジアであり、非淋菌性カイセンだ。毛ジラミや尿道炎もわずらった。それは性交からだけではなく、乱交場の不衛生なタオルやサウナで一眠りするさいにかぶる毛布などからうつり、新美を苦しめた。会話と酒と同性愛者を嫌う人々が集まる同性愛者の風俗店には、人々の会話の不毛を補うかのように、性行為による感染症が蔓延していたのだ。  新美は、そのほとんどすべてに罹患して苦しみ、とくに、非淋菌性カイセンには長く悩まされた。その感染症は手指の股を中心にした気も狂わんばかりのむずがゆさで患者を苦しめる。  新美は実感した。 「カイセンでさえ、これだけ苦しむのだから、誰もエイズに罹ってよかったとは思わないだろう」  繁華街にはときおり、むやみと勇ましい発言をする人々がいる。  どう生きても一生なのだからエイズも怖くはない。その人たちはこう言うのだ。どうせ同性愛者なんて日陰者なんだから、やりたいことをやってエイズに罹ってもしょうがない。そして、こうも言う。罹ったなら、どうせ死ぬんだから、いまさら検査なんてしても意味がない。  この発言は、HIVの検査を拒否する理由の最大のものだ。新美はそれを端的に断罪する。 「そんなの嘘です。嘘、大嘘だ」  エイズを得て本望な人はいない。繁華街の乱交場でも、みんなエイズを恐れていた。恐れながら、もっとも危険な行為をやめられないのだ。エイズが自分一人だけはよけてくれるように空しく願いながら乱交場に集まってくるのだ。同性愛者を厭い、自らを呪う荒涼とした孤独のもとに彼らはエイズの至近距離まで近づく。  彼らは誰も愛さない。自分も他人もだ。彼らは諦観と憎悪の中で、日々、HIV感染のロシアンルーレットを行なっている。そして、病気に対する恐怖感は、発病する時点まで一見楽観的な自棄の底に隠されたままだ。エイズとは、また性病とは、これほどたやすく人間の性行動に食い込み、食い荒す病気なのである。  しかも、性行為感染症は実に治しにくい。  そもそも、こういった感染症をあつかう病院が少ないのだ。新美は、非淋菌性カイセンという、性病としてはさほど深刻ではない症状を治療する病院を探して一年間を費やした。五回目に訪ねた病院での治療だった。  そしてカイセンが完治した八八年春、新美はエイズ抗体検査を初めて受けた。カイセンに悩まされたのなら、当然、エイズにとりつかれる可能性もある。初めて新美は恐怖に駆られた。思えば、エイズ予防法反対の活動をしている当の人物が、それまで本気で検査を考えないほうが不思議なようだが、新美はその点では繁華街に遊ぶ人々と似た心理状態にあったといえるだろう。 「結局、同性愛者に日常がないことが問題なんですよ。繁華街でしか性生活を送れない人というのは、一言でいえば日常のない人々なんです。日常生活に性を持ち込めないから繁華街に出てくる。そして、どれほど脅されても行動を改めない。繁華街以外に性生活の場がないのだから、それを改めたら性行為をあきらめる以外にないからね。  だから、エイズの検査についてもまったく積極的ではないんです」  彼自身の検査は陰性だった。検査を受けた時点で、彼は陽性をなかば覚悟していた。結果を聞いて、彼は自分が意外にも強運だったことを知った。  その強運のもとで、新美はエイズについていくつかの事実を得た。  ひとつは、それを予防啓蒙しようとする人も、それに感染する危険のある人も、双方がエイズという病気について圧倒的に無知だということだ。  もうひとつは、エイズは人間相互の孤絶に住みつく病だということである。  八八年晩夏。  アカーを始めとする、エイズ予防法反対諸団体の活動は流産した。  エイズ予防法が国会を通り、翌年施行されるはこびとなったのである。  新美と永田は、しばらくのあいだ放心してすごした。  永田の体重は四〇キロ台に落ちていた。  さらに、追い討ちをかけるように、彼は職場を追われた。彼は当時、ある企業の支社に準社員扱いで就職していた。真面目な働きぶりなので、まもなく正社員に昇格する内約ができていた。  だが、あるテレビ番組がその可能性を閉ざした。予防法成立直前に、永田は予防法関連のテレビ番組への出演を求められた。法制化反対の立場をとる市民団体の一員としての出演だ。彼は番組に出て、同性愛者がなぜ予防法に反対するのかを説明した。  職場の空気の変化を、彼が察知したのは翌週だ。番組以来、誰も昼食に行こうと誘わないことに永田は気がついた。食堂に行くたびに、そそくさと席をたつ同僚が目立つようになった。仕事中、誰も彼と話さなくなった。そのうち、永田は自分がエイズ患者だと噂されていることを知った。  つまりこういうことだ。同僚の何人かが、予防法に反対する同性愛者のグループの代表として彼が出演したテレビ番組を見たのである。そして同僚たちは、次の二点から永田自身がエイズ患者であると短絡した。すなわち、永田が同性愛者であること。内容はわからないものの、ともかくエイズに関するコメントを出していたこと。  しばらくすると、同僚たちはあからさまに彼と一緒に仕事をしたがらなくなった。同性愛者の永田の近くに寄ればエイズがうつると恐れたのだろう。そのように永田は分析している。  そして、ついに彼の問題は本社で行なわれる総括本部会の議題になった。  永田は本社に呼ばれ、七、八人の本部長の前でアカーの活動内容と、予防法についての対応を説明した。同性愛者ではあるが、HIVの感染など無根拠な噂にすぎないこと。そもそも、同性愛者と聞けばすぐエイズ患者だときめつけるのは偏見以外のなにものでもないことも付け加えた。  二〇歳の青年としては整然とした説明だった。その説明の前に会議の参加者は無言だった。全員が苦り切った表情を浮かべていたことを永田は記憶している。  彼はそのまま支社に帰されたが、数日後、一人の現場主任に酒を誘われた。  主任は異様ににこやかだった。永田がなにごとかといぶかっていると、彼は永田が行なっているという活動について教えてほしいと切り出した。彼がそれ以前に興味を見せたことはない。また、永田もアカーやエイズ予防法について会話した覚えもないので、彼が、過日、本社で行なわれた会議から知識を仕入れたことはあきらかだった。  永田は本部長たちの前で話したとおりのことを、彼に説明した。なんであれ興味をもってくれたのはありがたいし、このさい、エイズ患者だという噂を否定しておきたかったのである。  主任は、永田の説明にいちいちうなずき、たしかに最近、君について心ない噂がある、気の毒なことだと慰めた。永田は、職場の中にもようやく理解者ができたことを確信してほっとした。だから、主任が続けて次のように言い出したとき、永田は耳を疑った。 「噂については、僕自身はまったく嘘だと思っているし、同性愛者だということもたいした問題とは思わない。本当は、職場のみんなも君のことを特別な目で見ているわけではないんだよ。  でも、社外の人は違うからね。マスコミとか、外の人たちが、もし君のことを知ったら、会社のイメージはまるつぶれなんだよ」  ほら、写真週刊誌とか、そういった類のマスコミさ。ああいった連中が会社にやってきたら困るじゃないか。お客さんだって逃げてしまうだろうしね。主任はあくまでもにこやかに語った。 「個人的には気の毒だと思うが、外の人たちに、いちいち説明してまわるわけにもいかないだろう。だいたい、うちは接客の商売だから、こういった噂が一番怖いわけだよ」  彼は永田に実質上の退職を促したのである。  さっきの説明を理解したのではなかったのか。永田は呆然と彼の顔をみつめた。ついで、背筋が凍った。主任はただ、解雇をいいわたすためだけに彼を酒に誘ったのだ。活動内容を聞きたいというのは、単なる前置きにすぎなかったわけだ。そして、その解雇は、あきらかに本社から指示されたものにちがいない。永田は確信した。総括本部会に呼ばれたことと、今、主任が彼に退職を勧めていることが無関係とはとうてい思えない。 「僕たちは、本当のところ、なんとも思っていないんだ。同性愛だって差別するわけじゃない。人間、何をやっても自由だしな。だが、実際、君だって今の職場の雰囲気だとやりにくいだろうし働きにくいだろう。君のためにも退職したほうがいいと思うんだ」  主任は永田が手に持ったままの杯に酒をつぎたした。おい、呑めよと促した。永田は機械的に杯を口に運んだ。数日後、永田は退職した。  彼はこの経験によって、異性愛者の社会の中で生きる自信を失った。社会経験の乏しい永田はそれまで、ともに仕事するのに異性愛者と同性愛者の別はないと思っていた。実際、自由な雰囲気の職場で、先輩社員には何人か心を許せる人もいた。エイズ予防法反対キャンペーンに参加しているところが、テレビに映されるくらい、自分の仕事場にとってはどれほどのこともないと信じていた。  永田は退職後しばらく人を恐れた。同僚が誰一人いない職場がないものかと祈りながらアルバイト雑誌を繰り、結局、床屋の修業を再開することに決めた。手に職がつけば一人きりで商売もできる。彼は心中の怯えをかくして青山にある床屋に見習いとして通い始めた。  永田にとっても新美にとっても、八〇年代おわりはけっしてよい季節ではなかった。失業の不安と、社会からの孤立と、エイズの恐怖に怯え、世間に対してはかたくなな不信感を抱いていた。  彼らは中野の日当たりの悪いアパートの一室で、エイズ以降の同性愛の可能性についてときおり考えた。考えは否定的な方向をむきがちだったが、一方で事務所を訪れる若い同性愛者は増えていった。  神田はあいかわらず翻訳を受け持っていた。高校の教師に職を得た彼は、次第に当初の影の薄さを脱ぎ捨てつつあった。機嫌がよいときには、子供の頃からの�女言葉�が機関銃のように口から出るようになった。  風間は一年間迷ったあげく、八七年の五月、上野公園でみかけたアカーという団体に連絡をとろうと決心を固めていた。大石も、一年前に永田から返事をもらったままだったアカーを訪ねてみようと決めた。  永易は東大の五月祭以来、アカーの集会に顔を出してはいたが、いまだに違和感がとれなかった。大真面目で理想主義的な彼の気質と、新美の現実主義の間には大きなへだたりがあった。また、新宿二丁目や、神田のように�女言葉�をしゃべる人々については、実のところ、この世のものとも思えなかった。  永易が想像可能な悪徳とはたったひとつ。ゲイマガジンを買うことだった。彼はすてばちな気分になると、必ずゲイマガジンを買い、それで自分を汚辱の巷に沈めたつもりになった。気を許せる友人も恋人もなく、彼の関心事は、そのときアカーより、八九年夏に企画した中国への留学にむいていた。  同性愛者たちは、中野のアパートでかろうじて交錯したが、いまだに自分たちが出会ったことの意味を知らなかった。  彼らがそれを知るのは一九九一年になってから、すなわち、提訴が成立してからだ。  そして、彼らが一人のHIV感染者と、一人のエイズ患者に出会ってからだ。  大石敏寛と、ジョージ・チョイである。 [#改ページ]   第五章 僕は神が降臨するのを待っていた 「神さまが降りてくるって、なんです」  新美は混乱していた。動転していた。恐怖していた。  この強気な男が、これほど動揺するところを見るのは初めてだった。  彼の動転が一部うつり、私は即答ができなかった。 「降りてくるってなんです。神さまがなぜ降りてくるんです」  私は、新美にもう一度、サンフランシスコからの電話の内容を尋ねた。  新美はわずかにどもりながら、GAPAからの電話を繰り返した。 「なんです、いったい」  降臨《こうりん》でしょう。  私は答えた。  キリスト教の神さまは、ある日、空から降りてくるんです。そう言われているんです。空から降《ヽ》りて人々の前に臨《ヽ》む。だから降臨。 「ある日って、いつ」  最後の審判の日。世界がおわる日。神さまが空から降りてきて人間をいい人と悪い人にわける日。いい人に永遠の命を与えて、悪い人には永遠の地獄を与える日。 「どういうことなの」  ジョージ・チョイは世界がおわると信じたんです。  一九九二年九月九日だった。中野のアカーの事務所で、私と向かい合わせに座った新美は暗然と黙った。  つまり、ジョージはもうこの世はおわりだと思ったんです。だから、最後の日、神さまが空から降りてきて、悪い同性愛者のジョージを地獄に落とさないように、同性愛をやめて永遠の命を貰うために空を見上げていたんです。  新美は黙り続け、私は喋り続けた。 「エイズでしょう」  さらに続けた。 「ジョージは、自分が悪い同性愛者だったからエイズになったと思ったんでしょう。同性愛をやめれば、神さまは空から降りてきて、ジョージに新しい人生をくれる。エイズにかからない幸せな人生をくれる。そう思ったんでしょう」  その前日、GAPAから新美にかかった電話は、ジョージの身の上におこった事件を伝えるものだった。  ジョージは、その年の春、エイズを発症していた。私たちがサンフランシスコで出会ったとき、すでに彼はHIVに感染していたのだ。  かつて、新美は、なぜジョージが末期患者の世話に熱中するかの真意を疑った。それに対してジョージは患者が自分と同じ香港出身の移民だからだと語った。ひとごとではないからだと説明した。むろん嘘ではなかろう。だが、別の意味でも、その患者は彼にとってひとごとではなかった。彼自身が感染者であり、かなり高い確率で、患者と同じ状態を迎える可能性があったからだ。  ジョージの予想は一部あたり、一部はずれた。  彼はたしかに患者と同じような脳中枢をおかすエイズの症状を呈した。  だが、その状態は彼の予想を超えて悪かったのだ。 「神さまが降りてくるのを待っているんだ」  サンフランシスコの下町にある高校のバスケットコートでジョージはこう言ったと、GAPAからの電話は伝えた。  彼は、校庭の隅に膝を抱えて座り込んでいた。痩せてとがった顎をあげて真上をみあげていた。電話はそう言った。  サンフランシスコは一九九二年九月八日の深夜だ。  彼の前にはパトロール中の警官がいた。ジョージはその日、投宿しているホテルを抜け出して姿をくらましていた。エイズを発症した彼は、それまで病院で入院加療していたが、ある程度、症状がおさまると病院は患者に退院を促す。アメリカは絶望的なまでの病院不足状態にある。  ホテルは、病院をていよく追い出されたジョージの当座の居場所として、彼の面倒を見ていたソーシャルワーカーが借りたものだった。ジョージはすでに職業を失い、自宅も引き払っている。両親や兄弟はエイズを恐れて彼に近寄らない。エイズの発症は、かつて新美が羨んだ、彼の日常生活を徹底的に破壊していた。  ソーシャルワーカーは姿をくらましたジョージの捜索願いを出し、多くの人が、サンフランシスコの街路を右往左往して彼を探した。  その一人が彼の前に立っている警官であり、彼はジョージが何を言っているのかさっぱりわからなかった。中国系のその男は、ただ神さまのことしか喋らなかった。地面に座り込み、空を見上げて警官には理解できない神さまの話を繰り返していたのだ。 「神さまが降りてくる。僕は僕の神さまを待っている」  そのバスケットコートは、彼の母校近くにあった。彼が卒業した頃にはまだ治安がよかったが、今では、アメリカの都市としては比較的治安良好といわれるサンフランシスコにおいても物騒な土地柄だとされるところだ。  彼の両親が住む家も、またその近くにあった。サンフランシスコ名物である路面電車の線路沿い、海に近い地域にある、小さなアパートだ。薄く貧しさが漂うその一郭が、彼が生まれ育ち、兄弟たちとともに教育を受けた場所である。そして、今、彼は夜空を見上げていた。誰一人いないバスケットコートで、痩せこけた顔に恍惚の表情を浮かべていた。体重はすでに四〇キロを切り、語ることも、表情も、目の輝きも、彼が尋常な状態ではないことをあらわしていた。  GAPAからの電話は、ジョージが発症後、急速に宗教にのめりこんだことも伝えた。  彼がバスケットコートで呟いていた�神さま�は、その宗教の神、すなわちファンダメンタリスト──二〇〇〇年前、旧約聖書に書かれた事柄を忠実に守ろうとする原理主義者──の絶対神である。原理主義者はキリスト教のもっとも保守的な一派であり、聖書が大罪のひとつとした同性愛は最大の禁忌とされる。ちなみに、聖書が同性愛に触れた部分とは、旧約聖書レビ記二〇章一三節。以下のような部分だ。 「女と寝るように男と寝る者は、ふたりとも憎むべきことをしたので、かならず殺されなければならない」  この教えを忠実に守るファンダメンタリストは、同性愛者に対する非公式なテロ集団さえ持つと言われているのだ。  にもかかわらず、ジョージは、自ら望んでファンダメンタリストの教会に駆け込んだとGAPAのメンバーは伝えてきた。教会の牧師は彼に同性愛を禁じた。この世で最大の罪悪は男の裸に欲情することだと言った。もし救われたいのなら、死ぬまで、けっして男を思慕してはいけないと言った。  ファンダメンタリストの牧師としては、そうとしか言いようがなかっただろう。  だが、サンフランシスコにはファンダメンタリスト以外の教会がないわけではない。同性愛者のためにわざわざ門戸を開いたキリスト教団体もあるのだ。なぜ、ジョージは、そこに救いを求めなかったのか。  中国人だからだ。  ファンダメンタリストは、一九二〇年代から三〇年代にかけて、サンフランシスコのチャイナタウンに大々的な布教を行なった。ファンダメンタリストの教会の信徒になることは、中国人移民にとって、キリスト教を文化の支柱とするアメリカの一員になるパスポートだったと語る人は多い。  香港からの移民二世であるジョージ・チョイも、ほかの中国人と同じように、幼い頃には、ファンダメンタリストの教会に通った。牧師は、同性愛という�罪悪�にまみれる前の、無垢なジョージを知る人だった。 「地縁《ヽヽ》というものですよ。  牧師は、彼を小さい頃からよく知っていたんです。彼が同性愛者だと気づく前から、牧師は、チョイ一家の六番目として彼を知っていた。  彼がファンダメンタリストの教会に駆けこんだのは異常な事態ではありませんよ。考えられることです。人間には歴史がある。一人で生まれてきたわけではない。父や母の歴史を背負って生まれてきた。つまりそういうことでしょう」  日系三世のドナルド・マスダはこう解説した。後日、なぜ、よりにもよってファンダメンタリストに拠り所を求めたのかと、私が尋ねたときだ。そのとき、元気だった頃のジョージのふくぶくしい丸顔を思い浮べていた。エイズによってやせこけ、ファンダメンタリストの牧師から同性愛をあきらめよと終日迫られているジョージの顔を、同時に私は想像していた。ドナルドに対する私の口調は詰問に近かったかもしれない。  ドナルドは物理治療士として病院に勤めている。その病院で、患者にもっとも人気のある治療士だという。柔らかい心情と温和な人柄に恵まれた日系アメリカ人である。彼の英語は、中国なまりの強いジョージの英語と違い、きわめてなめらかだ。流暢すぎて私には聞き取りにくい。サンフランシスコに行ったおり、世話好きな彼が話しかけてくれるのに、その言葉がわからず、しばしば聞き返していると、あるとき、温顔というにふさわしい彼の顔が苦痛に歪んだ。なにごとかと思うほどの変化だった。 「キャンプのせいだ」  彼は唐突にそう言った。 「日本語が喋れなくてすまない。日本人なのに、だめなんだ。祖父と祖母は第二次世界大戦中、日本人を敵性外国人として強制的に収容するキャンプに入れられた。祖父母はそれ以来、自分の子孫をアメリカ人にしなくてはならないと思った。  自分の家の中で英語以外を使わせず、日本語は早く忘れるようにと言った。  だから、僕は日本語が喋れない。本当にすまない」  ジョージ・チョイにとってのファンダメンタリストの教会は、つまり、ドナルド・マスダにとっての強制収容所と同じなのだろう。同性愛者であろうと、異性愛者だろうと、人間は誰も歴史からは逃れえない。そういうことなのだろう。  そして、元ファンダメンタリスト教会の信徒、ジョージ・チョイはバスケットコートで、またその後保護されて収容された末期患者の施設でこう言い続けた。 「神さまが、今、降りてくる」  彼は繰り返した。  神さまと約束したんだ。だから、今、降りてくるはずだ。嬉しそうに言った。  そんなふうに気分がいいときもあったが、脳中枢を冒された彼は、ときに暴れ怒号した。 「早く、早く、早く」  彼は大声で叫んだ。  早く弁護士を連れてきてくれ。安楽死するから、その契約書を作るんだ。  いったいどうしたんだと聞かれて、ジョージは答えた。 「神さまが、僕を違う人にしてくれると言ったんだ。今言ったんだ。  だから、安楽死するんだ。  だから、弁護士を呼ぶんだ。安楽死のための契約書だ。もう同性愛はやめるんだ。そしたら、新しい命を与えてくれる。神さまが今そう言ったんだ。  神さまは、だから、今、降りてくるんだ。降りてくるはずなんだ」 「僕は行きたい」  大石敏寛は言った。 「僕は見たい」  そう言った。  ジョージの狂態を聞いたあとだ。 「僕は自分の目で見きわめたい」  一九九二年の九月だ。大石は感染を知って一〇カ月目を迎えていた。一九九一年一二月一日、世界エイズデーに検査を受け、その二週間後に感染を知ったのだ。感染と発症の潮目を分けるT細胞値は四〇〇。免疫機能に深く関わるこの細胞の値が二〇〇を切ると、エイズを発症する可能性があると判断される。細胞値四〇〇の大石は今のところ健常者とまったくかわらない。  その彼が言った。 「僕はエイズをちゃんとこの目で見たい」  当初、ジョージのところに行くと言い始めたのは大石ではなく、新美だった。  だが、彼の決意は二転三転した。  行きたいんですか。行きたくないんですか。私は質《ただ》した。  行きたいんですけど……新美は珍しく口ごもり、こう続けた。 「でも、耐えられそうにない」  俺は怖い。俺はわからない。俺は自信がない。痩せ細った末期のジョージを見て、そのあと、飛行機に乗って帰る時間に耐えられるかどうかこころもとない。多分、耐えられないんじゃないかと思う。 「私と一緒だったらどうです」  私は尋ねた。いずれにしても、ジョージの再取材には行くつもりだった。かつて私は、取材開始時に同性愛について無知なままで裁判の経緯は追えないと思った。同じように、エイズに無知なままで現代の同性愛者の問題を理解することも無理だとわかったのだ。  新美はうなずいた。そうだね、きっと一人でいくよりましです。  だが、しばらくたって、彼はこう切り出した。 「でも、どうせ行くのなら大石が行ったほうがいい」  第一、と新美は付け加えた。 「大石がエイズの実態をみたいと思っているなら、やはり、彼が行くべきでしょう。だいたい、大石がそんな意欲を見せることが、俺にしてみれば不思議なんですよ」  新美は苦笑を浮かべていた。 「大石はずっと�お気楽�な人生を送ってきて、あいつに関心があるのは遊ぶことと男のことだけだった。だから、俺はあいつが大嫌いだったんですよ。  でも、そのあいつが、今、自分の状態を見きわめようとしているんです。彼を行かせないという手はない」  それに、俺には裁判があるしね。  そうでした、裁判がありましたからね。私も同意した。  裁判は、一九九一年の二月に提訴され、同年五月に初公判が行なわれた。  その頃には、主要な七人の顔ぶれは揃っている。  そして、裁判のきっかけとなった府中での事件は、彼らにとってまさに試金石の役割を果たした。  事件の経緯を再度、手短にまとめると次のようになる。  一九九〇年二月一一日、アカーは、東京都教育委員会が管理する、青少年向けの宿泊・学習施設「府中青年の家」を、合宿用に借りた。公共の施設なので賃料が安かったためだ。参加したのは一八名。彼らはバレーボールなどのレクリエーションをしたあと、恒例の学習会と会合を行なった。その日の夕方、当日、青年の家を利用していた四グループのリーダーが集まる会合が持たれ、永田と風間がその席に臨み、アカーが同性愛者の団体であること、同性愛についての学習と差別解消活動を行なっていることを自己紹介がわりに報告した。  そのあと、他団体メンバーからのいやがらせが頻発した。アカーのメンバーは入浴しているところを覗かれ、嘲笑され、会議室の扉を叩かれ、廊下や食堂でホモ、おかまと罵倒された。そのいやがらせは、翌日も続いた。  そこで、アカーは青年の家の事務担当者に、他団体のリーダーと、再度話し合う場を作ってくれるよう頼んだ。  事務担当者は、当初、アカーに協力的だったが、次第に完全に嫌気がさしていることを露骨にしはじめた。彼は、他団体の迷惑になるので、話し合いの時間を割くことを求められないと言い続けたが、アカーは結局、その日の午後、ふたつの団体のリーダーと話し合い、後日、青年の家にあらためて改善策の提示を含めた要求書を手渡そうとしたが拒否された。  翌三月、前回は不在だった青年の家の所長とアカーは要求書についての話し合いを持ったが要求書の受け入れは再度拒否されたのみならず、二カ月後の五月に予定し、三月一日には前もって電話予約をいれていた青年の家の宿泊を断わられた。  宿泊を断わられた理由は、同性愛者は社会的に認知を受けていない、そのため他団体との間で不要な摩擦が生じると運営にさしつかえる、また、同性愛者の存在は青少年の健全育成に悪影響を与える、同性愛者は同室しているだけで、他の人のよけいな想像、すなわち乱交のイメージをかきたてる等である。  アカーは次に青年の家を管轄する教委の事務局である、都教育庁との間でも交渉を持ったが、教委は四月二六日、青年の家と同様の拒否回答を出した。拒否理由は青年の家の秩序を乱すおそれがあり、管理上支障があるためである。  この事件に対する提訴は、二つの側面がある。ひとつは、外に向けて、同性愛者への行政側対応の不当性を問うものだ。  そしてふたつめは、内に向け、若い同性愛者たちに、自分たち自身が同性愛について、また同性愛者として生きる人生についてどのように考えているかを鋭く問うものである。  すなわち世間に流布する同性愛者のステレオタイプに正面から挑戦する気迫を持っているのか。  それとも、多勢に無勢で勝ち目のない争いをするなど野暮だと、再び、同性愛者の持ち分だった諦観に逃げ込むのか。  同性愛者たちはこの二者択一を迫られた。  事件とそれに続く裁判が、彼らにとっての試金石になったとはこういう意味だ。 「僕は、あの事件の当事者でした。でも、ずっとびくびくしていた。青年の家の担当者に抗議しながら、必死でした」  これは風間孝だ。  彼は上野公園でエイズ予防法反対の看板を出していたアカーに、連絡をとるのを一年間躊躇したが、いったん事務所を訪ねてからは活発だった。そして、彼がおりおりに口にする平等主義の建前は、現実に深く傷つき、あらがっているメンバーの反発をよんだ。たとえば、新美や神田などだ。風間はあまりにも世間知らずの優等生だと彼らは批判した。だが、彼は同時にアカー全体にとっては貴重なバランサーの役割を果たした。  何か問題がおこったとき、風間のように建前的な対処を言い出せる人物は、実は少ないのだ。建前が出されて初めて、さまざまな議論はつくされる。数人で始めた当初の時期はともかくとして、すでに定期刊行物の購読申込み者が三〇〇人を数えるようになっていたアカーは、建前を必要とするようになっていた。もし、新美や神田の過激な本音だけに三〇〇人の集団がふりまわされたら、それはひとたまりもなく分解していたことだろう。新美の資質は、世の中の常識を覆し新しいものを作り上げるにはむいている。だが、それを多数の人々の合議によって維持するには適していないのだ。風間こそがその適任者だった。  そして、彼がそのときびくびくしていたのは、彼の�建前�が初めて現実の理不尽に出会って怯えたということだ。 「オカマだとか、ホモだとか、ほかのメンバーが罵られたとき、風呂場を覗かれたとき、新美と神田は間髪を入れず激怒しました。  そして、僕はそれにおびえた。そんなふうに怒れなかったからです。  もちろん不愉快だったけど、一拍おいてしか怒れない。瞬間的に激怒できる人を羨みました。自分が建前の一拍をおいて、怒りを演出していることをどうやって悟られないでいられるか。僕は必死だった。なんとか、同性愛者として排除されたことに激怒してみたいと。そう必死で考えていました」  怯えたあまり、まったく無反応だった人もいる。  古野直がそうだ。彼は、事件の半年前にアカーに、正確にいえば、新美広に出会った。  新美は古野が在籍する大学の学園祭のシンポジウムを開催し、古野は一聴衆としてそれに参加し、永田や永易と同様、新美に声をかけられたのだ。そして、その後の会合で、古野は新美との恋愛を直感的に察知した。  古野は、同性愛者としての共感について語るその会合で、実に文学青年らしい発言をしたのだ。 「同性愛者と言ったって、結局個人でしょう。個々の人間どうしなんて、そんなにわかりあえるものですか。同性愛者だろうと、異性愛者だろうと、そもそも他人に共感なんてもてるものですかね」  古野にとって衝撃だったのは、自分を誘った新美広という無愛想な男が、それこそ間髪を入れず、こう答えたことだった。 「私は同性愛者たちに共感を持っています。いつでも持っていましたし、これからも持ちます。その共感をたやさないように具体的に生きています」  古野はそれ以上、話さなかった。話すことができなかった。会合がおわったあとに、彼は外に出ていった。ほかの人々はどうあれ、彼は、ふらふらしていた。同性愛者に対して斜にかまえることしかしらなかった彼に、新美の発言は、一種の強烈な殴打だった。 「僕は、やってはいけないことを面白半分にやって、大人に初めて殴られた子供のようだった。子供の世界にとじこもろうとしている意気地なしを、容赦なく殴って外に連れ出す大人に会ったようだった」  ふと目の前を見ると、新美が横断歩道のかたわらで信号がかわるのを待っていた。そして、古野は確信した。 「僕は、この人と恋愛するだろう。この人を好きになるだろう。好きにならなくてはいられないだろう」  それまで一度も、本格的に男性を好きにならなかった古野の、初めての直感だった。  そして、古野は府中で怯えていた。風間と同じようにびくびくしていた。 「いつ、自分のバケの皮がはがれるかと恐怖していました。それまで、自分が同性愛者のくせに同性愛に対していかに軟弱に、気楽に、自分さえよければいいという態度ですごしてきたか。それが、事件をきっかけにみんなにバレたらどうしよう。  いや、新美にバレたらどうしよう。それが本音です。新美に軽蔑されるのが怖かったんです。  ええ、新美が好きでしたから」  傍観していただけの人もいる。大石がそうだ。 「煙草を吸ってましたね。怒っている新美や神田や風間や、そのほかの人を尻目に、みんながかんかんがくがくやっている部屋を出て、通路で煙草を吸ってました」  大石は、煙草を吸う仕草をやってみせる。妙になまめかしい仕草だ。 「�おねえ�ですよ」  大石は言う。 �おねえ�は、一般的には、女性的な男性同性愛者の形容だが、あえていえば、諦観的な同性愛者の姿そのものでもある。�おねえ�は、意識的に女性的なそぶりをし、女性的な言葉を使い、一言でいえば、異性愛の女性より過剰な女っぷりを演出する。同性愛者である自分が、既成の男性社会とは隔絶した人間だと主張するには、もっとも効果的な方法に違いない。  そして、それは、すべての切迫した問題から身をかわす姿勢でもある。  どうせ既成社会の|のけもの《ヽヽヽヽ》なのだから、まじめな問題について考える義理もない。それが�おねえ�の対外態度だ。  静岡ののどかな田舎から上京して東京の住人となった大石は、その�おねえ�を選択した。ひとつには、きわめて平和主義的な性格のためだ。彼は争いを望まなかった。そして、�おねえ�は争いと無縁な人々だった。  もうひとつの理由は、大石がどれほど多くの未知の人とセックスをしようが、心理的には身内の人々との調和以外に自分を外側へ開こうとは思わなかったからだ。�おねえ�の態度はいわば周囲の世界に対して、表面上だけ手柔らかく、内実では徹底的に拒否する姿勢だ。女性よりはるかに女っぷりのよい男性同性愛者の�おねえ�は、明るく、騒がしく、もの柔らかに、だが、実質上すべてのコミュニケーションを拒否しているのである。  大石は、上京後、積極的にそのような態度をとった。  アカーに参加してからも同じだった。静岡にいたときの自称は、�僕�だったが、すでに彼は自分を�あたし�と呼び習わしていた。そして、永易や風間がふきかける議論には、一貫してこう言い続けた。 「あたし、そんなむずかしいことわからないわよ」  彼はあながち、本当に事態がわからないわけではなかった。基本的に正しい理解力があった。素朴な使命感もあった。一種の屈折した正義漢だった。むしろ、そのために大石は、�むずかしいことはわからない�同性愛者、すなわち、誰からも馬鹿にされ、省みられない諦観的な同性愛者を代弁したのではないか。 �おねえ�の態度は、まさに世間の人々が考える�おかま�のそれだった。新美は、また風間や永易はそのステレオタイプに反発したが、大石は、むしろそれに同調し、同じ同性愛者からさえまともに扱われない彼らの立場を代弁した。�おかま�の、社会に対する屈折した態度を、大石は同じ同性愛者の前でも崩さなかった。その意味では、ずいぶん気丈な男だった。顰蹙《ひんしゆく》をものともしない生真面目な人間でもあった。  そして、彼は�おねえ�として府中でおこった事件に反応した。 「何がおこっても、脚を組んで、煙草をふかして、まったく世の中はいやなものよねえと言ってる。それが僕の態度だったんです。�おねえ�なんですよ。たばこの煙と一緒に、すべての真面目な問題を吹き飛ばしてしまう。ふうと煙を吐いて、ほんといやよねえ、こんな世の中なんか。そう言い、でも、いやなことをどうにかしようと思わない。  それが�おねえ�です。僕がそうです。いやなことは世間にいろいろあるけど、自分と関わりがあるようなふりはしないで、たばこをふかしていたのが僕です」  事件がおこった日の夕方、彼らは「府中青年の家」の帰途、駅前の喫茶店に立ち寄った。それから三々五々、それぞれの住居に散っていった。 「僕は疲れた、もう家に帰りたい」  古野が、ふたりきりの場面で新美に言った。本当にやつれた表情を見せていた。 「しまった」  新美は悔やんだ。この内気で優しい青年を追いつめてしまったかもしれない。そう後悔した。  古野は前年の秋の大学祭を契機に、アカーの事務を手伝っていた。その時期、事務作業は実質的に古野と新美の二人が処理した。  毎日アパートの一室で事務処理に追われながら、古野は隣に同じ作業に忙殺される新美がいることを励みにしていた。単なる恋愛感情だけではない。古野は、なにかやるべきことをしているという充足感を、新美とともにすごす時間のなかで得ていたのだ。  そして、新美は古野が自分に魅かれていることを、出会ってまもなく察知した。かつて、ピアノを愛する音大生を恋人にしたことでもわかるように、新美は、古野のような自分と異なる資質を持った男を恋愛相手としてもとめる傾向があった。  なにより、古野の受動的な敏感さが、新美の恋人としての資質をみたしていた。  古野は、きわめて感じやすい受動的な男である。彼の感性のアンテナは、他者と触れ合うとき怯えをふくんで繊細に揺れ動いた。古野が望むことは、自分の個性を守りつつ、波風のたたない他者との共存をはたすことである。そして、彼にはその適性があった。他者に対する想像力にすぐれているのだ。その他者が、同性愛者であろうと異性愛者であろうとかわりない。古野は他人の心情に敏感な心優しい男だった。問題は、彼がほどこす想像力や気遣いを、他人はけっして彼に返さないということである。ましてや彼が同性愛者だと判明すれば、多くの人はすべての気遣いを免除されたと感じる。つまり想像力と気遣いの貸借表において、古野はつねに赤字状態なのだった。  新美は、結局、そのような人物を好きになる宿命にあった。彼にとって好ましい他者のイメージは、全身不随の祖母が自分を受容する姿だ。損得抜きに無私の愛情を与える人である。報われることを期待することなく他人を思いやる古野と新美は似合いのカップルといえた。だが、一方、そのような個人的事情だけでは、新美と古野は結びつかなかったにちがいない。  もちろん、新美は古野にひかれた。それは恋愛感情でもあったが、同時にアカーという集団にとって古野のような存在が必要だという予感があった。 「古野がついてこれなければ、誰も結局はついてこれない。そう思いました。  古野は、敏感で繊細で、あえていえば坊っちゃん育ちでひよわだけど、ある意味で頑固な男です。わからないことを、安易にわかると言いませんからね。そこが貴重なんです。わからないけれども、ついていこうという意志そのものが、古野という人間なのです。  もし、そういう人物を切り捨てたなら、俺が始めたことはまちがいだったと思います。同性愛について、わからない、わからないと言い続けながらも考える人を尊重しなければ、それは意味のない活動なのだと思いましたね。  だから、古野については個人的に好きだというより、こいつを追いつめてはいけない、こいつを疲れさせてはいけない、その気持ちが一番大きかった。こいつはアカーという集団が正常に機能しているかどうかのバロメーターだ。そのバロメーターを焼き切ってはいけない」  一方、古野は疲れた表情で嘆いた。みんなが前に進もうとしているのに、僕は何もできない。僕は水をさすだけだ。  新美は冷静さをとりつくろった。たいしたことはないさ、という雰囲気でこうなだめた。 「他人の思いって、案外、わからないもんだよ。自分が考えるほど、他人はあんたのことを気にはしてないかもしれない。自分で感じるほど、悪い事態じゃないと思うけど」  なんであれ、これ以上、古野を心理的に追い詰めないようにと新美は内心、必死だった。  最後に古野は思い返した。自分がここにいてよいのか悪いのかわからないけど、やってみるよ、そう言った。  それから二週間ほどたった三月のおわり、古野はあらためてこう尋ねた。 「あなたは、個人的には僕のことをどう思っている?」  新美は、今回はむっとした。なんと手のかかる男だろうと思ったのだ。  彼らは、それまで一度、同じ床で眠ったことがあった。同衾《ヽヽ》とあえて言わないのは、古野が新美を拒んだからだ。前年のクリスマスの日、終電にのりおくれた古野と新美は事務所の床にふとんを敷いて雑魚寝《ざこね》した。新美は古野の気持ちを確かめようと手をのばしたが、古野は体を固くして拒んだ。ぜったいにいやだ、と古野は言い切った。 「ものすごい口調でしたよ。なにがなんでもいやだって。体が硬直しているから、俺、悪いことをしたなと思ってね。いや、ごめんごめんってすぐ手を引いた。つまり、こいつは、俺には好感を持ってくれてはいるが、性的な関係は持ちたがっていないんだなと納得していた。  そしたら、今度は、どう思っているのかでしょう。俺、むっとしたよ。こいつの文学的なプライドや、なんてんですか、揺れ動く心ってやつですか。そんなものに丁寧につきあうほど、俺、時間がないんだよ。手がかかるやつだなあ、まったく。率直なところそう思いましたよ」  なぜ古野は、クリスマスには�ぜったいいや�だったのか。そして、三カ月後には、新美の気持ちを確かめたかったのか。 「パンツ……」  古野は言う。 「パンツが古かったんだよ。あのクリスマスの日。本当のところ、古いパンツを見られるのが恥ずかしかった」  古野は、まるで性情報が遮断されていた時代、初夜の床にむかう処女のような羞恥でこわばっていたのである。  そして、新しいパンツを買った古野は、新美にあらためて自分たちはどのような関係なのだろうと尋ねたのだ。古野にとって、新美への個人としての感情と、同性愛者そのものへ向ける気持ちは、一部で重なり、一部で離れていた。そして重なりあう部分において、それは、きわめて繊細だが幼いところを残した古野を一人前の同性愛者の男として成長させる可能性があった。彼にとっては、新美と恋愛することが同性愛者としての成長を意味したのである。  そして、アカーのもっともひよわなメンバーの一人である古野の可能性は、実は、多くの古野に似た内気な同性愛者の可能性でもあった。誰かを好きになることだけが、自分の世界を外に開く可能性だという人は世の中にたくさんいるのだ。  新美はこう答えた。 「好きだという感情はある。  でも、好きだからと言って、すぐ性的な関係に入ってしまうと、なんだか馴れ合いみたいでいやだ。お互いの気持ちをもう少しためしてから、そんなふうになりたい。セックスはいつでもできる。いつでもできるから、いやなんだ。お互いに求めあって、覚悟を決めたいんだ」  古野はこれにもうなずいた。  どうやら危機は回避されたらしい。新美は胸をなでおろした。  古野の動揺に対して新美があわてたのには、それなりの理由があった。府中での職員とのやりとりは、まさに修羅場だったのだ。とりわけ、新美と神田の激昂ぶりにはただならぬものがあった。新美はかつて都市スラムで育った気の荒い男としての側面をいかんなく見せ、一方、神田は、モルモン教徒であった時代も含め、過去のすべてのトラウマが火を吹いたような勢いで暴発した。  それは古野ならずとも思わずあとずさりをする光景だっただろう。  風間はこう記憶している。  担当者がアカーの要請で、他団体の事情を聞き取りに行き、しばらくのち事務室へ帰ってきたとき、彼はやや恩着せがましい口調でこう言った。 「君たちのおかげで疲れちゃったよ」  疲れたってなんです。それが仕事でしょう。  神田が癇走った声で叫んだ。風間は一瞬、言葉を失った。 「そんなことを言ったら、まとまる話もまとまらなくなる」  そもそも、その担当者には事態を収拾するだけの力も、また立場もないことがあきらかだった。 「彼はただの事務員のおじさんで、そこに、突然、同性愛者の団体なんてものがやってきてしまった。そういうことでしょう。僕は結局、原告代表になりましたし、自分がやっていることを正しいことだと思いますが、一方でその担当者については不運としか言いようがないと思いましたよ」  風間はこう回想する。  事務担当者の不運は、アカーが事情聞き取りを頼みにいったとき、どのような理由からか、彼が安請け合いをした点にもある。その初老の男性は、同性愛などわからないと率直に口にするかわりに、若者のよき理解者のポーズをとった。 「君たちの気持ちはよくわかるよ。僕はずっと差別の問題に関心を寄せてきたからね」  彼はこう言い、新美は内心、しめたと思った。彼の発言を信じたからではない。たとえポーズであろうと、よくわかると言った手前、彼は団体間の調整をせざるをえないだろう。調整がうまくいけばよし、失敗しても悪くはない。それをきっかけに問題を提起できるからだ。 「同性愛の問題がどれほど扱いにくいか、それは俺たちはよくわかっているけれども、異性愛者はそこに困難があるということさえ認めてこなかった。  だから、安請け合いするんです。しかし、安請け合いでもなんでもいい。これは、異性愛者に同性愛の問題の難しさを知らせるいい機会だと思ったね」  案の定、担当者は数件、聞き取りを行なった時点で音《ね》をあげた。  新美の予想はあたったのだ。事務担当者の安請け合いが、裁判にいたるすべての幕をあけた。  以後、提訴にむかうまでは、新美の独壇場といえた。古野をはじめとするアカーのメンバーは彼が異性愛者の権威に対して切るタンカに引率されていたと言ってもよい。 「一生かけて後悔させてやるからな」  都教委に意見書を渡して立ち去るときに、新美はこう言い捨てた。 「てめえの顔、ぜったい忘れねえぞ。覚えてろよ」  教育庁の対応者に対してはこう捨てゼリフをした。  タンカは一方的に切られたわけではない。教委や教育庁の役人は十二分に侮辱的だった。  アカーの弁護士は教育庁の担当課長と直接電話をしたさい、次のような発言を記録している。 「アカーはまじめな団体だと言ってるけど、本当は何をしてる団体かわかりませんよね」  次のような発言もある。 「お風呂で色々あったって言うけど、そっちの方が何かそういうへんなことをしてたんじゃないでしょうかねえ」  青年の家の所長は、以後、アカーの施設利用を拒む表明を行なったさい、同性愛者の性行為について繰り返し、次のように問うた。 「『イミダス』なんかを見ますとね、同性愛者は不特定多数を相手に性行為を行なうという記述があるわけです。それは、どうなんですか。『イミダス』に書いてあるようなことはあるんですか」  彼はその点に執着した。 「あなたたちは、青年の家ではそういうことはないというけれども、それ以外でも性行為がないんですか」  同性愛者であれ、異性愛者であれ、普通、性的に設定された場所でなければ性行為を行なう気にはならないものだ。このような常識的見解は彼の頭には浮かばないようだった。性行為を行なえば�悪�、行なわなければ�善�という、この二分論の質疑応答の立場をいれかえ、異性愛者が見ず知らずの誰かに執拗にこう問われたら、私たちはどのように答えることだろう。 「あなたはずいぶん真面目なことを言うようですけど、女(男)とセックスはしないんですか。たしかに今はしないようなふりをしているけれども、別の場所でしないという保証があるんですか。女(男)とセックス、するんですか、しないんですか」  失礼ですね、私がセックスをしようがしまいが、あなたにどういう関係があるんですか、私たちはそう言うのではなかろうか。同じように、アカーのメンバーも答えた。そんな質問に答える必要があるんですか。セックスはきわめて個人的な問題じゃないですか。 「それなら、セックスすることはないんですか」  だが、青年の家の所長はさらに言い募った。 「何を考えているんですか。あなたは、同性愛者がふたり集まればつねにセックスをするとでも思ってるんですか」  と問い返されると、次のように続けた。 「そういうことじゃないですよ。だって、(『イミダス』には性交を行なうのは)ふたりとは書いてないから」 �ふたりとは書いてないから�という言い方は、つまり、あなたたちはふたりくらいではがまんできないくらいセックスしか考えていないのでしょう、どうせ乱交じゃなくちゃ気がすまないんでしょう、という無根拠な侮辱を伝えるに雄弁だった。  何人かのメンバーは、この侮辱を前に燃え尽きた。侮辱をタンカで切り返すこともできぬまま、自らの内面を怒りでくまなく焼き尽くしたのだ。  たとえば、あらためて青年の家に要求書を持参した日だ。アカーがその模様を撮影したヴィデオには、とくに威嚇的とも思えないメンバーに怒号する職員が記録されている。 「早く玄関からどけといったら。お客さまの邪魔だろうが」  彼はヴィデオの中でこう叫んでいる。  お客さまとはいったい誰のことだろう。青年の家は都民に開放された施設である。その施設でお客さまと尊称される人々は、この状況を考えると、おそらく同性愛者ではない都民のことにちがいない。都民に開放された施設の玄関に同性愛者がたむろすれば�まともな�お客さまは青年の家の管理の悪さに眉をひそめる。それは迷惑だ。早く姿を消してくれ。そう言っているのだろう。 「なぜですか。僕らは、ただ所長あての書面を渡しにきただけですよ。暴れているわけでもないのに、どうしてそんなことをするんですか」  職員がメンバーを押し返す画像に、風間の声が重なった。 「だめだ。お前ら、外に出ていけといったら」  職員はしゃにむに腕をふりまわした。  結局、風間は書面を渡すために室内に入ったが、多くの人々は外に押し出された。  彼らは青年の家の外にかたまった。罵言《ばげん》に傷つけられ、言葉にならない怒りを蜃気楼のように漂わせた一群だった。  そして、その靄のような怒りを破ってある人が叫んだ。 「ばかやろう」  永田雅司と同じ時期にアカーに参加した人物だ。アカーの初期を支えた一人とも言える。彼は青年の家の職員が閉ざした玄関扉にむかって吠えた。 「ばかやろう」  そして、この日以後、彼はほかのメンバーの前から姿を消した。  ばかやろうという一言が、彼がなしえた世間に対する最初で最後の抗議だったのである。 「燃え尽きるとはこういうことか。そう僕は思いました。ばかやろうと一言言うために、一生をふいにしてしまう人もいる。  彼は必死に生きたのだと思います。必死に同性愛者について考えたのだと思います。しかし、最後には燃え尽きてしまった。もう耐えられなくなった。耐えられないという気持ちを、|ばかやろう《ヽヽヽヽヽ》というひとことに込めたのでしょう。  でも、暴発したらそれでおわりなんだよね。そうしみじみ思った。おわったら、どうしようもないんだよね。僕は、彼をみて、そして彼が吠えるように言った�ばかやろう�を耳にして、燃え尽きるとはどういうことかがわかりました。  燃え尽きたら負けだ。いなくなったら、何もできない」  その場面を見ていた古野はそう思った。  アカーは、新美のタンカにひっぱられながら、ときに、このような自爆の例も出し、しかし、着実に裁判に向かって進んでいた。  そして、永易至文はその年の四月九日、留学先の大連から大学の寮に帰った。自分用の状差しをのぞくと、アカーという差し出し名で一通のニュースレターが入っていた。封を切ると、府中青年の家とか、都教委との折衝、提訴などの文字が並んでいる。  永易はしばし文面に見入ってから、ひとりごちた。 「なんのことやら」  折衝の、提訴の、という事態は、たしかに彼にとっては、|なんのことやら《ヽヽヽヽヽヽヽ》だっただろう。  彼は、アカーの会合に行くようになってからもなお、他の寮生と共用の状差しにアカーからの郵便物が入っているとうろたえた。アカーは、男女の同性愛者グループであることを明記している。それをみとがめられないかと恐れたのだ。  同じように学生運動をしている風間孝には、ほかのメンバーと比べてシンパシーが持てたが、ある街頭デモの中に彼の姿をみかけて、ついに声をかけることができなかった。アカーという同性愛者のグループの中での知り合いであることを公然と認める勇気がなかったのだ。彼は、それにひけめに似た罪悪感をもった。  思えば、アカーに出会う前、彼はきわめてピュリタニックな性道徳観の持ち主だった。アカーに出会ったあと、彼は初めて二丁目という場所のことを聞き及び、同性愛者の売買春の事実を知った。永易にとって、それは一種の異文化障壁だった。彼は同性愛者に性風俗という側面があることさえ考えたことがなかったのである。そして、その異文化を知ったあとでは、それまでの自分は清廉潔白だったのではなく、実は、同性愛者の�性�について、目をそらしていたかっただけだと気がつかざるをえなかったのだ。  そもそも鋭敏すぎる自意識の上に、自分は偽善的だというひけめが加わり、彼はほかの同性愛者の前に出ると、気の毒なほど緊張した。  合宿に参加して風呂に入るときなど緊張は最高潮に達した。人前で裸になることへの緊張ではない。寮には共有の風呂しかない。彼は風呂を使うのに躊躇したことなどなく、平気で人の背中を流していたのだ。だが、同性愛者と風呂に入ったとたん、彼は硬直せんばかりに緊張し、腰にタオルをまこうか、まくまいかという単純な選択肢に迷って死なんばかりの思いだった。 「自分の体を、自分のペニスを、いったい人がどう見るんだろう。そう思うと震えがきました」  永易はこう言う。だが彼が恐れたのは、おそらくペニスを見られることではない。彼は自分の偽善を見破られることを恐れたのだ。彼の過敏な自意識は、偽善性が自分の肉体の上に刻印され、今にもそれを他人に指摘、糾弾されるかのように感じて震えたのだろう。  ちなみに、世間に流布している男性同性愛者に対する見方のひとつに、彼らは手当たりしだいに性の相手を求めるというものがある。乱交場などでの事情が影響しているともいいうるが、もっと大きな理由は、男性同性愛者の�性�が肛門性交をする人々という以外に、まったく見えない状態になっているからではないか。同じような言い方をすれば、女性同性愛者の�性�は、指やバイブレーターや、その他、ペニスの代替物でセックスする人々という以外に、まったく見えない。しかも、その顕在率が男性に比べて低いために、その実態は知るにもあたいしないものとして放置されているのだろう。  ともあれ、たとえば、男性がみんなで入浴するさいに同性愛者がまざっていることがわかると、なぜ恐慌におそわれるかの理由は、彼らの�性�のありようがわからないためだと言ってよいのではないか。そのため、それをやたらに一方的な攻撃としてとらえ、過剰防衛を始めるのだ。 「府中青年の家」でおこった事態の本質は、おそらくそこにある。  また後日、都教委が出した、 「同性愛者も宿泊と入浴をせずに、日帰りの利用であれば、これを許可してよい」  という珍妙な妥協案も同じように解釈されるだろう。  風間は、アカーに連絡をとる直前にこのような経験がある。ある晩、彼は大学でもっとも親しかった友人を自宅に泊め、その当時、なにより頭を悩ませていた問題、すなわち、自分が同性愛者であることについて打ち明けた。そのとき、風間が親友だと思っていた男性はどのように言ったか。 「俺、今夜はジーパンはいて寝るよ」  ジーパンをはくとは、風間が知らぬまに彼を押さえつけ、肛門性交を強要することを防ぐという意味合いだろう。 「気持ち悪い。お前、襲ってくるなよな」  彼はそうも言った。そしてジーパンをはき、下半身すなわち肛門への唐突な挿入を防いだまま、まんじりともせず、電車の始発を待って逃げるように立ち去っていったのだ。友人として築いた信頼関係は、同性愛者という一言で崩れ去った。風間はすでに彼の親友ではなく、寝ている間に体を奪うかもしれない暴漢になりかわったのだ。  同性愛者が性行動においては見境がないという見地とは、たとえばこういうことなのである。  しかし、実際には一般的な家庭に生まれつき、繁華街にとくに興味も好意も抱かない人々は、風呂場であろうと、サウナであろうと、無差別に手を出すどころの騒ぎではない。むしろ、そのときの永易のように、自分が�性�を持った同性愛者であること、そして自分の肉体が、まぎれもなく同性愛者の肉体であることさえ受け入れられずにどぎまぎするのだ。  彼らは自分の�性�さえまともに受け取れない。そのような彼らが、手当たりしだいにセックスの相手を求められるものだろうか。永易に似た彼ら、性行動についてあまりにも抑制的な同性愛者は、ナイーブな異性愛者が異性の前に全裸をさらす以上に、他の同性愛者を見ただけで異常な緊張状態に置かれるものなのである。  そして、永易は、中国留学を終えて再び、自分に異常な緊張を強いる同性愛者のグループ、アカーが出したニュースレターを読んだ。そして翌五月の連休に、ようやく寮を出て赤羽のアパートに移った彼は、再びアカーに連絡をとった。  提訴を控えて、アカーの会合はきわめて頻繁になっていた。同性愛者でありながら、同性愛者に心を開くことができない永易でさえ、思わず、ひきこまれざるをえないほど多くの会合がひらかれた。  日本の若い同性愛者は、『府中青年の家』での一件以来、これまでの沈黙を破って語り始めた。それは、心の片隅にしまわれた絶望の記憶だったり、また、精神の内奥に針をおろす文学的述懐だったりする。  だが、どのようなものであれ、語ることはひとつの力を持った。  彼らの多くは、それぞれの境遇や考えを、提訴から裁判にいたる時間の中で初めて知ったのだ。  すなわち、提訴という大問題について話し合っているうちに、むしろ個人的な事情のほうがあかされるようになったのだ。同性愛とは何かを、同性愛者が生まれ育った土壌と無関係に語ることは不可能だった。同性愛者自身がその問題を語り合ったことがないため、いわゆる統一見解などはもとよりない。彼らは、あくまでも個別の自分自身から出発して、同性愛者という一般を手探りする以外になかった。  それが結果的に、彼らどうしを初めて知り合いにさせた。個人史について語ることはそのうち、アカーの中で定例化していく。それは、そこにいる全員が同性愛者という共通項を確認する作業でもあったが、同時に、同性愛者とはいえ、自分たちはそれぞれなんと違う個人なのだろうという認識を得る場でもあった。両者はけっして矛盾しなかった。むしろ、彼らが偏狭な教条主義、不毛な理想主義の陥穽におちいらないために必須な作業だった。  彼らのうちのある人は、勝共連合にある時期所属していたと語った。それを聞いたある人は、ぎょっとして、僕は共産党員なんだがな、と言った。俺、実は韓国人、嫌いなんだよね。いつも朝鮮高校のやつらとケンカばかりしてたからさ、とある人が告白すると、隣に座っていたある人が、あの、僕、在日なんだよね、とあかした。  僕、面食いなんだと誰かが言い、馬鹿じゃないの、心はどうしたの、心は、と誰かが切り返す。そして、さらに、僕にも心はある、あるけど面食いなんだ、悪いか、と最前の人物が言い返した。  俺、昔、気に食わないネコを殺したことがある、と誰かが告白すると、ネコをなによりも愛している動物好きの人物が卒倒しかけた。今度中島みゆきの「夜会」に行くんだとある人が楽しそうに言い、別の人が、あんたの趣味を疑うよ、とつぶやいた。  そして、あまりにも傷ましい自意識の持ち主である永易も、すべての人が自分について語るその場に吸い寄せられていった。 「彼は、そのとき、なんといえばいいのか、中国人民そのものみたいな格好をしていましたよ。どこで買ったのかわからない、紺色の服を着てましてね、人民帽みたいなものをかぶっていた記憶さえありますよ。そして、むちゃくちゃ暗い目つきなのに、議論を始めると、とにかく喋る、一方的に喋り続ける。相手が聞いていようといまいと、まったくおかまいなしでしょう。  彼は、たしかに僕と同じように学生運動をしているとはいっても、僕とまったくかけはなれた人物でしたね」  風間は当時の永易について言う。  そして、永易は風間についてこう思っていた。 「どうもスタジアムジャンパーを着て、髪にムースをつけて、学生運動をやっている男というのはなあ、信じられんなあ」  たしかに、風間は派手なスタジアムジャンパーをはおり、髪をムースで整えていた。実は、派手好みだったからではないのだ。風間はアカーのメンバーに一種の、容貌コンプレックスを抱いていた。終始、教条的な平等主義者だったにも似合わず、風間は、当初、同性愛者の団体を美少年の大集団のように思っていた。少女マンガのヒーローのような、瞳に美しい星を映した美少年がとぎれもなく湧いてくるような非現実的な想像にとらわれていたのだ。そして、自分を美貌だとも、社交的だとも思わぬ風間は、その集団において、自分が多少劣る容貌によって排除されるのではないかと、本気で恐れたのである。仲間はずれという事態は、順応をモットーとする彼のもっとも耐えがたいものだった。スタジアムジャンパーも、ムースも、実はそのような事情によって採用された小道具だったのだ。  同じ理想主義者の風間と永易には、そのような食い違いはあったものの、アカーに参加する機会が増えるにつれ、風間は提訴のための訴状作りの中心人物に、また永易は活動記録の文案を作る立場におさまるようになった。  そして、風間は、何度もその立場を放棄したくなった。同性愛者の共存をめぐって訴えをおこすことなど、誰がやっても疲れ果てる作業だっただろう。彼は、百家争鳴というべき、同性愛者の若者の意見に耳を傾け、それをまとめあげることに、たびたび音をあげそうになった。  他方、永易はつねに陰鬱で、人が聞いていようといまいと突発的に話し始めることはあったが、ならしてみれば言葉は少なかった。他の人々が裁判に向かってスタートを切っているのに、自分は中国から遅れて帰ってきた青年にすぎない。彼はさらなるひけめにさいなまれていた。  彼はうつむいて、会報を作る作業にいそしんだ。それが、彼ができる唯一のことだった。そして、彼は、うつむきながら、こんなことをときおり考えた。 「新美は、なんというか、つまり毛沢東みたいだ。  それから、裁判は彼にとって、人民公社みたいだ」 �人民公社好《レンミンコンシヤハオ》�毛主席のこのひとことで、中国農村経済の構造は底辺から変わった。結果的に、人民公社は農村を壊滅的にいためつけたが、あえていえば他に例をみない、まことに革命的な人民公社制が、毛の一言で中国全土に敷かれたのだ。結果は惨憺たるものだったが、発想そのものは、混迷をきわめた中国という大国を、根源的に過激な方法によって建て直そうというものだったはずだ。  そして、新美の切迫感は社会の枠組を変えるという情熱については、まさに人民公社なみに真剣で過激だった。同性愛者の問題とは、単に時間を経れば必然的に解消されるような事柄ではない。これは現実的におこることへの一対一対応《いちたいいちたいおう》で切り抜けられぬ問題だ。社会が、異性愛だけを正当とし、それ以外は単なる逸脱とする枠組を持つかぎり無理だ。つまり、構造そのものを変えなくてはならないのだ。それ以外の穏当な抗議は、同性愛については無意味である。  新美はそう感じ、行動している。永易はそう思った。新美は、自分がくつがえそうとしているものの層の厚さを実感として知っていた。それが、正論や建前で歯がたつものではないことをも知っている。  つまり、理論だけで、この世の中の同性愛者の問題に対処できると思ってきた自分たちに対して、新美は|だめ《ヽヽ》、と言ったのではないか。そして、横紙破りであるかもしれないが、裁判という手段に訴えることについて�好�と言ったのではないか。  中国から留学を終えたばかりの永易は考えた。新美の牽引力は、その当時、たしかにカリスマ的な強烈さを持っていた。  そして裁判は提訴に向かった。  それはひとつのおわりと、ひとつの始まりを意味した。  おわりは、ほかならぬ新美がアカーではたす、牽引車としての役割の終演である。  府中青年の家でおこった事柄について提訴を行なうことを決めた時点で、新美は表舞台から下りることを覚悟していた。  裁判という公的な手続きにとって、新美はあまりにも欠点が多かった。  彼はかつて二丁目の人気者だったからだ。 �たけし�を知る人はおおぜいいる。彼らは、�たけし�の恋愛沙汰について、あれこれととりざたするにちがいない。それは、あきらかに裁判にさしつかえる。 「裁判の原告は無垢の人でなくてはならなかったのです。  同性愛者は、おおむね、彼らのような人々です。しかし、彼らはそのままでは浮上できなかった。俺のような、たとえば繁華街に生き、同時に市民運動のようなものにもかかわれる人間はとても少ない。俺のような生き方はたしかに非常識でもあるだろうし、自分自身、まったく誉められた話じゃないと思ってる。同性愛者として少数派でもあると思う。  だけどね、この両方を知っている人間がいなければ、他の同性愛者は多分、ものを語れなかった。  繁華街も、裁判もともに男の同性愛者の真実を映す鏡ですけど、そのふたつの世界を両方生きられる人間はまずいない。それが日本の同性愛者の実態なんだと思いますよ。セックスを求めて繁華街に出ていけば、まずまともな日常生活からは遠くなる。かといって、まじめに暮そうとすれば、結局、セックスを諦めなければならなくなる。その二律背反の中で、まるごとの同性愛者についての事情を語れる男は、アカーの中では俺くらいしかなかった。  そして俺は語りました。自分の本分は尽くしました。  だが、なんといっても、俺は裁判などというおおやけの場にはふさわしくない、うしろぐらい、あげあしをとられやすい生き方をしてきました。俺が出ていってはだめなのです。俺をひきずりおろせる人は多すぎるほどいる。俺は他の同性愛者を表に出すためだけに通用する人間なんです」  新美は、裁判が決まった時点から、自分の存在を消そうと努力した。同性愛者は、異性愛者と同じように普通の人としての社会生活を得なくてはならない、というのがアカーの訴えの骨子だが、新美はその原告としてはあまりにも型破りだからだ。彼は繁華街で生き、それなりに媚びを売り他人を裏切りも傷つけもし、さまざまな人と性交渉を行なった。危ないセックスは行なわなかったが、いわゆる道徳清廉主義とは無関係な生き方をしてきた。 「そんな人間が、同性愛者の代表として裁判に出ていったら、同性愛者の悪いステレオタイプをいっそう強めるだけでしょう。  だから、裁判の原告は風間でなくてはならなかった。永田でなくてはならなかった。神田でなくてはならなかった。  なんであれ、俺であってはいけなかったんです。  つまり、�たけし�はけっして原告になれなかったんですよ」  新美は、他の同年配の同性愛者が提訴の決意を固めるまで、アカーという、ほんの数年前まで得体もしれなかった集団を牽引した。  そして、彼は提訴が近づくにつれ、むしろ、個人的な生活のほうにこもるようになった。彼にとっては、初めて経験する安定した感情生活、すなわち、古野直との恋愛にである。  彼らは、九〇年五月に初めてセックスをした。  それは、彼らに相応の充足感を与えた。  そして、七月にはアカーと大学生活の双方をまっとうできないことを、勤直を旨とする両親にとがめられた古野が家を出てアカーの事務所にころがりこむ。  その年の四月に次男から同性愛者であることを打ち明けられた母は、ある日、たまたま彼が実家に帰ったところをつかまえて詰問しはじめた。そのうち、気分が昂じてそこにあった一斤の食パンの細長い塊りを手にとり、息子の頭を思い切り殴りつけた。  しかし、気質としては繊細かもしれないが、古野はすでにまぎれもない大人の男に成長していた。食パンの塊りで殴られて改心するようなやわな肉体をもたなかった。それどころか、自身はおそらく考えもしなかっただろうが、もし力を奮おうと思えば、並みの体格の男は相手にならないほどの強さをもっていた。ともあれ身長においては大男の部類だろう。少なくともパンで殴られて怯え畏縮するほど幼くはなかった。彼は憤然とし、以後実家によりつかなくなった。  新美は困惑した。それは、たしかに大変なことだった。古野の家出を両手を広げて受け入れるには、中野の事務所は狭すぎる。そもそも家賃はどうなるのだ。新美は途方に暮れていた。  だが、同時に、古野は新美にとって初めてのステディな恋人という新しい経験を運んできた。 「恋愛というものには意味があるなと、俺はそのとき感じました。  恋愛がなければ、人間は、ひとつのことにただひたすら必死になれる。だけど、恋人との関係は、結局あらゆるところにアンテナをはりわたさなくては実現しない。  つきあって三カ月もすると、いったい、なんでこんなやつとつきあっているんだろうと思いましたよ。  たとえば、俺が朝帰りをすると、何してたんだ、とつめよるでしょう。気になって、一晩眠れなかったというでしょう。それを聞くと、しょうがねえなあと思いますよ。でも思う反面、こいつ、ほんとに眠れなかったんだろう、ほんとに、俺が帰ってくることだけを待っていたのだろうと思いましたよ」  彼は、そのような瑣事に足を取られながら、裁判とは何かを考えた。そして、それはこのような瑣事を含んで、なお大問題に対して前に進んで行く意志なのだと思った。すなわち個人的な事情を、社会的事件と同じ切実さで考える意志なのだと思った。  そして、彼は、ときどき、深夜、事務所の同じ床に休む古野の寝顔をみつめた。  実家を離れた古野は、頻繁に悪夢に襲われるようになっていた。  彼は眠りながら眉根を寄せ、ときにこうつぶやいた。 「あ、差別《ヽヽ》だ」 「あ、これも差別《ヽヽ》だ」  寝苦しそうに頭を転々としている彼を見て、新美は苦笑した。  なんで、こんなやつ、好きになっちゃったんだろうなあ。  本当に、お坊っちゃん育ちというか、いい家のお嬢ちゃんみたいだ、こいつ。  きっと、今まで、こんな狭いところで、他人と肩を寄せ合って眠ることなんてなかったんだろう。生まれて初めて、こんなところで、俺の隣の狭いふとんにつめこまれて、毎日、ものすごくストレスを感じているんだろうな。  あと、こいつは差別は感じなくてはならないんだ、と必死になってんだろうなあ。それくらい、直接的な暴力とは無縁のところで育ったんだろうなあ。  へんなやつだ。  新美はもう一度、寝言を言う古野の顔を見て思った。  俺、なんで、こんなやつ、好きになっちゃったんだろう。  同じ頃、大石敏寛は、アカーと縁を切ろうと考えていた。  彼は、アカーだけではなく、日本と縁を切ろうとも思っていた。大石は、提訴までに二度、サンフランシスコに行ったことがあった。一度は、東京で通った専門学校の研修旅行、もう一度は個人的な旅行だ。そして今、彼には、二度目の旅行で知りあった、中国系のアメリカ人の恋人ができていた。彼は、さかんにアメリカで一緒に住もうと誘う。大石には珍しく、彼へは家族に似た愛情を持つことができた。彼と築く家庭には、それなりの魅力があった。  さらに、大石は、裁判をめぐるこむずかしい論争には違和感があった。提訴の直後から、アカーという集団の中で、いったい自分は何ができるというのか、ただのお荷物なのではないかといぶかり案じていた。すでに、あるコンピューターソフト開発会社に就職していたが、裁判の問題と、仕事と、恋人との将来とは、彼の中で相互に結びあうことなく、ばらばらに存在していた。しかし、彼が仕事を本格的に始めた九一年五月には、裁判闘争が本格化する。 「僕の家では、母も姉も含めて、全員が働いていました。ちゃんとした職業を持たずにアルバイトで食いつなぐなんてのは、どんな理由があれ、大石家の人間には考えられない非常識なんです。  だから、僕が同性愛者の裁判にとりくみたいから、せっかく就職した会社をやめるなど言い出したら、家族がどれほど驚くか、悲しむか。  でも、一方で、僕はなんだかこんな気がしたんです。このバスを逃したら、もう自分が乗れるバスはこない。同性愛者の仲間と一緒に乗れるバスは、きっともうこない。  だから、僕は六月に会社をやめました」  彼は人事部長に、僕は同性愛者です、と申し出た。同性愛者の裁判の支援と、仕事はとうてい両立しませんので退社します。こう言った。  それからあとの半年は、大石にとってもっとも不愉快な時間となった。長兄は退社を責め、母は、息子はついに東京でおかしくなってしまったと怯えた。彼は、すでにその年の二月に帰省したさいに母に同性愛者であることを告げている。母は怒った。東京という魔都が、かわいい息子を同性愛者などというものにしてしまったのだ。  さらに、彼は古野とまったく気があわなかった。退社後、彼はアルバイトで食いつなぎながらアカーの事務面に専念したが、同じように作業をしている古野との気持ちのすれちがいは深まるばかりだった。一度なんとか穏やかにものごとをおさめようと、新宿のゲイバーで話し合いを持ったことはあるが、結局、�おねえ�の大石と、文学青年である古野とは、とうてい接点をもつことができないということを了解しただけだった。  彼らは、新美をめぐる感情をおいてもそしらぬふりで対立していた。古野は確信的に、そして大石はそこはかとない愛着を新美に感じていた。それは、おそらく、彼らだけの事情ではなかっただろう。提訴に至るまで、新美は抗しがたく強烈な牽引力を、アカーのメンバーの上におよぼした。アカーの主張に同意しながら、新美の力を無視できる人はいなかったはずだ。  にもかかわらず、新美にとって、大石は気に障る存在だった。  たしかに事務作業はまじめだが、大石は提訴についての話し合いには傍観を押し通す。話しあいにはけっして真剣に加わらない。それだけでも気に障るのに、大石はアカーの若いメンバーに人望があった。なにしろ面倒見がよいのだ。大石は難しいことをいわず、他人を攻撃しない。彼は、同性愛者であることにとまどいを感じている気弱な一〇代の少年の庇護者として最適役だった。古野はこう当時を分析する。 「新美は、多分、あのとき大石に嫉妬していたのじゃないでしょうか。  新美は敏感なんですよ。自分の敵になりうるものについてはね。大石は、新美と違う意味で人望があった。力をもっていた。新美は、おそらくそれに嫉妬したんだろうと思いますよ」  さらに、大石は同性愛者の問題をまじめに考えてはいるものの、一方で身になじんだ繁華街での享楽も捨て去ろうとはしなかった。その態度についても新美は嫌った。新美にとって裁判と繁華街はけっして並びたたない。一方をとるなら、他方を捨てるべきなのだ。実際、「府中青年の家」でおこったことを、裁判の場に持ち込むことについては、繁華街に関係する多くの人々が反対していた。 「とくに、ことをあらだてることはないじゃないか」  代表的な意見はこうだ。 「女とケンカして勝ち目はないよ」  そういう人もいる。女というのは、この場合、教育庁の女性担当官のことを言う。 「いいじゃないか。ホモは、地下にもぐっているからホモなんだ。日のあたる場所にはふさわしくないんだよ」  これも、またよく聞かれた見地だ。  そして新美は、かつてのねぐらだった繁華街の論理を徹底して嫌ったが、大石はそれを否定しなかった。いわば是々非々の立場を取り続け、その点においてはきわめて頑固だった。たとえば、提訴に向けてのチラシを二丁目にまきにいこうと誘われたとき、最後まで抵抗したのは大石である。 「二丁目は、僕にとっての庭だから、そこにチラシなどまきにいけない。二丁目は裁判とは別の場所だ」  大石はこう言った。  そして、新美はほとんど嫌悪に満ちた表情で、そのように言う大石をみつめ、楽観的な大石も、さすがに自分が疎まれている雰囲気を感じとった。 「アカーは自分を必要としていない。むしろ邪魔にしている。あえて会社まで退め、裁判の支援に集中しようとしたのに、彼らは僕を必要としていない。  それなら、と僕は思いました。いっそのこと、アメリカに行ってしまおう。どうせ日本にいてもたいして役にたたないんだから、アメリカで恋人と暮すほうがいいかもしれない」  秋口には、彼はアメリカ移住をなかば決めていた。 「なんだよ、裏切り者」  風間は怒鳴った。一人だけアメリカに逃げる気か、となじった。 「お前、アメリカ人にだまされてんだよ。それでもいいっていうならしょうがない。さっさとアメリカにでもどこにでも行けばいいじゃないか」  新美は冷たく言い放った。だまされているとはなんだ、と大石は少なからずむっとしたが、言い返しはしなかった。彼は一見穏やかな風貌と態度からは予想できないほど深く失望していた。自分に対しても、また他の同性愛者に対してもだ。そんな気分の中で、彼は、その年の一二月をむかえた。  一二月一日。世界エイズデーだ。三週間後にはサンフランシスコに行くチケットをすでに手に入れている。 「その日、ええ、晴れでしたね。  事務所に行くと、たまたま会合が重なっていてね。けっこう大勢の人たちが部屋の外にあぶれていました。僕に好意を持ってくれる、一〇代の人がおおむねでした。  僕らは、やることがないから、じゃあ、エイズ検査でも受けにいこうかと話したんです。都庁で世界エイズデーのイベントが行なわれていて、保健所が無料で検査を行なっていました。  僕らは、新宿御苑を横切って歩きました。いい天気でした。お喋りをしていました。僕らは一〇人でした。僕らは検査を受けました。  そして、僕だけが陽性でした。  一〇人のうち、九人は陰性、そして、僕は陽性でした。知ったのは、アメリカに行く前日でした」  一二月一六日だった。  大石は保健所を出てバスに乗った。バスに乗り、窓の外の景色を眺め、たしかに陽性だったと反芻していた。バスは大石の気分にとって、もっとも手頃な乗り物だった。それは生きている人々をかきわけて走る。まだクリスマスには時間があるが、街はジングルベルを奏でていた。ジングルベルだ、クリスマスだ、生きていることは楽しい。そう思いながら、彼は車窓を流れゆく景色を眺めた。  エイズについては知っている。陽性になってもそれがすぐ死を意味しないことも知っている。自己憐憫ともまた別だ。彼は自分を憐れむ余地のないほど殺風景な状況で感染したのである。のちに、彼は私の質問に答えて、こう言った。 「僕がどうして感染したか、それを語ったら、きっと、あなたは僕のことを、とんでもない人物だと思うでしょうね」  珍しく険しい顔だった。 「多分、あなた、これを聞くと、僕の見方が変わると思う。でも、それをわかってあえて言いますけどね。つまり、僕がどうして感染したかです」  私はなかばそれを確かめたかった。同時に確かめたくなかった。彼が、行きずりの人と性交渉を行なって感染したのだろうと予想していたからだ。  そして、彼は言った。予想したとおりの事情だった。彼に感染させただろう人物については、住所もわからない、身上もわからない。自分が陽性だということがわかってもその人に伝えることはできない。ただの行きずりの男だからだ。  古野は、その日、たまたま中野のアカーの事務所で大石にすれちがった。彼は、見慣れぬ書類を手にして啜り泣いていた。 「今晩、新美君と永田君と一緒に四人で会いたい」  彼は言った。 「また男と別れたのか」  古野はそう思った。大石が手にしていた書類を手紙かとかんちがいしたのである。恋人から別れ話をしたためた手紙を送りつけられて涙にくれているのかと思ったのだ。  あの人、結局、その類のことしか悩まないからなあ。古野は大石の悲嘆にきわめて冷淡だった。 「ひょっとして、双子の弟も同性愛者だったのかなあ。それでショックを受けて泣いているんだろうか」  永田は大石から涙声の電話をもらったときこう思った。四人で会いたいと大石が言うのは、弟についての相談をしたいためかと想像したのである。 「なんだ、借金か」  大石から電話を受けた新美は思った。大石は二丁目に通ったり、いろいろな人とつきあったりで、いつも財政的には苦しい。借金を繰り返したあげく、結局首が回らなくなったんじゃないか。新美はかんぐった。彼も、古野同様、冷淡だった。  その晩、事務所近くの呑み屋で四人は会った。 「まず、これを読んで」  大石は保健所で渡された書類を新美に渡した。新美は数値がやたらにたくさん列挙してある、その書類を眺めた。そして、無表情で古野に渡した。古野も無表情で数値を読み下した。永田は最後にそれを手にした。  永田は何度もそれを読み返した。  嗚咽が洩れたのはいつだったか。  永田は身を震わせて泣いていた。大丈夫だよ、大丈夫だよ、平気だよ、平気だよ、死んだりしないよ、しないよ、しないよ。嗚咽のあいまに、そう言いながら大石を抱き締めていた。  その声で、ようやく新美は我にかえった。書類の中にあったHIVという文字を思い出した。信じられなかった。頭が事態を呑み込むことを拒否し、顔の筋肉が凍りつき、呆然としたあまり表情は完全に失われた。大石がHIVに感染したという事実を信じることができないのと同じように、体を動かすこともできなかった。ただ、嗚咽しながら肩を抱き合っている永田と大石をみつめていた。  古野も事態を呑み込んだ。そして、彼はここにいたっても、まったく感情が動かないことに驚いていた。泣いている永田と、永田に肩を抱かれている大石、ショックで凍りついている新美は、古野からはるか遠い存在だった。 「なんて共感度が低い人間なんだ、僕は」  古野は驚いた。 「ひょっとして、僕は僕自身が死ぬときでも無感動なのかもしれない。少なくとも死ぬからといって涙を流すことはないかもしれないなあ」  しばらくして店を出たとき、初めて、新美は口をひらいた。横断歩道で信号待ちをしているときだ。ささやき声に近かった。 「早く、日本に帰ってくればいいのに」  聞き違いか。その声をとらえた古野は、一瞬、そう思った。え? と新美に聞き返した。 「大石、早く日本に帰ってくればいいのになあ」  古野は新美の顔をみつめた。 「早く帰ってくればいいって、大石はまだ、アメリカに行ってさえいないじゃないか」  古野は言い、新美はこう答えた。だから早くアメリカに行って、早く日本に帰ってくればいいんだよ。そしたら、彼の感染のことを、俺たちも一緒に考えられるじゃないか。  古野はもう一度、新美の顔をみつめた。  新美はついさっきまで、大石をこう罵っていたのだ。 「まったく、あいつ、早く姿を消してくれないかなあ。アメリカまで男を追いかけていくんなら追いかけて、ずっとそのまま帰らなくていいよ。ああいう遊びだけが上手という奴がいると、目障りなだけだよな」  それが、感染の事実を聞いた瞬間にこれだけ変貌するとは、この人は、いったいどういう男なんだろう。古野は新美の後ろ姿をあらためてみつめた。  そして、しばらくのちにこう納得した。つまり、なんというか、彼は母親みたいなんだな。結局、傷ついた者は受け入れて包容してしまうんだ。父親のように、よい子供と悪い子供を峻別しない。いや、できない。新美にはできないんだ。  新美は、自分の仲間をどこまでも抱きかかえていく母親なんだろう。  そして、裁判への提訴を決めたとき、すでに、日本の若い同性愛者たちによって織りなされる物語の主役を半分降りかけていた�母親�は、この時点で、完全に舞台を降りた。その後は、裁判の裏方にまわった。正確に言えば、裏方にまわろうと努力した。しかし、彼の圧倒的な牽引力と存在感はたやすく隠せるものでもない。たとえば、私が初めて新美に出会ったさい、彼がその場のヘゲモニーを握っていることはわずかな時間で見て取ることができた。そのさい、彼が主張した、�僕は事務を担当しているだけの立場だ�という主張は、いわば、彼の願望だっただろう。  しかし、全体的に考えてみた場合、新美という�母親�はすでに役割を果たし終えた。替わったのは、�放蕩息子�だ。大石は、その翌日、一二月一七日、予定通りアメリカ・サンフランシスコへ旅立った。  予定どおりだったのは、成田を飛び立つ時間と、サンフランシスコに到着する時間だけだった。アメリカの恋人との逢瀬が目的だったはずの旅行は、惨憺たるものとなった。大石は、機内での約一〇時間、動揺と悲嘆の涙を流し続けた。  彼の荷物の中には、出発前に新美が手渡した金と手紙が入っていた。  金はチケット代金をはるかに越える額だ。新美は、昨晩、大石の感染の事実を知ってから、この金を集めるのに奔走したのだ。そして、手紙の内容は、ほんのふたことでまとめることができる。こうだ。 「早く帰ってきてくれ。俺たちを信頼してくれ」  新美は、たしかに�母親�にちがいなかった。  大石は、金と手紙とともに、泣きながらサンフランシスコに向かった。  それが第一歩だった。  彼、大石敏寛を、二年後の一九九三年六月、ベルリン・国際エイズ会議の最後の演説者にする第一歩である。  彼はサンフランシスコの空港に降り立った。T細胞値は四〇〇台だ。  大石は、日本人HIV感染者として、その第一日目を迎えた。 [#改ページ]   第六章 クリスマスからクリスマスへ 「クリスマスにはカラオケをやりました。  みんなで歌って騒ぎました。  なんだか楽しかったなあ。真夜中になると、メリークリスマスって言って、みんなで抱き合うんです。僕は笑って、歌って、騒いでいましたね」  HIVに感染したことが判明して初めてのクリスマスだ。大石は、その日、一晩中、サンフランシスコでカラオケを歌ってすごした。  一二月一七日にサンフランシスコに到着した彼は、その後一カ月半、同地に滞在した。陽転したことは公然と言わなかったが、恋人には打ち明けた。  その一カ月半は、あながち陰惨なものではなかった。空港に着いたときこそ、大石は涙ぐんでいたが、恋人に抱擁され、友人にひきあわされ、カストロストリートのレストランで食事をしたり、酒を飲んだりという時間をすごすうちに、自分のHIV感染の事実が、はるか遠くに去ったような気分になることもあった。  だが、彼が、そのクリスマスの日、感染の事実を忘れ果てたように笑い騒ぎながらすごしたといっても、能天気だときめつけるわけにはいかない。  HIVに感染したからといって、その人が四六時中、エイズと死についてだけ呻吟しているにちがいないという見地は誤解にすぎぬからだ。  彼らはHIV感染したという以外には、非感染者とかわらない。感染前に考えていたことは、感染したからといって変わるわけではない。もちろん、悪人が善人になるわけではなく、善人がHIVを得て聖人に位《くらい》あげされるわけでもない。  彼らは、私たちが生きて死ぬと同じように、日常のあれこれをすごしながら生き、正しいことと、過ちを応分にはたし、そしていつか死ぬ。私たちがすごす日常があたりまえのものなら、HIVに感染した人々の日常も同じようにあたりまえのものなのである。  なぜ、HIVに感染したからといって、その人が、それまでの日常との間に、とんでもない断層を抱え込むかのように考えられるのか。それは、エイズが時代の疾病であるというイメージがあまりに強烈だからだろう。同時にそれは、非感染者の無知、鈍感であり、同時にHIV感染者への理解の拒否から生まれるものである。  大石が感染したと知らされたときの私が、まさにそのとおりの無知さ加減を露呈していた。  彼がクリスマスをカラオケですごしてから帰国して、三カ月後、一九九二年五月のことだ。  新美が事務所に来てくれないかと言った。私はそれに応じてアカーの事務所に行き、大石敏寛という、それまで顔は知っていたが話はかわしたことのない男に紹介された。 「彼は、HIVに感染したんです」  新美は言い、私は答えた。はい、そうですか。 「彼は、それを公にしたいと思っているんです。  どういう形か、それはまだ決めてないんですが。でも、自分が感染した経緯から始めて、さまざまな情報を公に提供したいと思っている。なぜなら、そのようなことがなければ、エイズはけっして公共の話題になりませんのでね。とくに同性愛者の場合は」  なるほど。そう答えた。新美は続けた。 「そこで、あなたの意見が聞きたいんです。彼は、いったい、どのようにして公になればいいのか。そして、一方でどうやってプライバシーを守ればいいのか。  必要なことをどうやって伝え、知らせたくないこと、知らせるべきではないことについては、どのように守ったらいいのか。そういうことなんですけどね、聞きたいことは」  新美のあとを受けて、大石がこう続けた。 「あの記事は悪い記事ではありませんでした。文章を読む習慣がない人間にも、けっこうすんなり読めました。僕は、本を読む人間ではない。難しいことを考える人間ではない。でも、あの記事、けっこう楽しみました。  たとえば、自分の感染について、あなたに記事を書かれることは、いいんじゃないかと思います。あなたに話をしてもいいと思ってます」  それは、どうも。私は頭を下げた。大石が、�悪い記事ではない�と言ったのは、新美とのサンフランシスコ旅行について、女性週刊誌に四回分載した一〇〇枚前後の中編記事だ。大石はそれを読んで、自分の感染を告げてもよい人物に私を含めたらしい。私は大石と新美に尋ねた。 「公に知らせるということなんですが、どのように考えていますか。たとえば、記者会見をして同性愛者が実名を持って感染を告白するという形にしたいんですか。つまり、アメリカなどで、有名人が行なうような方法ですが。それとも、まったく違う形を考えているんでしょうか」  新美はため息をついて、うなったまま答えなかった。  しかたなく、こう続けた。 「私の意見について言えば、率直なところ、どういう方法がよいのか、皆目、見当もつかないんです。なぜかというと、こんな事態に対面したのは初めてなので、つまりHIVに感染したと公言する日本人に出会ったのは初めてなので、どう考えたらよいのかさえわからないんです。  ですから、とりあえず、あなたがどうしたいのか聞かせてもらえればありがたいんですが。考えのきっかけでもつかめれば幸いなんですが」  新美は腕を組み、唇を噛んだ。 「僕もどうしたらいいのかわからない」  大石だけが、なんとなし落ち着いたそぶりだった。彼は、あまり喋らずに、ただ私を見ていた。  私たちは、結局、たいした内容の会話をかわさずに、数時間をともにすごしたあと別れた。 「とにかく、感染したということを公にするのは、勇気があることでしょう。そう決めたことは、勇気のあることだと思いますよ」  私は最後にこう言い、大石は、どうも、と短く答えた。  翌朝は晴天だったという記憶がある。  朝早く、ふとんの上に起き上がって、私は、昨日、なにかあったような気がすると思った。しかし、とくに覚えておくべきことではない。そんな気分だった。  だが、しばらくして、ちがうと思わず口に出した。ちがう、ちがう、とにかく何かがあった。  さて何だったか。大事なことだったような気がする。膝をかかえて考えた。何か、とても大切なことだった。  そして思い出した。  私は、昨日HIVに感染した人に出会ったのだ。その人は、私に自分の話をすると言ったのだ。  なんということだ。そんなことを忘れていたのか。  私はふとんを跳ねのけた。  だが、しばらくの間、私のエイズに関する認識は無知かつ鈍感だった。  たとえば、私は発症を遅延させる予防薬であるAZTを、大石がきちんと飲むかどうか、それが気になって落ち着かなかった。  AZTを飲まないと、すぐさま大石が死んでしまうような気がしたのである。また、彼が、感染者の免疫を弱めると言われるタバコや酒をたしなむのにも平然としていられなかった。彼が私の前で吸っているその一本のタバコで、T細胞値が音を立てて危険域に下がるような気がしたものだ。だが、そのような不安をよそに、大石はヘビースモーカーで酒好きだった。そのうえ、AZTは保険を適用してもなお高価なので、経済的に苦しい大石は、ほかの支出のために薬を買うのをやめることも多い。そんなとき、私は今にも大石が死ぬのではないかという、非現実的な恐怖にさえ駆られることがあった。  私は、その不安を口にすることはなかったが、それはよく考えた結果ではなく、単に大石とそれほど親しくなかったからにすぎない。あと一歩、親しければ、私は彼の口からタバコをもぎとる短慮をおかしたかもしれない。そして、もし彼が自分の近親であったならば、彼の発症を早めるような、あらゆる社会的ストレスを遮断しようともくろんだ可能性もないとはいえない。結果、彼を一種、精神的な隔離状態において、しかも自分がそのようなおせっかいをしていることに気がつかないおそれさえあった。結局、私が大石にも普通の日常があるということを認める心境になるには、感染の事実を知ってから一年後だった。その間、大石はこう言い続けた。 「僕、お酒、飲むんですよね。タバコも吸います。でも、もともと、そうなのですから、しかたがないです。  感染した当初は、もちろんショックでした。今にも死んでしまうような気がしましたよ。でもね、今は、感染したということを人生でなにより優先させて考えなくてはならないと思わないんですよ。僕はずっと普通にします。普通ではやっていけないことも多いだろうけど、なるべく普通にしますよ」  はい、そうですね。そう答えながら、私は彼の�普通�を受け入れることは、なんと大変なことかと感じていた。  だが、大石が、また新美が求めていることは、社会が、大石のような感染者や患者の�普通�を受け入れることなのである。そのために必要であれば、実際に生きているHIV感染者の姿を公にして、彼らの�普通�を肯定させようというのである。  いいかえればこういうことだ。  HIVに感染したというだけで恐怖したり、一転、やたらに同情したり、また、とんでもない不道徳漢のように嫌悪したり、反対にヒーローにまつりあげたり、という過剰反応は、感染者や患者を、非感染者の日常から隔離する行為にすぎない。忌避すべきものとして隔離するのも、賞賛すべきものとして格上げするのも、本質的には同じことだ。エイズに対して理解がある社会とは、エイズ患者をヒーロー扱いする社会のことではなく、感染者や患者が望むかぎりの普通な生活を手に入れられる社会のことなのである。  しかし、そのためには、いったい何が彼らの�普通�なのかを知る必要があった。私は、それを知らず、さらに知らされてもなかなかそれを認めず、不安を露骨に表出はしないものの、その実、心理下では彼らをなんとか非日常の中に囲い込めないかとあがいていた。その点では、私の事情と社会の事情は酷似していた。  そして、大石はそれまでと同じように普通にすごした。彼の�普通�とは、とうてい几帳面とはいえない日常だったので、彼はそのとおりの生活を続けた。それは、彼を見守る人々の気を揉ませるに足るだらしなさだった。  たとえば、永田は、大石がコタツに入ったまま寝起きし、目覚めると、コタツ板の上に放置してあったポテトチップスをかじり清涼飲料水を飲んで朝食がわりにしていることを知ると、彼の健康を気遣うあまりノイローゼのようになった。  ほかの人も似たり寄ったりだった。当初は、感染したことにショックを受けた人々も、そのうち、彼があまりにも病人の自覚がないと腹立たしくなることもあった。  しかし、彼ら、感染の部外者がどうあがこうと、感染者である大石はまことに悠々と、HIV感染した当事者の道を歩んでいった。  それは、彼の個性でもあると同時に、彼が一九九一年のサンフランシスコのクリスマスによって学んだことでもあった。  たとえば、サンフランシスコでそれを学ぶ以前、大石の最大関心事は寿命だった。 「僕は、いったいいつまで生きられるんだろう」  彼はしばしばこう尋ねた。サンフランシスコ空港に感染者として降り立ってから一カ月後、西暦年号は一九九二年にかわっていた。当初のショックと、それに続く軽躁状態を経て、ようやく彼はエイズに関する情報を仕入れるという作業にとりかかっていた。まず、血液検査をやりなおし、T細胞値について、またAZTやその他の発症遅延予防薬についてのレクチャーを医師から受けた。  すべての手配をしたのは、その年の六月に新美を受け入れたGAPAで、ジョージ・チョイが中心となって組織した感染者患者支援組織、GCHPだ。  ジョージは、当時、誰にも自分が感染しているとはあかしていない。大石も、まさか目の前の彼が、自分と同じ感染者であるとは想像もしていない。そして、大石が寿命について気にすると、ジョージはこう答えた。 「いつまで生きられるのか。それは短くて二年、長ければ一生だ」  大石は憮然とした。もっと同情的な、少なくとも情緒的な答えを予想していたのだ。短ければ二年とはなんだ。そんな無味乾燥な事実を聞かされた感染者はいったいどう思うか。GCHPを主催しているとはいっても、やはり感染していない人は冷たい。  ジョージは続けた。 「つまり、いつまで生きられるか、それは誰にもわからないということだ。  だから、そんなことは考えるのをやめたほうがいい。無駄だよ。  それより、今、何をやりたいのか考えるほうが大切だ」  ところで、君は何をやりたいの。ジョージは大石に聞いた。  さて、なんだろう。大石は自問して呆然とした。  何をやりたいのか、などと考えたことはなかった。HIVに感染して泣きながらサンフランシスコに到着しただけだ。そして、カラオケを歌ってクリスマスをやりすごした。さて、何をやりたいのか。  ここで、初めて大石はHIV感染者の�普通�な日常に直面したのである。  HIVに感染していようがいまいが、私たちは誰も、自分がいつまで生きられるかを知らない。それはまさに二年かもしれない、まさに一生かもしれない。つねに、自分がいつ死ぬかと考えて生きるのは、不可知な将来の暗闇をうろついて無益に人生を蕩尽する行為に等しい。  やるべきことは、日常なのだ。普通の日常で何をやりたいかだ。そして、もしHIVに感染したということが日常に何らかの影響を及ぼすとすれば、その人が、一般的なエイズ問題に対して積極的にかかわりたいと思った場合以外にはありえないだろう。  ところで、自分はHIVに感染したという以外に、エイズそのものに関心を持つことができるのか。エイズを個人の悩みに留めるのか、それとも自分以外の誰かの問題としてもとらえなおすことができるのか。  大石はそれについて考えた。  短くて二年、長くて一生の間に、自分は何をやりたいのか。  そして、とりあえず、彼はふたつのことを決めた。  ひとつは恋人との別離だ。  九二年一月、大石は言った。別れよう。恋人は、猛然とさからった。なぜだ。HIV感染したということは問題でもない。これから、その問題もあわせて二人の将来を考えようとしていたのに、なぜ別れなくてはならないんだ。  大石は頑強だった。僕は日本でエイズのことを考えたい。つまり、あなたと築くアメリカでの私生活は、僕がHIV感染したという事実によって自動的に不可能になったのだ。エイズに感染した|一人もの《ヽヽヽヽ》となって日本で生きるか、サンフランシスコであなたと生活をするか、どちらが幸せかは比べるまでもない。一方には孤独と苦闘だけがあり、他方には恋人との蜜月があるわけだ。しかし、僕は日本に帰る。日本で何かをしようと思う。僕の日常は日本にしかない。  彼はこうして恋人と別れた。  九二年二月、恋人はサンフランシスコ空港から日本に帰る大石を見送りにきた。  大石は一カ月半前サンフランシスコ空港に着いたときと同様、ショックにうちひしがれていた。到着したさいには、感染したということが彼の悲嘆の原因だったが、帰国のさいには、T細胞値が三八八にまで落ちていたことが衝撃だった。その値について、日本にいたときの彼は知らなかったが、エイズに関してはるかに知識が進んだアメリカの医師は、感染して一年以内は、T細胞値は七〇〇から八〇〇を保っているのが普通であること、そして四〇〇を切っている大石の値は、異例に早く、AZTなどの予防薬の投薬が必要なラインに達していると告げた。  大石と恋人は空港の出国ゲートで抱き合った。そして、体を離し、大石敏寛は日本に帰った。 「ただいま、帰ったわよ」  サンフランシコスで作ったピアスを耳に輝かせ、サングラスを頭の上にはねあげ、長いコートの裾をはためかして、大石は日本に帰ってきた。  それは、まさに堂々たる�おねえ�の凱旋だった。サンフランシスコの空港で恋人と抱きあって泣いていた姿は片鱗もうかがわせなかった。けたたましいばかりに饒舌で、白熱せんばかりに陽気だった。軽薄な�洋行帰り�の姿とさえいえた。その姿を見せつけられた、アカーの一〇代のメンバーの何人かは、なかば怯えた。  そして、当時、裁判に忙殺されていた風間は言った。 「あんたの乗った飛行機なんか落ちちまえばよかった。なんで、今さら帰ってきたんだよ」  大石は苦笑した。風間はそのとき、彼の感染を知らなかったので、まさに妥当な感想と言えただろう。  ともかく大石は帰国した。日本にしか、自分の居場所を求められないと考えた�おねえ�の帰還だった。  何をするのかはわからなかった。だが、彼が、日本で何かをしたいと考えて、アメリカから帰ってきた、同性愛者でありHIVの感染者であることはたしかだった。  彼は、この国で自分の�普通�を生き続けることを決めたのだ。  だからこそ、彼はそれほど動揺したのである。  帰国した年の夏だ。  発症後のジョージが一種の人格崩壊状態に陥った夏である。  たった半年前、ジョージはこう言ったではないか。 「短くて二年、長ければ一生」  僕はいったいいつまで生きられるのだろう。そう問うたときに、一見、薄情なほど冷静に答えたではないか。  こうも言ったではないか。 「だから、いつまで生きられるかなど考えるのはむだだ」  そして、今、何がやりたいかを考えたほうがよいと忠告したではないか。そういう言い方で、大石を励ましたではないか。  それなのに、なぜ、�神さまが降りてくる�なのか。  なぜ、�同性愛はやめる�なのか。キリスト教原理主義の教会なのか。安楽死なのか。  つまり、自分が信じ、支えにしていたものは根底から覆されたというのか。それは、まったくの虚ろな信頼だったとでもいうのか。本当にそうなのか。  ジョージは、大石が帰国後しばらくして、自分が実は感染者だと公にした。  それを聞いたとき、大石は、寿命について思いわずらうのは馬鹿げているとジョージが言った意味をあらためて正確に受け取った。彼がそう言ったのは、非感染者の冷酷からではない。感染者であるジョージが、感染まもない大石をいたわり励ましたためだと、そのとき初めてわかったのだ。  以来、ジョージの存在は、大石にとって最大の支えとなった。たえがたい恐怖を癒す唯一の処方箋でもあった。  大石は、帰国して一カ月ほどたつと、いてもたってもいられないほどの恐怖と焦燥にかられるようになった。  理由は単純だ。彼は死を恐れたのである。 「僕は死ぬのが怖い」  大石は新美に言った。  新美は何も答えられなかった。新美でなくても、この述懐を平然と受け止められる人は少ないだろう。  そして、ある朝、大石は目覚めたとたんに、あまりにも激しい恐怖に襲われて、中野の事務所に電話をかけた。その早朝の電話を受けたのは、当時、実家を出て事務所に仮住いしていた古野である。 「僕は死ぬのが怖い」  新美同様、古野もそれには答えられなかった。  だが、そのとき初めて、古野は大石を親しい人間として認めた。それまで、大石はただ気の合わない他人にすぎなかった。気が合わないというレベルを越えて、積極的に嫌いな男でもあった。だから、感染の事実を聞いても、まったく心は動かなかったのだ。その認識が、電話以来、微妙にかわった。 「あの人、僕を頼ってきたんだなあ。そう思いました。もうどうしようもないときに、あの人、結局、僕に電話をくれたんだなあ。  妙な言い方ですが、僕の中に初めての感情が生まれたんでしょうね。そのときね、多分、生まれて初めて。  ええと、それは親にも兄弟にも感じたことがない気持ちでしょうね。誰かに頼られたという感じですか。僕、そういうことなかったですね。これまで。自分も人に頼らないし、他人からも頼られない。そういう人間関係について、僕という男は絶望的だと思っていましたのでね。とても、あの人が僕を頼ってくれるなんて信じられなかった。だから、驚いた。  信頼、ですか。そういうものですね。せっぱつまったときに、僕を頼ってくれたという、気持ちをそのままに吐き出してくれたという、そういうことですか。  ひとことでいえば、少し感激しました。あと、なにか、あの人の気持ちが、なまにわかるようになったというのですか。そんなことです。  あの人は、つまり、そのときから、無縁の人ではなくなったのです。あの人を無縁の人と思えなくなったのです。あの人は、僕にとって無視できない、信頼をかわしあう友達になったのですね」  大石の恐怖は、古野や新美のような仲間の存在が一部、癒した。そしてより多くの部分は、大石自身が、ジョージのきわめて前向きな姿勢を思い出すことによって癒された。それは、一九九一年のクリスマスでの記憶であり、翌年の六月、アメリカを再度訪れたときの記憶でもある。  彼は、六月、プライドパレードへの参加をかねて、感染の事実をあかしたジョージを訪ねた。そのさい、ジョージはまさに大石にとってエイズと伴走する人生の師だった。彼はプライドパレードのあとほぼ一カ月間、ジョージの自宅に身を寄せ、エイズに関する情報をあらたに収集した。  このとき、すでにジョージは発症者特有の病態をしめしている。物音に異様に敏感で疲れやすく、外出の機会もまれになっている。不眠を訴えることも多いが、一方、一日中寝たきりのこともある。一カ月のうち、体調が万全なのは半分ほどだ。  その状態で、彼は大石にHIV感染者として生きる技術を教え込んだ。  症状の進み具合に対して、どのように対応すべきか、そして、感染者自身としてどのように日常生活を送るべきか。自分の症状、状態を他人に伝えるときには、どうすべきか。他の患者や感染者に接するときは何に気をつければよいか。エイズを患っているかぎり、必ず襲ってくる恐怖やストレスはどのような方法で解きほどけばよいのか。  ジョージは、まさに手とり足とり、大石にそのような知識を教え込んだ。  たとえば、こんなふうにだ。 「このステーキの焼き方はだめだ」  ジョージは大石が実に旨そうなステーキを焼いたにもかかわらず、厳しい口調で言った。  いったいどこが悪いのか、といぶかしげにする大石に、ジョージはステーキをナイフで切ってみせ、内部がわずかにピンク色を呈しているのを指さした。 「肉や魚を生の状態で食べることは、HIVに感染、発症した人間にはタブーなんだ。免疫がさがっているので、生の肉や魚がもっているかもしれない微生物にもはげしく反応してしまう。ステーキを焼くのなら、中まで完全に焼かなくてはならない」  大石はつきかえされたステーキを再度、フライパンで焼いた。  ジョージは、ときには家を歩く物音さえ耐えがたいと苦しむこともあったが、精神はきわめて澄明だった。病態が深刻なときには家の中にこもったが、体調がよいときは果敢に社会にたちむかった。  ある朝、大石が起きてみると、彼は憤激しながら長文の手紙をしたためていた。テレビを見ていたら、市長がエイズと同性愛について非常に無礼な発言をしたんだ、背後に立った大石を振り返ってジョージは言った。今、市長あてに抗議の手紙を書いているんだよ。ジョージの書き机の上には、エイズに関する資料や新聞雑誌の切り抜きがうずたかく積まれていた。また、エイズに関してやるべきことのメモが山積していた。  ジョージは、大石の名前をうまく発音することができず、彼に顔立ちが似ている、ある映画俳優の名前をとって、ケンと呼んだ。 「ケン、新しいエイズウィルスが発見されたそうだ」 「ケン、おいで。テレビがエイズに関するドキュメントをしている。説明してあげよう」  ジョージは、いつもこんな調子だった。  そして、大石は繰り返し、こう尋ねた。 「目的は何ですか。何のためにこういうことをしているんですか」  ジョージが万全ではない体調をおしてGCHPで行なっている支援活動の目的を、また、大石におしみなく注いでくれるホスピタリティの出所がどこにあるのかを、彼は聞き続けた。それは、すなわち、大石自身がこれから日本でやろうとすることへの指針そのものだった。いいかたをかえれば、エイズを得て、初めて可能になる�社会貢献�の実態を彼は知りたがったのだ。  彼はジョージだけでなく、他のGCHPのメンバーにも同じ質問を繰り返した。ジョージを含めてさまざまな人が、さまざまな答えを与えた。 「他人ごとではないからだよ」 「エイズを無視して生きることは、もう誰にもできないからだよ」 「仲間が苦しんでいるからだ。単純だ。同性愛者でアジア人という仲間がね」  だが、どれもピンとはこない。  結局、目的をみつけるためには、エイズについてもっとよく勉強しなくてはならないのだ。知識がないところに目的もない。それが当座の結論だった。大石は、GCHPのHIVを学ぶクラスに一カ月通った。 「人間、戦うのをやめたらおしまいなんだよ。それが目的だよ。ケン」  ジョージは言った。  そして、大石がサンフランシスコを去る日の朝、シナモントーストを作ってこう語りかけた。 「僕は桜が好きだ、ケン」  英語を聞き取るのがまだ不得手な大石のために、ジョージはゆっくり一語一語を喋った。 「四月」 「来年の四月」 「四月、桜が咲く頃、日本に行く」 「四月。春。桜が咲く。僕は日本に行く。日本で会おう」  だが、翌年の四月が来るはるか前に彼は崩れ落ちた。  戦うことが目的だと語った同性愛者のエイズ患者、ジョージ・チョイは、わずか数カ月前、人生の先導者として大石に語ったこととは似ても似つかぬ本能的恐怖の中に体をすくめたのだ。彼の人格は、まるで水を吸った砂の山のようにもろかった。一見、堅牢な岩のように見えて、いったん恐怖の波に襲いかかられると、それはあらゆる角度からはかなく崩れ去った。そして、最後に残った一握りの古い中国人としての記憶の中に、ジョージは小さく畏縮した心を沈ませたのである。  大石にとっては、それは信じがたい事態にちがいなかった。もし、本当にジョージがそこまで人格を切り崩したとすれば裏切りにすぎなかった。感染者や患者は寿命がつきるまで社会人として生きるのだと、堂々と戦うのだと、そのためにはステーキも徹底的に火を通すと言ったのはジョージではないか。なぜ、彼がそれほどひどい状態をひきおこすのか。 「僕はジョージに会いにいく」  だから、大石は言った。 「僕は、エイズの実態を見に行きたい」  だが、それは、ジョージが倒れた年のクリスマスまで待たなくてはならなかった。  そして、『府中青年の家』での事件をめぐる裁判は、そのときまでに、あるクライマックスをむかえていた。  それは不思議なクライマックスだった。  要するに、クライマックスという表現にふさわしい力がなかったのだ。進行するうちに、それはまことに劇的要素に乏しい側面をあらわにした。平凡に、事務的に、遅々と、だが着実に前に進むだけだった。  裁判以前、彼らは、同性愛者が表舞台に出れば、よくも悪くも世間は過剰反応をおこすと覚悟していた。中傷と非難を、驚嘆と罵倒を予想していた。そして、それに倍する力で抵抗してやろうと力んでいたのだ。  だが、その予想はあっさり裏切られた。  それはあえていえば退屈な裁判だった。  だが、退屈にせよ、それはたしかにクライマックスだった。  新美の人生も、また、古野、永易、神田、風間、永田の人生も、それに大きく左右されたからだ。また、大石の感染者としての人生も、その退屈きわまりない裁判によって軌道を定められたからだ。  裁判が退屈なものとなったのは、一にも二にも、訴追された行政側の迫力不足にあった。  被告が裁判にさいして提出した準備書面は、訴状と読み比べるとき、思わず同情をさそわれるほど貧弱な弁明で埋まっている。  たとえば、訴状では、青年の家の所長が、施設利用を断わる旨を通達するためにアカーのメンバーと会ったさい、同性愛者の性行為の有無について執拗に尋ね侮辱したとあるが、それに対する原告の抗弁はだいたいこんなところだ。  当時、所長は同性愛の明確な内容がわからなかったので、市販されている情報辞典等の記述をひいて尋ねただけなのである。けっして侮辱するつもりではなく、ただ率直に同性愛についての知識を得たかっただけだ。市販されている情報辞典などを見ると、同性愛者は強迫的、反復的に、複数の相手とセックスをすると書いてあるが、それは本当かと虚心坦懐に尋ねたのだ。  侮辱などではない。ただ、純粋に質問しただけである。同性愛者の名誉を損なおうなどという意志はまったくなかった。  すなわち害意はなく、単なる知識欲、罪のない好奇心から質問しただけなのに、相手が怒るのは不本意きわまりないということだ。  また、宿泊拒否の理由として不当だと訴状が指摘した表現については、次のように抗弁している。 「他の青少年の健全育成にとって、同性愛者の存在が正しいとはいえない影響を与える」  青少年の健全育成と同性愛者の存在がどのように関連するのか、それはそもそも別個の問題ではないか。関連しているとすれば、その点について明確な釈明をしてほしいと求められると、こう抗弁している。 「客観的に見て、現在の我が国においては、同性愛に対する国民の認識、理解が十分であるとは言いがたい状況にあることから、人格形成の途上にあり、性的にも未熟なうえ、物事の判断力も未だ十全とはいえない青少年の健全育成を目的として設置された教育機関(青年の家)の長としては、同性愛者の団体と青少年の同宿を認めるわけにはいかない」  この釈明には、�性的に未熟�で、�物事の判断力が未だ十全とはいえない�ために、あらゆる社会の現実から庇護しなくてはならないと考えられている青少年の中に、青少年の同性愛者がまったく含まれていない。  現実的に、青少年と呼ばれる人々が、それほどナイーブな存在であるのかどうかの論議は別にしても、被告側の行政担当者は、全員が一〇代を含む、きわめて若い青年で占められているアカーを見てもなお、同性愛者もやはり�かよわい�青少年でありうるという発想を持てなかったわけだ。同性愛者はそこでは年齢も与えられていない。生身の人間ではない、なにか抽象的な存在であるかのようだ。  すなわち、被告側の弁明は、ひとえに彼らは同性愛者とはどういう人たちなのか、まったくわからないのに、同性愛者以外の青少年が性的に恥ずかしい連想をし、動転する事態を防ぎたいと切望したあまり、彼らを排除したというのである。  結局、被告側が唯一、盾にとった論理は、男女別室ルールという青年の家の基本原則だ。 �そこ(青年の家 注─筆者)において、男女の同室での宿泊を認めた場合は現実にそこにおいて男女間の性的行為が行なわれているか否かにかかわらず、他の青年の家の利用者、すなわち人格形成の途上にあり、性的にも未熟で、成人に比して性的羞恥心が強く、判断力も未だ十全とはいえない青少年に対し、無用な混乱や摩擦を招き、ひいては同家の秩序を害するおそれがあり、その管理上も支障があると言わざるを得ないのである。�  被告側はこう述べている。そして、男女を同室させないルールは異性愛に基づいているが、同性愛者は性的指向が同性にむけられているので、同じ規範が同性愛者の同室についても適用できるはずだということを拒否の論拠にしている。  裁判の争点は、結局、この一点をめぐって展開されたといってよい。  それは原告にとっては退屈な、そして、被告にとっては有利な展開となった。  退屈さは被告側の行政担当者が同性愛者を罵らなかったことに由来する。彼らは、同性愛を逸脱とも悪徳とも言わなかった。  原告となった若い同性愛者たちは、むしろ、罵言を予期していた。日本社会が同性愛を排除する積極的な理由を求めていた。それが得られるなら、反論も可能だからだ。だが、被告側の釈明は言い訳にすぎなかった。非難でもなく、罵りでもなかった。積極的な敵意は撃ちたおされる可能性はあるものの、攻撃も可能だ。しかし、青年の家の職員に代表される�世間�は、いわば消極的な排除、あるいは無意識のうちに内在化された嫌悪によって動いているだけだった。  そのため、同性愛者たちは、攻撃を行なう前に、まずは本人たちが気がついていない差別感や嫌悪を顕在させなくてはならなかった。すなわち、日本の�世間�のしくみは、同性愛者はいないという前提のもとに作られている。男女別室ルールもそのひとつだ。これは、同性愛者が自らの属性をあきらかにして公共の施設を利用することはない、あるいは同性愛者は風俗街以外には住まない、と無意識のうちに信じているからこそ、定められた規範なのだ。そして、提訴された事件は、本質的には差別事件というよりは、同性愛者ぬきに作られた規範が、同性愛者の顕在によって機能しなくなったためにひきおこされた混乱というべきなのである。  さらに、同性愛者側から攻撃すべき点は、実は、直接的な差別感そのものではなく、混乱がおこったあとの対応なのだ。同性愛者ぬきに作られた規範が、同性愛者に対して機能せず混乱をおこすのは、ある意味で当然の話である。そこには無知以外、とりたてて攻撃にあたいする点はない。だが、混乱後、それを理由にして、同性愛者を排除するなら話は別だ。必要なのは、排除ではなく、規範の枠組を新しくひきなおすことではないのか。  だが、�世間�は、枠組の再検討を選ばなかった。かわりに、混乱も、またその原因である同性愛者も、なかったことにしたのだ。  男女別室ルールの基本姿勢は、混乱を未然に防ぐといえば聞こえはよいが、実のところ、非現実的な過保護にすぎないと私は思う。青少年が多い施設で性交を奨励する必要はないが、夫婦さえ別室に離し、青少年の性的な連想を防ごうというのは、ほとんど滑稽なお節介だ。たとえ、その場で性的連想から青少年を完全に隔離したところで、日常生活の中に性的場面はいくらでもある。青年の家という密室でだけ、性から若者を切り離したところでどうなるものでもないではないか。性は、普通の�日常�なのだ。  たとえば、青年の家が、その�日常�さえ認めぬ、特殊な性規範を持つ宗教集団が主催する施設であるなら、この措置もうなずけるが、そこは公共施設である。もう少し、現実的な一般性を持っても悪くはないだろう。  しかも、日本の同性愛者を結果的に抑圧してきたのは、結局、このような非現実的、保護的な空気なのである。それは、アメリカの保守的キリスト教のように、同性愛者を積極的に攻撃はしてはこない。だが、同性愛者は、とりあえずその場にはいないことにしてルールを作るのである。つまり、日本全体が大きな『青年の家』の内側にあるかのように、性に対して過剰にナイーブなふりをしつつ、同性愛者の存在を排除するのだ。  そして、この�いないことにする�という空気は、実は最大の防御にして手強い攻撃だった。  同性愛者は世間一般の機構の中に、同性愛者が実質上�いないこと�になっていると、まずは証明しなくてはならないからである。すなわち、一般の認識における同性愛者の不在証明を行なわなくてはならないのだ。そして、同性愛者に対する差別などない、と思われている事実が、なにより同性愛者を抑圧していることをときあかさなくてはならないからだ。  この困難でひねくれた作業が終了したのちに、同性愛者はようやくそれを撃つことができるわけである。それは、まことに退屈で爽快感のない作業だった。 「なんで、僕たちが異性愛者のために、そんな教育的作業をやらなくちゃいけないんだ」  アカーのメンバーの中でとりわけ短気な神田政典は、何度もそう言って憤激した。  もっとも世間に順応的な風間孝でさえ、これは、たしかに妙なケンカだと思った。 「まずは、なぜ殴るのかをこんこんと説明して、相手が納得したうえで殴る。つまり、そういうことでしょう。なんだか妙だし、なんだか疲れるし、スカッとしないし、僕はときどきいやになることがありました」  同性愛者側の退屈と疲労に比べて、裁判は被告側にとって有利だった。  彼らはただ逃げればよいからだ。そして、逃げるにさいして盾にとるものは、青少年の健全育成という、アナクロニックな埃が分厚くつもった純潔主義の建前だ。同性愛者と異性愛者の共存といった、きわめて現代的な問題は、その埃の堆積に足をとられてなかなか前に進まなかった。  青少年はとにかく性的にナイーブで、直接的な性の場面に直面させるにしのびない。社会はそれを未然に防いで、若い彼らに、性の将来はきわめて明るく健全で、普通にやっていれば、自然に妻か夫と何人かの子供ができあがると信じさせないといけない。そのためには青少年が築く将来にとっての不安材料が、その場にあってはならない。少なくとも青年の家という公共の場に、�普通�の枠組の普遍性を疑わせる同性愛者はいてはいけない。  庇護すべき若者の前から、一切の違和感をもよおさせるものを排除し、彼らの性的ナイーブさを守ることが社会の使命であるという論は、実は、なにより巧妙な武器だった。  原告は、被告側が正面きった同性愛者批判を行なわないので、裁判の進行上、なんら本質的ではない議論、たとえば、被告と原告がかわしたやりとりが意図した侮蔑だったか、あるいは率直な質問だったかという瑣末な議論に参加せざるをえなかった。しかも、その議論において、被告側はきわめて反応が鈍かった。誰も、はっきりとした見解を述べるわけではなく、ただ時間だけが経過していった。  裁判が始まってから一年あまりその事情はかわらず、その後、九二年にいたって、口頭弁論が一〇回を数えるようになると、傍聴席は多勢の傍聴人で埋まるようになったが、裁判の主役たる原告側の士気はそれに比して、実のところ、あまりあがらなかった。 「どうしても被告の人たちに敵意を持つことができない。誰がそんなことできるっていうんです。口頭弁論でも手ごたえはまったくないし、役職上、こんな裁判の場に引き出されてしまった気の毒なお役人としか思えないですよ。これが、とても裁判に臨んだ当事者の感想とは言えないことはわかるけど」  風間孝は被告団について、こう感想を漏らした。彼は裁判が進行するにしたがって、かつての闊達さを失っていった。以前のように、明白な正義と不正義の二分法を信じることができなくなったのだ。彼は家族の秘密を初めて知った中学生のような表情をうかべるようになっていた。あるいは大人になることの苦味を味わった聡明な少年のような表情である。 「この試合は、つまり、ヒール(悪役)がいない試合なんですよね」  プロレスのファンである彼はこうも表現した。 「憎々しいヒールが誰もいない。とほうにくれた初老の被告団がいるだけ。僕らは、本当に手ごたえのない戦いをしていた。つまり、プロレスはなりたたなかったんです」  そして、誰よりも向こう気が強かったはずの神田政典でさえ、九二年の晩秋には、次のような感想しかもてなくなっていた。 「なんだか、僕、もう、罵る気力がなくなってしまった。  もっと、もっと、世間を罵りたい気分があったんですよ。人生の当然として、愛されることを求めて、不当にも誰にも愛されない同性愛者として、異性愛者の社会を罵倒して罵倒して、一生罵倒してつきないと信じていた。  その気持ちがまさか、これほど早くなくなるとは思いもよらなかった。第一、相手が罵倒を返さないんです。  ばかやろうと怒鳴ったら、すみません、全然、悪意なかったんですと、やにわに謝られてしまった。もの凄い罵倒が返ってくるはずと身がまえていたから、謝られて拍子抜けしてしまう。でも、また気をとりなおして、ええと……この無神経野郎とか怒鳴ってみた。本当にすみません、とにかく気がつかなかったので、と言い訳が返ってきた。さらに拍子抜けした。  そのうち、罵倒しようにも語彙がなくなってしまったということなんでしょうね。息が切れてしまった。まさか、こんな事態は予想していなかった。とんでもなく疲れてしまった。罵ることができなければ、じゃあ、僕は何をすればよいのか、人生で何をすればよいのか、本当に悩んでしまいましたよ」  さらに、提訴にあたって神田は高校の英語教師をやめ、塾教師に転職している。原告として、出廷などに時間をとられるので、高校に奉職しつづけることは無理だったのだ。塾教師の仕事は収入が不安定だった。しかも、彼は子供を教えることに情熱を持てない。英語は好きなのだが、教育が好きなわけではないのだ。理想を言えば、英語と同性愛の双方に関わりのある仕事につけばよいのだが、そうそう都合のよい仕事があるわけもない。  彼は将来の不安と、経済的逼迫にさいなまれながら、裁判の後半部をむかえていた。  永易至文もきわめて絶望的な気分で裁判記録をまとめていた。 「私は、なぜ異性愛の社会が、それほど根本的に同性愛を排除するのか、感覚的によくわからなかったんですよ。つまり、私自身がそれまで、率直な感性のレベルで社会に対応していませんからね。ひらたく言えば、頭でっかちということです。  だから、なぜ私たちがそんなにいやがられるのか、それさえわからなかった。嫌悪の理由を探ることが、結局、解決の唯一の糸口のはずなのにね。そんなふうだから、裁判に参加しているとはいっても、私だけは全然まわっていない歯車だというような気がしましてね。情けない気分でした。最悪でした」  また、永易は大学の七年目を送りながら、翌年に迫った、同性愛者の社会人としての一年目をどのようにしてすごそうかと悩んでいた。もともと堅実で真面目な性質である。アルバイトで食べていければいい、というような気楽さはない。  彼は、いっそのこと郷里の高校にでも奉職しようかと考えることがあった。東京のような都会で自分ができることは何ひとつなさそうにみえた。自信を失っていたのだ。同時に、もし、ここで逃げたら、二度と、同性愛者の仲間には入れないと恐れていた。とはいうもののいつか、理屈だけはたつが、実際の役には立たない男として、その同性愛者の仲間からも排除されるのではないかと恐れていた。まるで八方ふさがりだった。  悩みの本質には、自分が性生活も含めた、等身大の同性愛者として生きることができない事実があった。 「誰かを好きになるということは、私にとってなにより難しいことでした。もちろん、それを心から望んでいたのですけどね。それについて率直に語れない私は、同性愛者の運動もできない人間なのだ、そう思ったのです」  それでもなお、永易は同性愛者排除の論理について、必死に考え続けた。だが、同性愛者は労働力の再生産に寄与しないからだろうか、というきわめて理屈っぽい解釈しかうかばなかった。そして、それは多分まちがいだろうと直観した。 「そんな理屈っぽいことを考えて同性愛者を排除するわけじゃない。もっと感情的なレベルなんでしょう。条件反射。それに近いものじゃないんでしょうか」  裁判が後半に近づいたこの時期、もっとも建設的な気分を保っていたのは、永田雅司だ。  彼はすでに裁判以後のことを考えていた。 「裁判がすべてではないんです。勝訴敗訴は別にして、裁判がおわったあとやることがなければなにも意味はない」  第一、アカーという団体は長い期間、組織を維持することだけを目的としているわけではない。永田は言った。異性愛者が圧倒的多数を占める社会の中で孤立している同性愛者が、一時、息をつき、同性愛者として生きていける自信と励ましを得られる場所であればよいと思う。そのあとは個人それぞれの生活が始まる。いや、始まらなくてはならないが、社会が今のままでは平凡な生活そのものを営むことが不可能なので、裁判をやっているわけだ。 「裁判は大切だけど、ゆくゆくは一人一人が同性愛者であることを肯定して生きていくきっかけであれば十分でしょう。僕だって、一生、裁判をやってるわけじゃありません。やっていたいわけでもありません。早く普通の同性愛者の生活がほしい」  そのためには、まず生活の手段だ。これが永田の頭を悩ませ続ける最大の問題だった。彼自身は、提訴と前後して、勤めていた床屋をやめ、母が経営する店で働いている。だが、床屋では、自分だけを食べさせるにはよいが、他の同性愛者の生活を考えたとき、あまり貢献的とは言えぬ。  自分の口に糊する手段であり、同時に他の同性愛者のためにもなる仕事は、何かないものか。  そう考えた永田は、三度《みたび》、職業を変えた。床屋をやめ、二丁目のポルノショップに勤めたのだ。目的は、同性愛者向けの出版物やビデオの流通を学ぶことだった。 「僕自身はポルノ、好きじゃありません。でも、実際に、同性愛者はこういうポルノショップに集まってくる。今のところ、それはポルノを買う目的でしかないけど、もし、ポルノも置くけど普通の本や、映画情報なんかも置く店にしたら、はたして同性愛者はこなくなってしまうんだろうか。いや、そんなことはないはずだ。そう思ったんです」  つまり、彼は、同性愛者専門の書店兼情報センターが将来、商売として成り立たないかと考えたのだ。ちなみに、このような店は、カストロストリートをはじめとして、欧米の同性愛者が集まる街では珍しくない。経営も成功している。同性愛、異性愛にかかわらず、本屋と呑み屋が人を集めるのは事実なのだ。だが、同性愛者が集まる店としてバーとポルノショップしかない状態の日本では、いわゆる普通の本屋の可能性を考える前段階として、きわめて偏向した形ではあるが、ポルノショップの流通を熟知しないとできない。 「僕はポルノだけを置かなくなっても、同性愛者がこなくなるとは思わない。だって、みんな行くところがなくてポルノショップにくるんだから。ポルノなんて吐き気がすると思っている人も、ほかに行くところがないから二丁目にくるんだから。僕自身だってそうだったんですから」  永田はこう言い、かつて自転車に乗って『薔薇族』の定期購読を頼みにいったさいの真面目ぶりを発揮して、その店でポルノショップの売り子となった。勤勉かつ熱心な仕事ぶりで、オーナー店主の信用をすみやかに獲得した。風俗街の中心にある店に勤めながら、ゲイバーにも行かず、浮いた噂ひとつたたなかった。アカーでの活動を通して知りあった恋人がいたためでもあったが、彼は、端的に言って、俗の街に落ちた一滴の聖《ヽ》という風情だった。  裁判は、このように退屈に遅々として進みながら、それにかかわった同性愛者たちに、いちようにその後の生活について深く考えさせた。  なぜなら、神田が言うように、同性愛者が異性愛者の社会を罵ってすごせる時間など、とるにたらないものだからだ。  また風間が言うように、同性愛者の問題が異性愛者との争いにあるとするなら、それは、まったくプロレスにならないプロレス、闘いがいのない退屈な闘争でしかないからだ。  裁判は、たしかにそれに関わった同性愛者の若者の人生を変えた。だが、それは彼らが予想したようにではない。彼らは闘いがいのない世間と切り結ぼうとし、勢いあまって何度もたたらを踏んだ結果、それは必要な裁判ではあるものの、同時に自分たちの人生の一大目標にするにはふさわしくないとみなしたのである。裁判に勝ったところで、世間はなかば条件反射のように嫌悪をむけつづけるだろう。そのいちいちを追跡していたら、一人の人間の人生などあっというまに尽きる。しかも、世間は結局闘わずして逃げおおせる可能性が高い。  有効な闘いとは、彼らを排除しがちな世間に対して、必要な場合には警戒音を響かせながら、個々の自分たちにふさわしい日常生活を築くことだ。そして、同時に、それを個人の生活でありながら、同性愛者という社会的存在としての意味合いをも持たせることである。  それは、アメリカ式に言えば、ゲイコミュニティの実現ということになるのだろう。だが、わずかな時間とはいえ、カストロストリートのゲイコミュニティを覗き込んだ経験をもつ私には、そう表現することに躊躇がある。  カストロストリートは、まさにアメリカのゲイコミュニティではあったが、それは文化差の大きい日本のそれになりかわるとは思えない。要するに、同性愛者と異性愛者を問わずあらゆる社会集団はその固有の文化の上にしか育ちえないと思うからだ。空中に根を張る草がないように、どの文化にも普遍的に根づく�ゲイコミュニティ�は、おそらくありえない。  適切な表現がなければ、とりあえずそれをゲイコミュニティと呼ぶしかないが、それは日本のゲイコミュニティであって、アメリカのそれと同じにはならないだろう。アメリカとは異質な警戒音を発し、アメリカとは異質な緊張関係と共存関係を、アメリカとは異質な異性愛者の社会との間に結ぶはずだ。  その結果、実はもっとも普遍的な問題が浮上する。さまざまな現代の文化に通底した現代の悩みだ。  家族とは何か。これだ。すなわち、家族はいかに作られ、崩壊し、その後どのような再生の可能性を持つかという問いだ。また家族にとって血縁とは何かという問いでもある。  なぜ、家族の問題が普遍的でありうるのか。  現代社会は、どのような側面を切ってみても、生産と消費の双方において、血縁で結ばれた家族を最小単位として構築されてはいないことが確かだからだ。家族が生産消費双方の機能を主体的にはたすことはまれだ。わずかな例外はあるだろうが、父が耕し母が集めた収穫が子供の口を潤す形態は、はるか昔のものである。生産は、基本的に孤独な個人によってはたされ、その収穫を分配するものは企業だ。分配を得た孤独な生産者は、その消費においてさらに孤独の丈を深める。ここにも例外はあるだろうが、消費社会の進度は、基本的にその社会がどれほど現実から遊離した�一人遊び�の魅力を開発できたかによってはかることができる。消費行為は、すなわち、孤独の魅惑、現実遊離の楽しみと戯れる行為なのだ。  これはあながち悪いことと決めつけられない。時代の趨勢であり、これもまた進化の一側面と言いうるかもしれない。いずれにしても、時間が人間におよぼす変性については、誰もおしとどめることはできないのだ。  だが、現代の家族が自律的な機能を失い、血縁の絆の建前のもとに、孤独な構成員を収納する箱と化しているという問題は、同性愛者が�いないつもり�で作られた社会においては、けっして本気で語られることはない。  生活者としての同性愛者集団という、あらたな存在をかかえこんだあとでなければ、この問題は表面化しないからだ。血縁の絆によって漫然と結ばれた家庭から、主婦が消滅し、家長はそれを維持する意味を手放し、子供はそこへ碇《いかり》をおろすに必要な抑止力を失った結果、家庭がただの箱に変わっても、異性愛者社会は同性愛者という対立者が顕わにならないかぎり、家庭は壊れていない�つもり�をふるまえるのである。  同性愛者の集団は、血縁が人間にとって唯一の結着剤だという建前にまっこうから対立する。とりわけ、彼らが生活者として家族に似た単位を集団で築き始めたとき、家族の問題はあらためて深刻にとらえなおすべき事態として浮上するわずかな可能性をもつだろう。血縁とは無関係な、また子孫の存続とも基本的には無縁な生活者が、集団で顕在化すれば、血縁は壊れていない�つもり�はさすがに押しとおしにくいという気分が生まれることがあるかもしれない。家族の自律的な機能が時代の趨勢とともに壊れ、なお、異性愛者が孤独を厭うならば、それは血縁のほかに拠り所をさぐり、複数の親しい人々がひとつの器の中でよく機能する形を再生する以外に道はないと思われる。だがその覚悟を、世間の多数派である私たちが固める可能性は、同性愛者の顕在ぬきには訪れぬはずだ。異性愛者の一人として私はそう考える。  では、同性愛者はそれについてどう考えていたのか。  たとえば古野直である。  彼はまったく闘争的ではない。彼が裁判のさなかに考えていたことは、実は�家族�についてだった。裁判の正当性について、同性愛者の人権については、古野は裁判が後半部におよんでもぴんとこなかった。  彼はそもそも、そのような類の�正義�に鋭く感応する男ではない。彼がもっともよく感応するのは、他者に対する愛憎に対してである。  具体的に言えば、古野は生まれて初めて性愛両面において好きになった新美広という男と、たとえ生まれ変わっても好意は持つはずがないと確信していたのに、HIV感染以降、なんとはなしに切実な身内意識を持つようになった大石敏寛という男への感情を通して、同性愛者の問題を考えたのである。そして、それは同性愛者にとっての家族という問題に次第に収斂していった。  大石については、古野は複雑な心理の曲折をみせた。もともと相性が悪い上に、大石が新美に対しておよぼす影響力に心は穏やかならなかった。感染の事実を知らされてもなかなか共感できなかったが、一九九二年のある日、彼が死への恐怖を訴えて電話をかけてきた時をさかいとして、古野は大石を無視できなくなった。大石の泣き声での電話は、古野の心の一角をぽっかりと切り崩したのである。  それが、古野直が同性愛者と家族の問題を考え始めた端緒だった。 「僕はそれまで、自分は一生涯、家族とは無縁だと思っていたんですね。つまり、自分が同性愛者だと父母に言った時点で、複数の人々が至近距離でつきあい、生活をともにする関係からは、完全に疎外されたのだと思ったわけです。僕は、他の誰かに家族的な感情を抱くことは一生ない。愛情だけじゃなくて、家族でなければ感じないような反発や、うっとうしさや憎しみって、あるでしょう。そんなものとも、僕は無縁になったのだと、そう信じていましたね」  しかし、大石の電話以来、助けを求める他者の声に感応する自分を発見して、古野は驚いた。  僕は今、たしかに大石によって求められている。ほかの誰かではかわりがきかないのだ。彼は今、彼の心を僕に委ねている。死ぬのが怖い、という誰にも答えようのない訴えを、恋人でもなく、兄弟でもない僕にくりかえし訴えている。  つまり、大石は一人になりたくないのだ。  古野はそう感じ、次の瞬間、卒然と気がついた。  自分もそうじゃないか。僕も孤立したくない。そして、今、僕は孤立していない。なぜなら、大石が僕を求めているからだ。自分の存在が、なにがしか彼の慰めになっているからだ。  つまり、人間は血縁によるつながりだけで生きるというわけではないんだ。古野はこう考えた。同性愛者だということは、束縛はないが、同時に果てない孤独の荒涼を生きることだと思っていた。しかしそれはまちがいみたいだ。なぜなら、僕は大石を一人の家族として感じているからだ。  大石に対してそう認めたあとでは、他の気持ちの通じ合う同性愛者の何人かへ、その認識を広げることはたやすかった。彼らはときにはいとおしい存在だが、一方でうっとうしくもあり、ときには疎ましい存在でさえある。だが、やはり一緒に生きていたい。これは、まさに家族に対する感情に似たものではないか。同性愛者も、家族や共同体を求めるのだ。日常をともに生きる他者を求めるのだ。  これは、はたして自分だけが持つ感想だろうか。古野は自問した。ほかの人たちは、こんなことを考えずに、ただ裁判の行方に没頭しているんだろうか。裁判のさなかに、同性愛者の家族について考えている自分はおかしいのだろうか。新美がいつもからかうように、自分は甘ったれた夢想家の坊っちゃんにすぎないのだろうか。  そして、彼は新美にこう尋ねた。 「あなたは、いったい何が目的でこの裁判をやっているんだろう」  新美は答えた。 「わからない。何もわからないんだ」 「勝ったら嬉しいんだろうか。あなたの目的は裁判に勝つことなんだろうか」  古野は再度尋ね、新美は再び答えた。 「裁判に勝つことなんか期待していないよ。負けたらもちろんおちこむだろうけど、勝ってもその先どうなるだろうって思う。俺はいったい何をしてるんだろう。そう思うよ。  なにか砂漠を歩いているみたいなんだ。砂を踏みしめても踏みしめきれないんだ。一面が砂でおおわれた風景の中でよろめいてるみたいなんだ。その先に何があるのかわからない。砂以外、何もみえないような気分だよ」  この人もそうなんだ。同じなんだ。やっぱりそうなんだ。古野は思い、それが彼の心の角を、いまひとつ切り崩す力になった。古野は新美に言った。 「つまり、共同体ってやつではないの。それがあなたの目的だということではないかな」  新美は当初、判然としない顔をした。 「つまり、あなたは家族みたいなものがほしいんじゃない?」 「そうかな」 「いろんな同性愛者が、それぞれに役割を果たして、でもひとつの関係網の中で生きているという形を求めているんじゃない? 他人どうしで家族のロールプレイをするといえばいいかな。血縁関係はないけど家族みたいなものといえばいいかな。もちろん性的な関係も含んだ共同体だけどね。あなた、ひょっとしてそういうものを求めているんじゃない?」  新美はまだ曖昧な表情ながらうなずいた。 「そうかもしれない」  そして、しばらくのちにまた尋ねた。お前もそう思ってるのか。お前も、その家族のようなものを求めているのか。 「そうだと思う。それから、僕以上に、あなたがそれを求めているんだと思う。  裁判はそういう人間関係を作るきっかけなんだよ、きっと。だから、勝つことが目的にならないんだ。共同体と言ったらいいのか、家族といったらいいのか、僕にはまだよくわからないけどそういうものを作るのが、結局、あなたの目的だと思うよ」  そうか、そうなのかもしれないなあ。  新美はうなずいた。 「こいつも、こいつなりに一生懸命考えたんだな。一生懸命、ただの坊っちゃんから大人になろうとしたんだな」  そんな感想が浮かんだ。新美は、率直に言って、個人的には古野を足手まといだと思わないこともなかった。彼は大変手のかかる恋人なのだ。新美が遅く帰宅すると、古野は憔悴しきった表情で寝ずに待っていた。いったいいつ帰るのか。そう思いわずらって眠れないと訴えた。  新美は、恋人をこわれもののように庇護する習慣も技術も持たなかった。古野が心細そうな顔をしているのをみれば不憫と感じるが、一方で、なぜこれほど依存されなくてはならないのかと気が重かった。  その彼が、新美自身も言葉にできなかった共同体への希求について語ったことに彼は一種の感動を覚えたのだ。要領が悪いとばかり思っていた弟が思いがけず卓見を述べたときの感慨に近いものだっただろう。  だが、それでもなお、新美が感じている�砂漠を歩いているような感じ�は癒されたわけではない。世間は、同性愛者の存在がつきつける家族の問題に、容易に正対しようとはしなかった。  裁判に関しても、私が取材を始めたさいの予想をたがえることなく、その経過を追う報道はまれだった。裁判史上初めてのケースであるにもかかわらず、また、原告、被告ともに味わっていた疲労の|たか《ヽヽ》にもみあわず、同性愛者をめぐっての裁判は、まるでこの世に存在しないようにあつかわれた。  他方、九〇年代に入ると、同性愛者をめぐって、世間は興味深い流行を巻き起こした。タレントや有名人ではない�普通人�の同性愛者が、さまざまな媒体にその姿を露出しはじめたのである。それは、ゲイブームと呼ばれる流行を呈した。  ざっとまとめると、この流行は、異人としての同性愛者、とくに男性同性愛者を知人にすることによって、自分の知的プレステイジが高まるという奇妙な現象だったと思う。底意地の悪い言い方をするなら、異性愛者である自分たちの枠組は変えようとは思わず、また既得権も手放す気がない人々が、枠組外の�普通の�人々に共感することによって、架空の知的冒険を行なおうとした流行だと思う。  そして多くの同性愛者がメディアに登場したが、事態は本質的なところで大きく変わりそうには見えなかった。  そして、アカーがおこした裁判をめぐる人々は、このようなブームを横目に、一方で退屈きわまりない裁判を進行させ、一方で裁判を契機としておぼろげながら形を作り始めた家族のような、また共同体のような�なにものか�への手探りを始めていた。  その手探りは永田にとっては、二丁目のポルノショップで働きながら、将来、同性愛者向けの情報センターを作れないかという望みである。また、神田や永易、そして風間にとってはそれまでなおざりにしていた私生活をいかにしてみたすかという課題である。そして、新美と古野にとっては、裁判の、また裁判後の生活目的をどこに置くかという問題だった。  そして、裁判の進行と、共同体への模索、そしてそのすべてに対する世間の無視の三つの流れに同性愛者が身をひたしていた時期、大石敏寛が、三度《みたび》サンフランシスコへ旅立った。  一九九二年一二月。彼が初めてHIV感染者としてサンフランシスコ空港に降りたってから一年が経過していた。  再び、クリスマスだった。  サンフランシスコではクリスマスに雪は降らない。とはいえ、十分に寒い。とりわけエイズをわずらった人々にとっては。  彼らの一部は、クリスマスに家を失う。すでに職を失っている彼らは、家賃も含め年末の支払い諸般ができず、家から追い出され路上でクリスマスを迎えるのだ。病院のベッドは望むべくもない。医療費の高さにあわせて、ベッド数とそれを必要とする患者数の格差は絶望的でさえある。  また一部の人はクリスマスに愛情も失う。彼らの兄弟や友人は、彼らと一緒にクリスマスを祝いたがらない。エイズ患者と一緒では、とてもキリストの生誕を寿《ことほ》ぐ気分にはなれないのだ。彼らは、けっして届けられないクリスマスパーティーへの招待状を待ち、鳴るはずのない電話の前で、親しい人々がメリー・クリスマスと告げてくれるのを待つ。そして、誰もがクリスマスには自分のことを忘れたがっている事実を前に、ふるえるのだ。サンフランシスコのクリスマスはそういう彼らにとって十二分に寒い。  そして、丸顔の中国系アメリカ人ジョージ・チョイも寒いクリスマスを生きていた。  大石はその彼に会いに、旅立った。そのとき、私も一緒だった。  私たちは、サンフランシスコに着いたその日に、彼のホスピスを訪ねた。 「今日は、彼は調子がいい。調子がいいときに会っておかないと、いつまた会えるかわからない。今日、ぜひとも訪ねてみたほうがよい」  GCHPの事務所を訪ねると、ジョン・シルバが言った。ジョンはジョージが基を作ったGCHPの議長をつとめている。フィリピンの裕福な家庭に生まれ、二〇代からこのかた、同性愛者の権利獲得活動に専従してきた。アメリカでこのような経歴を持つ人々は、私が見知ったかぎりにおいては、共通してきわめてタフな現実主義者だ。ジョンも例外ではなく、四〇代なかばの今は、活動家としての年季は十分すぎるほど入り、資金調達の腕も、ロビイングの手腕も筋金入りだときかされた。小柄で温顔の中年男性だが、いったん激すると、手強い理論家にかわる。  彼は、ほとんど無表情に、とにかくジョージに会ってみることだと言った。ジョージが精神状態を崩壊させたとき、その状況をつぶさに伝えてくれたのは彼である。私はその無表情がわずかに気になった。 「最近はどうなんですか。夏の間、あなたが教えてくれたところによると、かなりひどい状態だったようですが、それから回復したんですか」  ジョンは表情を変えずにこう答えた。 「それはすぐ確かめられるさ。ホスピスに行けばね」 [#改ページ]   第七章 僕はまだ生きている  痛いんだ。そこは。  彼がそう呟いたので、私はあわてて彼の背中においた手をおろした。  傷ですか、傷があるところに触ってしまったの? 「ちがう。いつもどこか痛い。ある日は脚だし、ある日は肩だ。ある日は腕だしね。今日はそこだ。そこが痛いだけ」  ジョージ・チョイは小声で喋った。ため息がゆるく凝固してようやく言葉にまとまったという風情だ。私たちは彼が住んでいるホスピスの一階にある小さな空き部屋にいた。  ありふれた街路に面したその建物の片開きのドアをひらいた日本人は、まず母国にはありえない、天井の高さをみあげることになる。太陽光線は高い天井近くに切られた明かり取りの窓から鋭角的に室内に差し込む。きわめて高い角度から差し込む陽光は、空から降り、人々を照らし、街路に反射し、最後に明かり取りから室内にすべりこむいずれかの段階で、人の肌を温める暖色を失い、さえざえとした明るい光のかたまりとなって玄関ホールをみたす。  そのホールの左手に受付がある。少し先に二階にのぼる螺旋階段がある。階段の前からのびる油引きした木の廊下は、左に大きな応接間の、右に二つの小部屋の、突き当たりにいまひとつの小部屋への扉をひらいている。  受付の女性にジョージにとりついでほしいと言うと、彼女は部屋に内線電話を入れて都合を聞いてくれる。しばらく待っていると、ジョージが螺旋階段の手すりを左手で握り、ゆっくりと階下に降りてくる。  私は、その姿をみあげ、彼がいったん足をとめ息を整えたところで階段を昇った。彼がおぼつかなく握っている手すりから手を離させ、ジョージの脇に体をすべりこませた。脇に腕を差し込んで体を支え、同時に、掌を彼の上半身にあてうなじから腰まで撫で下ろした。  彼は痩せていた。かつてジョージ・チョイと呼ばれた男の骨格に私の指は触れていた。  大石は階段の下にとどまったまま、それを眺めていた。彼はジョージが階段をくだりおえ、話ができるところに行こうと呟いて、すでに外光が入らぬ廊下を歩き、突き当たりの部屋に私たちを案内したときにも無言だった。 「僕は、僕がどこにいるかわかっているよ。  ここにいる人たちは、つまり、待機している人だということはわかっている。いわば、次の旅の準備をしている人ですよ。次々に旅立っていく。この二カ月でもね、三人が旅立った。個人的にもよく知っている人がいたから辛かった。だから、僕は、この家にいる人ともう話さない。知り合ってしまったら、あまりにも辛いからね。誰とも知り合いにならないようにしている。  わかってるよ。ここは末期患者のための家だ。末期患者がいずれむかえる旅を待つ家だ。この家はそういう家だ。みんな、それを待っていますよ。いろんな形でね。隣の応接間でテレビを見たり、人と喋ったり、個室にこもってテレビを見なかったり、人と喋らなかったり、それはいろいろ」  廊下の突き当たりのその部屋は、小さな応接間というより、祭祀を行なうために、司祭が着替えを行なう控え部屋のようだった。閑散、雑然としていながら、妙に、宗教的な空気を感じさせた。  ジョージはその部屋の隅の椅子に座って、背中が痛いと言った。私が階段を降りる彼を介護しながら、ずっと手を当てていた背の部分である。私はすぐさま手を離して謝った。私はジョージの真横に座り、大石は私の背後にいた。  体調はどうですか。少しは……好転しましたか。私はこう聞いた。 「ずいぶんいいよ」  ジョージは言った。 「昔はおかしかった。まったく何がなんだかわからなかった。狂っていたんだ。今でも、そういうふうになることもあるけど、いつもじゃない。昔よりはいい。僕はよく意識を失うし、その間の記憶もないけど、今は、それよりきちんとしているよ」  彼の手をとりたかったが、暗く雑然とした小部屋の小さな椅子に体を預け、ため息のような声で喋っているジョージには俄かに手を触れがたかった。手を触れて彼を痛めるほうがむしろ気づかわれた。  そして、こう尋ねた。 「今、なにをすればあなたの助けになりますか」  彼はすぐには、それに答えなかった。かわりに、そのホスピスの医療体制に対して話し始めた。 「ここは教会が資金を出しているホスピスなんだ。資本は出すが、そこに入る末期患者に対して口出しはしない。もちろん宗教的な押しつけもない。  ホスピスには看護人が週に二回やってくる。医療介助ができるスタッフは二四時間体制で詰めている。具合が悪くなって、僕がまだ自分の足で歩ければここから病院に通院する。だめなら、誰か僕を病院に運んでいってくれるボランティアを、ジョン・シルバなどに探してもらう。  ホスピスに滞在するための金か? それはGCHPが負担してくれている」  その答えをきいて、私はジョンがホスピスにくる前にことづけた封筒を思い出した。ジョージも同時に思い出したようだった。 「ジョンからことづからなかった? お金なんだけど」  私がそれを手渡したとき、ジョージは初めてすばやい動きをみせた。封筒をせわしなくあけると中をのぞきこみ、金を確認するとシャツのポケットにしまいこんだ。 「これだ。これがないと、僕はここにいることができない。この金がないとね」  そう言いおわると、放心したように黙り込んだ。もともと可憐なアーモンド型だった目は、やせ衰えた今、不吉に見開いた楕円にかわり、視線は前方低くおちがちで、表情は固着していた。  ずいぶんたってから彼はこう切り出した。 「そうだね」  私が最前問うたことに答えるつもりのようだった。 「何が助けになるか」  それから言った。 「なにも助けにはならないよ」  なるほど。私と大石はうなずいた。 「ときどき気分がいいときがあるんだ。そのとき、つきあってくれないか。それでいい。  おい、仕事、忙しいかい。日本は忙しくやってるのかい」  最後の質問はまず大石に向けられたが、彼はしばらく無言だった。ジョージは次に私のほうを見た。私は答えた。 「ええ、私も忙しいし、彼らもとても忙しい。裁判はどんどん進んでいるしね。みんな、とても忙しい」  ジョージは初めて微笑した。 「忙しい。それはよかった。それはよかったよ」  忙しいのはいいことだ。それはよかった。みんな忙しいんだね。彼は繰り返した。 「みんなが忙しく仕事をしているのを聞くのが、一番助けになる。それが一番嬉しい」  あなたが忙しいかって聞いているけど。私は大石にむかって言った。彼は、みんなが忙しくしているのを見るのが一番慰めになるそうですが。 「僕は大変忙しいです」  大石は英語で答えた。  そうかい、それはよかった、それは。忙しいのはいいことだ。元気なのはいいことだ。ジョージは繰り返し、次第にその声は小さくなり、最後には本物のため息のように小部屋の空気にまぎれていった。 「僕の部屋をみるかい」  しばらくして彼はゆっくり立ち上がった。  再び廊下を通り、大きな応接間の前まで行くと、彼は室内をのぞきこんで、ここが応接間だと言った。大きなテレビがある。椅子とテーブルもあるので談笑ができる。あそこにあるのは、クリスマスツリーだ。大きい。  私たちは彼の説明にいちいちうなずいた。  大きなテレビと大きなクリスマスツリーがある応接間には、二人の男性が大きなひじ掛け椅子に座りむかいあっていた。彼らは入口で説明を続けるジョージを一瞥したが、軽く会釈しただけで、また椅子に体をもどした。むかいあって座っているものの、彼らが談笑しているようには見えなかった。  螺旋階段をのぼって二階に行くと、彼は共同の台所と洗濯場所を見せた。  これは冷蔵庫だ。とても大きい。これはレンジだ。電子レンジもある。テーブルだ。食事もできる。とても清潔だ。  これが洗濯機だ。とても大きい。乾燥機だ。とても大きい。とても清潔だ。  最初から最後まで調子はかわらなかった。とても大きくて、とても清潔な台所や洗濯場には消毒薬の匂いがただよっていた。大石が息を詰めてその匂いをかがないようにしているのが、気配でわかった。 「もう説明はいいだろうか」  ジョージが唐突に言ったので、もちろん、と私たちは答えた。早く、彼をベッドにもどしたかった。  彼の個室は、まだしも息がつける状態だった。つまり雑然と散らかっていた。初めて会った頃、彼は、僕は部屋の整理整頓が苦手なんだ、中国人だからかなと言ったものだ。中国人であるからかどうかはわからないが、たしかに整理は悪い。エイズは彼の内外をさまざまに変えたが、この性格だけには手をつけなかったようだ。あらゆるものがやりかけ、やりっぱなしで放置されているこぢんまりとした部屋のベッドに彼が落ち着くと、大石と私は散乱している洋服やコップをどけて、しばらくのあいだ腰をおろした。  このホスピス、気にいってますか。そう聞くと、わずかな間があった。 「気にいってるよ」  どういうところが? 「一人になれる」  個室があるということ? 「そうだね。この部屋に入って鍵をしめてしまえば、静かで安全で一人っきりだ」  このあたり、治安はよさそうですね。 「そうなんだ。それがすごく重要なんだ」  突然、ジョージは雄弁になった。 「アメリカは狂ってる。すぐ人を殺す。銃で撃つんだ。危険で狂っている。  街はホームレスがいて、彼らの半数がエイズ患者だ」  彼は顔の前で弱々しく手をふりまわした。いったん雄弁になると言葉はなかなかとまらなかった。 「いったいどうしたんだろう。こんなことになってしまって。政府は医療にお金を出さないし、くだらない軍備のほうにばっかり金をつぎこんで、街がどれほど荒れても知らん顔をしている。そこらじゅうで、人は殺されるし、どうしてこんなことになってしまったんだろう」  彼は私の名前を呼び、サンフランシスコの変貌があたかも自分の責任であるかのように釈明した。昔から、こんな街ってわけじゃなかったんだよ。僕が生まれた街はなかなかいい街だったんだ。 「あなたは、前もそう言ったわね」  箸を上手に操りながら日本料理を食べていたジョージ・チョイを思い出してこう答えた。そのときも、彼はほとんど言い訳がましいほどの口調で、サンフランシスコは、本来はこのような土地ではないと言い続けたのだ。エイズ患者が路上に放置されて死んでいくような恥さらしな街ではないのだと。 「ここにいれば、静かで安全なんだ。誰もこない。誰も入ってこない。一人でいられる。  でも、ここにいても外は安全じゃない。比較的治安はよいけれども完璧じゃない。知ってるか。一週間前だが、僕がここに寝ていたら、外で銃声が聞こえたんだ。ああ、あの音。気が変になりそうだ。誰が銃なんて撃ったんだろう。誰にむけて撃ったんだろう」  ジョージの顔に疲労の色が急速に濃くなるのをみとめながら、私は大石のほうを見た。大石も積極的にジョージと話したい風情ではなかった。  さて、次はいつ会えるかしら。私は切り出した。私たちは一週間サンフランシスコにいます。ジョンの家に泊めてもらうんですが。ですから、いつでもあなたの都合がいいときにお訪ねしようと思うけど、どうですか、都合は。  ジョージは表情を動かさずに言った。 「二四日と二五日は無理だよ。クリスマスイブとクリスマスだから」  私はいぶかしげな表情を浮かべたにちがいない。彼はこうつけ加えた。 「イブだろう、クリスマスだろう。きっと僕は他人に会えないと思うんだ。家族のパーティーだ。みんな集まってね、クリスマスを祝う。僕もそれに出なくちゃいけない。きっと、出なくちゃいけないはずだ。きっと電話があって、その二日間は僕はここにいられない。家族に呼ばれてね。僕はクリスマスは他人には会えないだろうと思う」  そうですね。クリスマスには、あなたは家族の集まりに行く。それ以外の都合がいい日に連絡をとりあって私たちは会うことにしましょう。私は言った。電話をします。あなたも電話をください。近いうちにまた会いましょう。  彼が、エイズと同性愛者という二重の理由によって家族から忌避され、結果、玄関ホールには清涼な光が満ち、室内には消毒薬の匂いが漂う、大きなクリスマスツリーと清潔な洗濯場のあるホスピスの個室にたどりついたことは、そこでは言ってはならない事実のひとつだった。  私たちはまもなくホスピスを辞去した。  昼食の時間をずいぶんすぎていた。食欲は、と私は問い、少しねと大石は答えた。私はカストロストリートのレストランに大石を誘った。ジョージと新美、そして私が初めて会ったレストランである。彼は巨大なオムレツを頼み、私は一番単純で量の少ないサラダを下さいと頼んだ。それでも、皿の上に堆積した細切れの野菜や肉や卵は、うんざりするほど嵩《かさ》高かった。 「ジョージ・チョイは静かで安全だと言っていましたが、あなたは、ああいうところで死にたいですか」  私は山のようなサラダを切り崩しつつ聞いた。  大石はオムレツの小山にフォークをつきたてて答えた。 「いやですね」  なぜ? 私は問うた。 「なぜ、ああいうところで死にたくないですか。なにがいやですか」  大石の表情をみながらこうつけ加えた。 「もし、ジョージのような立場におかれたとすれば、あなたはどうなるだろうか。末期患者としてあのような環境におかれればどうだろうか」 「発狂する」  大石は言った。 「僕はとても耐えられない。あんな施設で、あんな個室に入れられたら一日で狂ってしまう」  同感ですね。私も狂うでしょう。  私はそう言ってうなずき、しばらくのちに再び聞いた。ところで、しつこいようですが、何が一番いやだったんですか。あのホスピスの静かさですか、教会みたいな雰囲気ですか、みんながお互いに知りあいではないふりをしていることですか、消毒薬の匂いですか。 「それはまあ全部といえば全部がいやだけど……」  大石はオムレツをつつく手をとめて考え込んでいた。 「僕、最近になって思うんですが、発症したら、僕は東京で暮す勇気を失うかもしれません。結局、田舎に帰ってですね。実家で、母や兄弟の顔をみながら死にたくなるんじゃないか、そんなふうに思うんですよね。  つまり、一人になることですね、一番いやなのは。  たった一人で安全に死ぬくらいなら、危険でもいい、知ってる人にまみれて死にたい」  ジョージも結局は同じだろう。私は思った。だからこそ、彼はイブとクリスマスには他人には会えないと言うのだ。家族が彼を実家に招いてくれるのを待ち続けるのだ。彼は、おそらく電話が鳴らないことを知っている。家族は、�チョイ家の六番目�は、すでにこの世の中に存在しないふりをしたがっているのだ。だがなお、彼は招待の可能性にすがりつく。電話がけっして鳴らぬと認めてしまえば、この寒い季節を発狂せずに乗り切れないのだ。 「でも、こうも思う。もし、そうやって田舎に逃げ帰ってしまったら、僕はいったい何のためにサンフランシスコでエイズについて勉強したり、ジョージと話したり、あえて世間に僕自身の感染を知らせようと、その方法についてあれこれ悩んだりしていたのかわからない。そうじゃないですか。僕は田舎に帰って死ぬために、今まで生きてきたんじゃないでしょう。そうですよね。  自分は何のために生きてきたのかわからない。そう思いながら死ぬのは、ひょっとしたらすごく辛いことかもしれない」  家族でなくてはだめなんですか。つまり、一人きりでなければ、他人でもいいということはないんですか。私は問うた。 「他人って?」 「たとえば友人、たとえば恋人、たとえばただの知り合い、たとえばアカーのメンバー」  しばらく彼は黙っていた。 「理想を言えばね、きっと一番いいのは、あの中野の事務所。あの事務所に僕の一室をもらうことだなあ。それで、みんな忙しく働いているのを、僕はふとんに寝て見ている。見ることができなくなったら耳で音を聞く。ふすまのある部屋でね。ふすまごしに、みんながいる音がする。みんなが生きて、何かをやっている音を聞いて、初めて寂しいと思わなくなるんじゃないか。  あのね、僕をとくにかわいそうに思ってもらう必要はないんですよ。枕元で泣いてくれる必要もないんですよ。  ただ、僕が死んだあとも、みんなは忙しく生きるんだとわかればいい。同情はいりません。みんなが生きていることを見たり聞いたりしながら、僕は少しずつ死んでいく。ドアでしきられた個室じゃなくて、ふすまを少しあけた和室でね。  それが理想だけど、やっぱり無理でしょう。世話してくれる人だっているはずないし、今の日本だと、病院にすらまともに入院できない状態でしょう。だから、ひょっとして僕は田舎に帰ってしまうんじゃないかと、それが現実的なのではないかと思うわけですよ」  しかし、一方で、それでは何のために生きてきたのかわからないしね。大石は続けた。 「考えがまとまらないのは、僕がまだ自分が死ぬということに現実感がないからじゃないでしょうか。  たしかに、感染を知ったあとでは、死は以前よりうんと手前にきたんです。でも、まだ目の前というわけじゃない。手をのばして触れるほどじゃない。だから、考えがまとまらないのかもしれない」  それからしばらくの間、大石は小山のようなオムレツを、私はサラダの山を攻撃したが、結局それは、大石がかかえこんだ問題と同じように、うんざりするほどの堆積を崩さなかった。大石と私はだいたい同じ頃合いでフォークを投げ出した。  もったいないけど、もうやめましょう。もう店を出ましょう。私は彼にそう言い、私たちはカストロストリートに出た。  一九九二年一二月二二日。穏やかな日だった。  私たちはジョージが生まれた街を数時間散歩した。さほど寒くはなかったが、雲間からさしこむ一二月の陽光がはかないことも、また事実だった。  私たちはジョージについて断続的に喋った。  ジョージは二四日と二五日をどうやってすごすだろうか、私は問い、わからない、と大石が答えた。  しばらくして、私は大石にこう尋ねた。ジョージは今、どのような状態にいるとあなたは思っていますか。  彼はこう答えた。ただの病人。 「ただの病人というのはどういう意味?」 「もう昔の彼ではないということ」 「立派な病人だとは思わなかった? 自分の死についてあれほど明瞭に語れる病人はまれだと思いませんか」 「それは立派だけど、えらいと思うけど、やはり昔のジョージはもういない」 「何が失われたんですか?」 「彼、もう外の世界に興味がないでしょう。自分の状態にしか関心はないでしょう。エイズはもう彼にとって自分だけの問題ですよね。社会の問題でもなければ、同性愛者の問題でもない。アジア人の問題でもない。  僕がこの前、ジョージの家に泊めてもらっていたとき、彼はあんなふうじゃなかった。少なくとも、僕という他人の感染の問題については関心を持っていたわけです。僕がエイズに関して、感染者として何ができるのだろうかと相談すると、まずなによりエイズについてよく知ることだと言って、僕をHIVの学習プログラムに通わせてくれた。  体は弱っていたけど、市長が不用意な発言をすると、怒りながら抗議の手紙を書いた。今はもう彼には感情がないみたいだ。何を言っても無表情。もう感情さえない」  大石は顔を手でおおった。背中がふるえ嗚咽が洩れた。私たちは教会のベンチに座っていた。同性愛者のためのキリスト教会だ。街を歩き回るのにも疲れ、ちょうど誰でも入れるように扉があいていた教会に入りこんだのである。 「悲しいの? 悔しいの? それとも怒っているの?」  嗚咽している大石にそう尋ねた。 「悔しい」 「ジョージが立派な病人ではあるけれども、エイズの予防啓蒙活動家としての闘志を失ったから悔しいわけですか」 「そう、もう闘わないからね、もう違う人だからね、僕が尊敬するジョージじゃないから、僕が信頼したジョージじゃないから、僕もこんなふうに生きられればいいなと思ったジョージじゃないから、僕は悔しい」  嗚咽は長くは続かなかった。彼が柔らかい物腰とはうらはらに、かなり負けず嫌いな男だということは、日本でのわずかなつきあいと、サンフランシスコまでの空路約一〇時間のあいだに察していた。彼は私に面倒をみられることを嫌った。自分でできることはやや背伸びをしてでもやり、むしろ私の分まで代行してやろうとした。  さらに、取材者としての私に対する警戒もまだ解けてはいない。そんな人物の前で泣き出したことを、彼は一種の感情失禁として恥じたにちがいない。一人前の同性愛者の市民活動家としてまた感染者として正論を語ろうと思っていたのに、のっけから不用意にも心中の波乱を見せてしまった。それをまずいと舌打ちしてもいただろう。彼は必死に体勢をたてなおそうとしていた。大丈夫です、平気です、と繰り返しながら平静な表情をとりもどそうとしていた。  私は大石の不本意さと、それほどの波乱をもたらした深い悔しさを同時に感じた。いつもは、けたたましいものの、およそ正面攻撃とは無縁にみえる�おねえ�の大石が、悔しいと言い、悔しさで背中を震わせ、悔しさがきわまった涙を流す光景は、大石の気分を忖度《そんたく》してもなお、印象に残るものだった。 「さて、では、何をこの一週間でやるか、それを考えませんか。あなた、何をやりたいですか。どこにいって誰に会いたいですか。何を聞きたいですか。何を日本にもって帰りたいですか。それを考えましょう」 「僕は、なによりもまずジョージに聞きたかったんですよね。彼にとって、�活動家《アクテイビスト》�であることは、どういうことなのか。何を思って、今まで生きてきたのか。生きていることの目的は何だったのか。それを聞きたかったんです」  私にとって、ジョージ・チョイは�活動家�という生硬な表現になじまない、一人の香港移民の青年だ。同時に大石も、またアカーの主催者である新美も、�活動家�という前時代の埃をかぶったような表現になじまない。だが、エイズについての知見がないに等しい日本で、大石のような負けず嫌いの男が顔をあげて生きていくには、そのような生硬な言葉を用いるよりほかはないのだろうと思った。 「ジョージに、それを質問できる可能性がなくなったわけじゃないでしょう。彼は今日、特別に具合が悪かったのかもしれない。  彼にその質問をしたいだけですか。それだけでいいんですか」 「それだけではない、そう思います。  つまり、僕が日本に帰って何をすればいいのか。僕が感染したことを、どうやって、誰に、どのような目的で伝えればいいのか。  それを最終的に知りたい」  では、それを考えてみましょうよ。私は言った。 「とりあえず、いろんな人を探しましょう。ジョンにも適当な人物を紹介してもらいましょう。クリスマスが近づいているから、のんびりはできないでしょうね。クリスマスにはみんな家に帰ったり、旅行に出たりする。  でも、帰る頃には、とりあえず何をすればいいのかわかっていればいいですね。そうなるように努力してみましょうよ」  私たちがいすわっていた教会は、その頃になると騒然としはじめた。クリスマスの祭礼の準備をするために、まず神父が入ってきた。彼は、そのあとに続いた逞しい体躯の女性のオルガニストとあたりはばからぬ大声で話し、オルガニストは大石と私をちらりと見たものの、壇上に置かれたオルガンのほうに大股でむかった。 「何をすればいいか考えましょう。何ができるのか考えましょう。ジョージにも、なるべく多く会えるようにしましょう。どうですか、そういうことにしませんか」  大石の答えは、突然のオルガンの大音響に消された。  その逞しい女のオルガニストは、筋金入りの音痴で陽気な音楽家だった。狂った音程で、おそらく聖歌だろうと思われる騒音がオルガンから叩き出された。  大石が何か口を動かしているのはわかったが、すでに聞こえなかった。  手まねでここを出ましょうと伝え、レズビアンのオルガニストが奏でる大音響に追い出されるように、また街に出た。すでに夕暮れだった。 「ジョージに会ってどうだった。あなたはどう思った? そして彼はどうでしたか?」  ジョン・シルバはそう問うた。それから三時間後だ。 「大石さんはとても衝撃を受けたと思います。私も同じです。それから大石さんは失望し、落胆したと言いました。私は失望も落胆もしませんでした。ただ悲しかっただけです。知っている人を失う悲しさです。自分がそれについて無力である悲しさです。大石さんは失望し、落胆し、涙をたくさん流しました。ジョージが以前のジョージでなくなったことについてです」  そうですか。ジョンは答えた。 「彼がすでにエイズ全般について語らないことに、大石さんは、失望したんです。彼は、すでに大石さんを導く存在ではなくなったことを嘆いたのです」 「だが、彼を責めることはできないよ」  彼は言った。ジョージに会ったたくさんの人々に、何度も言ったセリフだと思った。言い慣れた口調だった。 「彼は責められない。一生懸命やるだけのことをやった。たとえばGCHPの資金繰りをすべて軌道に乗せた。患者、感染者に対する支援にしても、身を投げ出していろいろなことを行なった。だから、今、彼の治療費をGCHPは全部負担している。  やるだけのことをやって、彼は今、自分の世界に閉じこもったんだ。  それが責められるか。誰がそれを責められるんだ。  彼はやることをやり、彼は去ったんだ。  おおぜいの人が彼に会い、会ったあとには、もう会いたくないと言った。それはしかたがないことだと思う。ジョージは自分の役割を終えたんだ」  では、ひとつだけあなたの意見を聞かせてもらえますか。私はジョンに言った。どうぞと彼は言った。 「ジョージはどんな過程を経て、今のような状態になったのですか。何か、突発的な事態が彼を変えたのですか。ちがうのですか」  ジョンは腰かけている椅子の中で脚を組み替えた。 「なにも突発的なことはおこらなかった。何もおこらなかったんだよ」  何もおこらなかったんですか。 「そう何もおこらなかった。彼はただ弱っていったんだ。ゆっくりと正確に、順調に弱っていったんだ。それだけだ」  順調に弱る? その表現は耳慣れなかった。聞き違いだろうと思ったので、よく聞き取れなかった、もう一度言ってもらえませんかと私は頼んだ。ジョンは再び言った。 「ジョージは、順調に弱っていったと言ったんだ。何も突発的なことはなかった。特異な事故はなかった。少しずつ正確に弱っていったんだ。それは大変順調な進行だったんだ」  ところで、君はなぜ泣いたんだ。ジョンは大石に顔を向けて問うた。そして、彼の答えを待たずに言った。 「彼を理想にするならやめなさい。彼は希望ではない。奇跡でもない。彼は特別な人ではない。彼はGCHPを作りあげた。一生懸命やった。おかげで、僕たちはいろいろな作業ができている。彼のおかげで僕らは十分、元気に働いている。  彼がずっとそのままだったらいいだろうけど、彼はもうおわった。彼は自分の小さな平安と安心の中にとじこもっている。  十分だ。これ以上、彼には何もできない。僕たちは彼にそれ以上を望むことはできない。  あなたにとっての希望はジョージ・チョイにはない。医療の開発と研究の進み具合にしかない。ジョージはその進歩に、不幸にしてまにあわなかったが、あなたはまにあうかもしれない。確証はないが。  結局、そういうことだ」  サンフランシスコに滞在した一週間、私たちはあと一回、ジョージに会った。  あなたは桜が好きだといったね。桜が咲く頃、日本を訪ねるといったね。その計画はどうしたの? 大石は彼に聞いた。  その年の初秋、ハワイ在住の患者で、エイズの予防啓蒙について講演活動を行なっている、ショーン・デュケー氏が日本講演にあたってホテルから宿泊拒否されたことを知ると、ジョージはこう言ったのだ。四月に日本を訪ねて、税関で自分が患者だと申告してみよう。もし、それを受け入れられたら前例ができるし、拒否されたら問題提起ができると勢いこんでいたのである。 「僕は四月には日本にいけない。無理だ」  彼は簡潔にこういった。  大石はすでに私の前で涙をみせることに抵抗しなかった。彼は涙ぐみ、唇を噛んだ。  私たちはさらに一回、ジョージに会った。クリスマスのあとだ。彼へのクリスマスプレゼントを探そうと、二人で百貨店の中を右往左往した。結局、私は東洋的な絵柄の一九九三年のカレンダーつきの日記帳を買った。大石もこまごまとしたものを買った。  来年の日記帳兼カレンダーを見て、ジョージは初めて笑った。これだ、来年のカレンダー、これが欲しかったんだ。その感想を聞いてほっとした。そのようなものを贈るのは、ひょっとして悪趣味かもしれないと思っていたからだ。  だが、そのような日はむしろ例外で、私たちが滞在した期間、ほぼ毎日のように、ジョージは意識不明に陥った。ジョンは毎朝、具合が悪い、医者を呼んでほしいというジョージの電話で目をさまされた。 「クリスマスは最悪の季節だ。僕は、クリスマスだけはこの街ですごさない。  クリスマスは寒い、金はなくなる、孤独になる。そしてクリスマスにはほかの季節より多くのエイズ患者が死ぬ。クリスマスパーティーにも招待されずに、路上で一人で死ぬんだ。  最悪の季節だ。患者にとってもボランティアにとっても。  だから、僕はクリスマスだけはこの街ですごさないよ。なんとしても」  そして実際に、彼は二五日にはニューヨークの女性の友人の家に旅立っていった。それは、あわただしい旅立ちだった。朝九時、いつものように悲鳴まじりの声でジョージが助けを求める電話をかけてきたが、彼を医者に連れていくボランティアがなかなかみつからないのだ。なにしろ、今日はクリスマスなのである。  結局、一時間半後に一人のボランティアがつかまり、ジョンは自宅の鍵を私たちに渡し、あわただしくニューヨークにむかった。  大石と私は、主のいなくなったジョンの家を拠点として、まだ休暇や旅に出る前のGCHPの誰彼に取材を申し込み、あてどなく話を聞いた。  おおむね、エイズの予防啓蒙の具体的方法についてだったが、あるとき、GCHPのメンバーが不審そうな顔でこう問うたとき、わずかに展望がひらきかけた。彼は、こう言ったのだ。 「君、感染していることを世間にどんな形で言おうかって迷っているわけだろう?」  大石がうなずくと、かれは率直に聞いた。 「なぜ、言わなくちゃいけないの、そんなことを」  大石が黙って考えていると、彼は重ねて言った。 「だって君、風邪を引いたからといって、世間に発表する人はいないじゃないか」 「だから……それが風邪じゃないからです。みんなかかる可能性があるという意味では、エイズも風邪も同じことだけど、エイズを風邪と一緒だと考える人は日本にはまずいないしね」 「つまりこういうこと? みんながエイズの実態を知らないから、それを感染者本人の口から語る必要があるというわけ?」 「そうです。ただ、どんなふうに語るのかが問題なんです。その……マジック・ジョンソンみたいな形では、喋った本人だけがめだって、何を伝えたかったのかがわからないままじゃないかと思うし、日本はアメリカと同じ方法では通用しないと思うし、でも、何も話さなければ、同性愛者のエイズの問題なんて誰も考えないだろうしね」  彼は考え込んだ。その顔を見ていて、ふと思いついた。深く考えた上でのことではない。そのとき、それはただの思いつきだった。私は彼にこう質問した。 「大石さんがマジック・ジョンソンでは通用しないといったのは、つまり、エイズとは無条件に、世間一般に対して語るべき話題なのだろうかという提議なのだと思います。つまり、誰に対して語るべきかということが問題なのでしょう。  もし、あなたが彼と同じ立場だったら、あなたは誰に最初に語るべきだと思いますか。語ると言ったのは、告白するという意味ではないのです。僕はエイズだと叫んで泣くことではないのです。自分の感染を通して、ほかの感染者にも共通する伝えるべき情報があると思ったとき、あなたはまず誰にそれを語るでしょうか」  私が質問したGCHPのメンバーは自身が感染して長かった。そもそも、GCHPは感染者、患者によって運営される支援グループなのだ。 「それは知るべき人々にでしょう。世間一般の人全員がエイズについて知りたいと思っているわけではないでしょう。やたらにたくさんの人に話したところで効果があるとは思えない。それについて知りたいと思っている人だけに、適切な知識と情報を伝えていく。そういうことをきっと僕はするだろうな」 「たとえば医者とか、看護婦とかですか」 「そう。実際に患者に接して、彼らの病状に手を触れる人々ですね」  私は彼が言ったことを大石に伝えた。  大石は、そういえばと言い出した。僕は、サンフランシスコにくる直前に、主治医の仲介で集まってもらった看護婦さんのグループに、感染者としてどのような医療サービスが必要かという話をしたんです。 「彼は、看護婦さんのグループに話をしたと言っています。どうでしょう、あなたの感想は」 「それはとてもいいことじゃない? だって、それは必要とされる場所で、必要とされる話をしたということだろう。つまり、切実に知りたいと思っている人以外には話す必要はないし、知りたいと願う人がいれば話しにいく。それはとてもいいことじゃないのか」  私が彼の言い分を通訳すると、大石は何度も小刻みにうなずいた。 「これまで不満に思っていたことって、それなんです。感染について表明するっていうときに、なぜ、誰に対して表明するのかが問題にされないんだろうと思っていたんです。エイズについて知識を得たい人も、得たくない人もひとまとめにして、その前で表明するということを大前提にしているでしょう。なんだか変だと思ってはいたんです」  そのとおりですね。私も同意した。表明するほうが、誰に表明するかを決められないというのは、やっぱりヘンな話だ。まったく沈黙するか、さもなければ、無差別に、あえて言えば無目的に開陳するかという二分法は、どうみても未熟だ。乱暴だし、現実感にも乏しい。 「なにも、無差別に公言する必要はないんだ」  大石と私はコロンブスの卵を初めて見た人間のように、何度もそう言い合い、なぜ、それほど単純なことに今まで気がつかなかったんだろうとお互いの顔をみあわせた。 「うろたえていたんでしょうね。あなたの感染について聞いてからこのかたずっと」  私は言った。率直にそう思っていた。感染を社会に表明したいと彼に聞かされて以来、マスコミを集めて記者会見をするというイメージからまったく逃れられなかった。だが、一方でプライバシーを守りたいのなら沈黙するしかないとも思い、結局、両者を行きつ戻りつするだけで、ただ混乱していた。私自身が、この件について未熟だったのである。別のいいかたをすれば、感染の事実を前にしてうろたえていたのである。知るべき人に知らせ、必要とあれば随時その範囲を広げればよい。それでも十分、社会への表明になるという普通の考え方ができなかったわけだ。 「僕もうろたえていたんですよ、きっと。僕だけじゃなくて、新美も古野も、そのほかの人たちも全員が」  大石は笑った。 「なんだか感染という文字のまわりを、みんなであわてて駆け回っていたみたいだ。大変だ、大変だ、感染だ、感染だって叫んでね」  大石と私は再び顔を見合わせ、なんとはなしに笑った。それは、あながち自嘲の笑いというわけでもなかった。  そして翌日、そのGCHPのスタッフがベルリンの国際会議について知っているかと言ったのだ。彼は、手元にあるかぎりの資料を見せて説明した。 「国際会議の参加については、感染者と患者が優先されるんだ。参加費用も無料になる。ただし、自国の支援団体や研究団体などの推薦状が必要になるが。  君たちの話を聞くと、日本ではほとんど感染者や患者が表面に出ていない状態だろう。ということは、君は推薦状を大変とりやすいわけだ。競合する人がいないわけだものね。  ねえ、君、この会議に参加してみたらどう? 誰に話をすればいいか、そのヒントも得られるかもしれないよ」  大石は、医療関係者と市民団体によって構成される団体に所属している。個人としての参加ではなく、アカーとしての参加で、その担当者として末席を占めているだけだが、ともかく推薦状を出すことができる団体には属しているわけだ。 「ただ、僕は自分が感染者だとは言っていないから、それを言う必要がありますね」  そう言った次の瞬間に、大石は初めて気がついたように言った。 「つまり、そういう言い方もあるわけですね」  そして、彼は帰国すると、国際会議に参加すべく話し合いを始めた。結局、推薦状は、研究者、医学者を対象とするとして、非専門家である大石には適用されなかったが、彼はその団体に所属する関係者の斡旋によって、翌年一九九三年六月に、ベルリンに赴いた。私も同時に、ベルリンへ取材に赴いた。そして、新美もベルリンに赴いた。  しかし、一九九二年のクリスマスの時点では、誰も、その六カ月後にベルリンでおきる事態を予想することはできなかった。  大晦日近く、サンフランシスコを去るとき、私は空港でジョージ・チョイの個室に電話を入れた。留守番電話が応答した。彼の部屋はこの数日、留守番電話がこたえるだけで、誰も本人の声は聞いていなかった。 「私たちは日本に帰ります」  私は吹き込んだ。そして、大石に代わった。 「僕は日本に帰ります。どうもありがとう」  再度、大石から受話器を受け取って私は続けた。 「会えてよかった」  そしてまた大石にかわった。 「どうもありがとう」  それから、数回の呼吸を経て、私たちはかわるがわる言った。 「またね」  大石が三度目のサンフランシスコからもどって数カ月後の一九九三年の春、アカーの七人のメンバーたちは、ある季節を迎えていた。恋愛の季節とも言えるが、むしろ巣作りの季節と言ったほうが適切だ。裁判が結審までの退屈な時間のみを残す時期に至って、彼らはなぜかいっせいに、恋人との所帯を持つことに専念しはじめた。  永易がその典型だった。あまりにも理屈っぽく運動を考えてなかばノイローゼのようになった彼は、ある日、かなり年下のアカーのメンバーに絵画展にいきませんか、と誘われた。  彼はそれに応じ展覧会を二人でみた。考えてみると、彼はこのような息抜きの時間さえ、裁判の記録をとりはじめてからすごしたことがなかった。ただ悩み、恐れて時間を費やしていたのだ。  彼はまさに窒息寸前で水面に顔を出した、泳ぎの下手な犬のようだった。  永易をさそった年下の男は、美術館を出て道を歩きながらなにごとか、大切なことを言いかねている様子だった。それを見たとき、永易のなかにそれまで覚えのない感情が生まれた。いとおしい、不憫だ、彼はそう思ったのだ。それは、どのような同性にも、二人の弟にさえ感じたことはない感情だった。  永易は、悶々と下を向いて歩く彼をいとおしいと思った。彼は、それまで永易の好みだった、いわゆる白皙の秀才ではなかった。対照的とまではいわぬが、かなり違う人柄である。それにもかかわらず、永易は彼にひかれ、いとおしいと思った。  永易は彼の両肩をつかんで言った。 「俺、お前のこと好きだよ」  年若い彼はそう聞いた瞬間、永易の肩に額を押し当てた。額を肩にあてたまま顔をあげないことで自分の気持ちを如実に表した。 「率直に言いますと、ある時期まで、これでセックスに不自由しなくなるという気持ちもありました。惚れられた強みを利用してやろうという身勝手な考えがなかったかと言えば嘘になります。いや、はっきりあったといってもいい」  彼は、その件について話すとき、過剰に露悪的になった。全面的に彼を頼っている若い恋人を、手軽なセックスの相手と考えたことはたしかだと何度も繰り返した。自分には、そういう身勝手なところがある。相手の弱みにつけこむところがある。相手は若いし、ものごとをうがって考えたり、人の言葉の裏をさぐったりすることはできない性格だ。そんなところにつけこもうという気がなかったわけではない。彼は飽かず告白した。  だが、そう言いながら、彼は恋人のことに話が及ぶと顔に血がのぼった。色が白いので、赤面していることが気の毒なほどはっきりした。難解な話をするときにはよどみのない永易が、恋人の名前を言うたびにどもった。彼が告白してやまぬ、�身勝手�なエリートの像とは裏腹に、それは純情という名の光景にほかならなかった。  私は尋ねた。 「では、いつからあなたは�身勝手�ではなくなったんです?」 「やはり、半年近くつきあっていると、なんというのでしょうか。自分の中に、本当にそれまでまったくなかった感情があると認めざるをえなくなったということです。それまで、私は誰も守りたいなどと思ったことがない。しかし、自分の中に、あきらかに奴がかわいくてしかたない、守ってやりたい感情が生まれて……」 「それに屈する以外になかったんですね」 「屈する……そうともいえますし……やはり自分の事実だと認めたんでしょう。それまで、私が自分を同性愛者として規定していた像からは想像がつかない事態だったけど、それは錯誤でもなんでもなくて、やはり、それも自分なのだと」 「あなたの課題は、性を含めて等身大の同性愛者として生きることでしたね」 「ええ、そうです」 「それを手に入れたのだとは思いませんでしたか?」 「ええ」  永易は一息入れて続けた。 「そう思いました」 「どうですか、等身大になった気分は」  さらにもう一息、永易至文は息をついだ。それから、四国の美しい海辺の田舎町に生まれ、四歳にして自分が同性愛者だと自覚していた早熟な彼は言った。 「それも、なかなかよい。いや、とてもよい。そう思いました。少なくとも、裁判や闘争や思想や主義以外に考える事柄がある、いや、事柄ではない、人間がいる。いや、そうじゃない。人生に抽象や思想以外に、いとおしみ、守りたい男がいることは、なんといいますか、とてもましなことだと思いました」  永易は就職がきまったら、その年若い恋人と所帯を持つことを決めた。同性愛者として初めて抱いた、現実的な目標だった。彼は次第に明るくなり、裁判の経緯についても、かえって積極的に追うようになった。その変貌ぶりは、他の人の目にも明らかだった。 「なんだか、あまりにも陳腐な言い方になるけど、男は守るべきものを持って初めてしっかりするというんですか、思わず、そういう言いぐさを連想しましたよ。永易の変わりかたを見ていたら」  新美は微苦笑しながら言う。 「以前は、どこかびくびくして孤独なエリートだった。今は、なんだか堂々と落ち着いた�とっつぁん�ぶりでねえ。あいつの本質って、なんと、あのあたりにあったんだねえ。おかしいったらないよ。俺、見ていて吹き出したくなるよ」  神田はいまだに生活上の苦労に四苦八苦していた。自分が原告となっている裁判への情熱もふるいおこすのに努力を要する状態である。彼はエネルギーを燃やし尽くして、宙づりにされたような気分だった。  だが、最悪の状態のときに、最良のチャンスが訪れることもある。彼は、その時期に、初めて安定した交際相手にめぐりあった。神田のそれまでの�恋愛�については、自身が、かなり無軌道な恋愛をしてきたと自認している大石でさえこう言ったことがある。 「あの人の恋愛って、普通の人にとっての�であいがしら�なんですから。三日でおわってしまっても、それをあの人は恋愛と言うんです。瞬間風速みたいな恋愛なんですから」  その瞬間風速の恋愛が、彼が最悪の精神状態にあったときに変わった。  それはつねになく安定した関係で、ケンカもめったになかった。神田は遅ればせながら、長く穏やかな関係のよさにめざめたのである。 「三カ月です。最長不倒距離ですよ」  神田は私と会うたびに、嬉しそうな表情でこう言った。次の機会にはこう言った。 「四カ月ですよ。また距離がのびちゃったよ」  半年ですよ。こう宣言したときには躁状態に近かった。  これが、かつてトイレの卑猥な落書まで目を皿のようにしてみつめ、つかのまの恋愛とセックスを求めてあがき続けた人物かと目をみはる光景だった。  だが、それは神田に特有の事情ではなかった。ほかならぬ神田自身がそれを知っていた。 「みんな、そんなふうだったんです。僕だけではなく。  結局、裁判のような非日常を支えるには、また同性愛者の活動家などという非日常的人物でいるためには、実はありふれた日常こそ必要なのだと、みんなして一斉に気がついたみたいでした。最初世間と闘うということは、それだけで爽快感があることだった。ルサンチマンを大声で解消できるなら、ほかのことなんか何もいらないと思った。  でも違ったんですね。世間と闘うためには、手に職も必要だし、社会保険もいるし、世話をしなくてはならない日常も大切なんですね」  神田は恋人をよく家に招いては、シチューを、カレーを作って食べさせた。あいかわらず不器用な彼が作るシチューやカレーは、料理雑誌に載っているまま、つまり平均的家族四人前の分量なので、食べても食べても減らなかった。しまいには鍋の底に焦げついた得体のしれない固形状の塊が残り、私はその残飯整理を一度引き受けた。  神田は初めて手にした安定的な恋愛に深く影響されていた。 「影響されたのは僕だけじゃない」  彼は言った。 「みんな、裁判が後半にかかり、それぞれの生活を考える時期にいたって、恋人を作り始めた。つかのまの恋人ではなく、人間関係の核になる安定的な恋人です。いったい、どのような理由から、みんながそれを始めたのか、不思議ですよ。  古野と新美も、ほぼ同じ時期に、恋人どうしなのだと公言するようになった。風間とその連れあいも同じだ。いったい、どうしたんでしょうね。  みんな裁判にかかわる背景で、個々の私生活を求め始めました」  神田が言うように、新美と古野はこの時期に初めて連れあいどうしだと公言した。それまではグループを束ねている立場上、新美がそれを明かすことを嫌ったのだ。  風間も一九九二年のプライドパレード前後に同い年の男性とつきあい始めた。一九九三年春、カップルとして写真におさまった。多様なカップルを撮ることによって、日本を描出しようという試みを持った写真家の作品集においてである。  風間は、同時に、裁判のために、夫婦同室を認める東京都管轄の「青年の家」の例を複数捜しだし、それを裁判の正式な証拠として採用させて、意気軒昂だった。彼は、一時は、自分のあまりにも優等生的な性格に劣等感を抱いていた。また、新美とは違い、カリスマ性にも勘にも恵まれない自分が、今後、アカーを牽引する一人としてやっていけるかどうか自信を失いかけてもいた。しかし、彼もまた連れあいとの生活に支えられていた。 「裁判を通して、自分にいかに限界があるかを思い知ったというんでしょうかね。一時は、僕なんか何をしてもだめだとさえ思いましたけれども、やはり、その辛い時期にも、アパートに帰れば、肩を借りることができる他人がいる。よりそわせることができる心がある。それは、とても大きな自信でしたね」  風間の連れあいは、彼と同室を始めたとき、かなり精神的に不安定だった。実家の親兄弟との関係がこれ以上ないほどささくれていたためだ。同性愛者の彼は、同性愛を最大の恥と感じる家族に罵倒され、侮辱され、深く傷ついて風間のアパートに逃げ込んだのだ。  その後、しばらくの間、彼の精神状態は荒れ果てていたが、いつしかその傷口に薄皮が張り、過敏な痙攣をくりかえす自尊心も落ち着きをとりもどし始めた。ひとつは時間の経過のため、もうひとつは風間とすごす日常のためだ。 「彼が日に日に落ち着いてくるのを見ると、なんていうんですか、僕にもできることがある。そういう気持ちですか。裁判に勝つなんて大仰なことじゃないけど、僕にもなにかができたと。  そして、やらなくてはいけないことで、僕にとって苦手なことがあるなら、コンプレックスに悩んでばかりいてもしかたない。僕はたくさんの人をひきつける力を生来持っていないけど、それなら学べばいい。持っていないものについては学習すればいい。そういうふうに思うようになりましたね」  そして永田は情緒不安定から抜け出そうとしていた。  情緒不安定の原因は、なんといっても、アカーの創立期から経済的にグループを支え続けたストレスだ。裁判闘争の表舞台に立つこともなく、二丁目のポルノショップで働き、実家を手伝い、アカーの事務所家賃を払い続ける、多忙にして味気ない毎日を続けるうちに、彼の全身をストレス性の湿疹がおおった。理由もなく笑ったり、泣いたりするようになり、自分が壊れるのではないかという危機感のために、さらにストレスが深まった。  客観的にはものごとがすべて悪く展開していたわけではない。実際には、永田は目的の一部をはたしつつあった。ポルノショップの経営者が、同性愛をテーマにした小説や写真集の専門書店を、同じ二丁目に出す計画を進めていたのだ。いわゆるゲイブーム以降、その類の書籍は専門書店の棚をまかなえるほどの質量で流れ出したのである。しかも、経営者は永田の勤勉な働きぶりをみて、その専門書店の店長を彼にまかせたいと言い出した。将来、自分自身で情報センターを兼ねる書店を経営したいと考えている永田にとっては、願ってもないチャンスだ。  彼には、また恋人もいた。苦労人の永田と異なり坊っちゃん育ちの、のんびりとした気性の大学生だ。  結局、永田を追いつめていたものは、自分の生活局面のすべてが、グループのために吸い取られていくという、あまりにも特異な状況だった。アカーを経済的に助けることは彼自身が望んだ役割だったものの、それは二四歳の青年の社会生活としては公私の時間のバランスを逸しすぎる暮しぶりだった。  そして、ついに永田も個人的な生活にふりむける時間と余裕を求めたのである。  だが、あまりにも追いつめられていた彼は、自分一人でその決断を下す余裕がなかった。母が助け舟を出したのだ。 「一緒に住んでみたら? そしたら、あまりカリカリしないですむんじゃないの」  かつて、息子が同性愛者だと聞かされたとき、片親だからこうなったのだと嘆いた母は、裁判を通して、誰よりも同性愛について理解の深い人物になっていた。その彼女がこう言ったのだ。 「あれもこれも完璧にやってたら、誰でも余裕がなくなるものよ」  母は言った。 「あんたは、彼は坊っちゃんだ、だらしがないし依存してるって怒るけど、それなら、離れていて怒るより、一緒にいて教えてやったらどうなの。そのほうが、ずっと安定すると思うよ」  そうか。永田はうなずいた。そういう手もあるのか。  九二年の暮れ、彼はレンタカーを借り、荷物と�坊っちゃん�を車に積み、新しいアパートに引越しした。  母親の判断は正しかった。翌年に入ると、永田は目に見えて安定した。 「本当によかったね。やっぱり所帯を持つと心が安定するもんだよね」  よかった、よかったと母は喜んだあと、わずかに心配顔でこうつけ加えた。 「あんたね、あの子は、あんたと育ちが違い過ぎるんだから、きりきりしちゃいけないよ。とりあえず初めのうちは、ゆったりかまえて受け入れてやらなくちゃ、きっと萎縮しちゃうよ。ちょっとしたことで追いつめなさんなよ」  かつて同性愛者に拒否的であったにも関わらず、これほど柔軟になった母を持つことは、同性愛者・永田雅司の誇りだった。  彼もまた恋人との日常のあれこれに、アカーを経済的に支える苦労と同性愛者の将来に対する不安を解きはなった。  神田が次のように言い出したのは、そのような巣作りの季節のさなかだった。 「みんなが、それぞれの私生活を模索しはじめた。しかも、その生活の場が、事務所に近い中野近辺に集まりはじめた。  これがいわゆる共同体の端緒というものなのでしょうか。つまり、共同体が持つ好ましさと疎ましさも、ここから始まるわけなんでしょうか。正直なところ、これからどうなっていくのか僕にはよくわからない。あなた、わかりますか」  神田が言うとおり、一九九三年に入ると、アカーのメンバーの数が増加しはじめただけでなく、事務所のある中野近辺に住む同性愛者が目に見えて増えてきた。アカーの存在が各地方に分散した同性愛者に知られるようになり、孤立を恐れる彼ら、若い同性愛者たちのアイデンティティの拠り所となった結果だろう。  裁判の感触もけして一方的に悪いわけではなかった。  とくに一九九三年初め、アカーは同性愛の青少年への行政のとりくみに関して、サンフランシスコ市の教育委員会委員長、トム・アミアーノを証人として法廷に呼ぶことに成功した。彼は、裁判途中で追加要求した証人であるだけでなく、他国人でもあるので、地裁が彼を証人として認めたこと自体が驚くべきことだった。それは、あきらかに裁判官がこの裁判に興味を抱き始めたせいだと思われた。  アミアーノは公立小学校の教師から職歴を始め、教職者で初めて同性愛者であることを公言し、教育現場における同性愛者の青少年の存在へ社会の意識を喚起するきっかけを作った人物だ。彼はその功績によって、同性愛者として初めて教育委員会の委員に選出され、委員会内で、同性愛の児童と青少年への行政対応のプログラムを作りあげた。委員長への選出は、そのプログラムに対する高い評価によるものだ。  このような経歴の、しかもきわめて雄弁なイタリア系アメリカ人であるアミアーノにとって、男女別室ルールや、その後の行政の対応について、同性愛者の青少年擁護の立場から反論をくりひろげるのは、まさに朝飯前《あさめしまえ》という雰囲気だった。 「同性愛者の青少年にもルールは守らせるべきです。ルールを破ったときには罰するべきです。異性愛者の青少年と同じようにという意味ですが。  しかし、それは同性愛者も異性愛者と同じ場に参加させてからのことです。あらかじめ排除するのは無意味です。参加させ、その場ではセックスをしてはいけないとルールを教え、たとえば、職員を夜間巡回させればよいのではないですか。そして、ルールを犯した人がいれば、それが異性愛者であろうと同性愛者であろうと、その場からつまみだせばよろしい。  それだけのことです。参加がなければ、ルールも適用されない。ルールがないのであれば、要するにそこは社会ではない。ルールが犯されるおそれがあるからといって、同性愛者の参加をあらかじめ排除するという態度は、社会性を持つ公共施設がとるべき対応とは思えません」  これに対し、被告側の反論に見るべきものはなかったと私は思う。原告団も同じ感想だった。 アミアーノのような援軍を得て、同性愛者は、裁判所の内外で集合力を次第に増し始めた。  しかし、人はつねにトラブルとともに集まる。  また、たとえ共同体がそこに芽生えかけていたにせよ、個人の問題がすべて共同体によって解かれるわけではない。  だが、たくさんの人々が集えば、そこには共同体に対する過剰な期待も生まれる。すなわち、自分の人生は同性愛者が集合する場所にたどりつくだけで、自助努力なしに充実するものだという期待などだ。  同性愛者どうしじゃないか、どうして助けてくれないのか。そのような期待をもった人々は言う。  そして、あなたの人生は自分でどうにかする以外ないじゃありませんか、他人に助けてくれというのはおかどちがいですよ、と諭《さと》されると、彼らは憮然とする。また、同性愛者の共同体とは、互助会ではないのです、孤立しがちな同性愛者が、自分以外にも同性愛者が社会的存在として生きていることを公言すれば、異性愛者だけしか認めない社会より有利に社会生活を送ることができる場にすぎないのです、と言われると、まるで迫害されたような顔色で去っていく人もいた。 「いったい、僕ら一人で、何人の同性愛者の面倒を見るべきなのだろう。見なくてはならないのだろう。見る必要があるんだろう。  助け合うことは必要ですよ。なにしろ、僕だって、同性愛者は世の中にたった一人だと思っていましたからね。トイレの落書にだって光明をみいだしかねなかったくらいだからね。  とはいえ、無差別に助け合うことは、かえって害があると、他ならぬこの僕がそう思うんです。助けるとは一方的にかかえこむことではない。適性も能力もない人を、一生涯かくまうことができる共同体などありえないでしょう」  神田は言う。あまりにも深い人間関係におけるトラウマと、それになかば起因するけたたましい自己顕示の奥に、この二七歳の男がいだいているものは、実は常識人としてのバランス感覚であり、穏当な正論なのである。  だが、と神田は続ける。 「いったい、誰が他人の適性や能力などを判定するのだろう。それが、同性愛者であろうと、異性愛者であろうと、その人が共同体の一員として機能するか否か、誰が決められるというんだろう。  多分、そんな基準を個人は持ちえない。しかし、同時に、普通の人は、他人を無差別に誰もかれも受け入れるわけにいかない。一人の同性愛者は、しょせん一人の同性愛者でしかない。超人でもないし、博愛的である必要もない。普通の男であり、女であり、ありふれた人間にすぎないわけだから」  たとえば、と神田は言いかけた。  たとえば? 「たとえば、大石ですよね。あの人を、どうやって支えていくのか。そもそも支えられるのか。彼は感染したという以外に、何をなしとげたいのか。  そうです。たとえば大石です。ええ、そうですよ。大石です」  そして四月がやってきた。桜が咲いた。  ジョージ・チョイが好きだと言った桜だ。そして、ジョージがその月までは寿命がもたないだろうと思っていた四月だ。彼の余命は、大石と私がサンフランシスコを訪ねたとき数週間と宣告されていた。  しかし、彼はまだ生きていた。  彼は、滞在するホスピスをかえた。結局、彼は個室に耐え切れなかったのだ。彼はカストロストリートの裏通りにあるホスピスへ移った。以前のホスピスとは対照的なところである。具体的には雑居性が高く、すなわち、ジョージの性格どおりに整理整頓が悪く、調理される料理は白人向けではなくアジア系の人のための、米を主体にしたものだった。  ジョージにとって、それは大きな安らぎだったにちがいない。彼は病状が進むにつれて、西洋的な食生活を厭うようになっていた。パンとステーキはすでに彼の喉を通らなかった。米飯と、南部中国の伝統的なレシピで調理された惣菜以外は受けつけなくなっていたのだ。新しいホスピスは、彼が望むような東洋の料理を出した。全体的にアジア系の人々にとって快適であるような雰囲気作りがされているホスピスだった。  彼はそこで、西洋的孤絶から解放され、雑然とした施設で米を主体にした食事をとることができた。さらに不満があれば、通りをひとつ渡ればカストロストリートだ。中華料理店にはことかかない、同性愛者の街である。そもそも、サンフランシスコは南部中国系の人々が人口の半数を占める街なのである。  彼は、ホスピスのとなりに門戸をひらいた成人学校の絵画教室に通い始めた。毎週ゆっくり歩いて教室に行き、絵を描いた。ジョージは病いを得るまで、グラフィックデザイナーとして生計をたてていた。彼は自分の人生を思い、他の同性愛者を思い、チャイナタウンを思い、一九九七年には消え去る父母の故郷・香港を思って、何枚かの絵を描いた。ときおり、日々の感慨をこめた手紙を、新美にあてて書き送ってきた。  そして、彼は日本に桜が咲く季節まで生きた。  彼は、医師の宣言を越えて生きていた。孤独ではあるかもしれないが、孤絶と手を切ったことにより、香港からの移民二世、ジョージ・チョイはまだ生きていた。 [#改ページ]   第八章 そしてベルリンにいた  あぐらをかいて床に座りながら、この姿はホームレスと大差ないと思った。一九九三年六月、ベルリンの国際会議場だ。  右隣に同性愛者の国際団体のブースがある。その階でもっとも人気のあるブースのひとつだ。  理由は、ブース内で終日、流されているビデオにある。コンドームを使ってセイフセックスを行なってもなお、情熱的なセックスが可能だということを、実証的にしめしたビデオだ。  会議参加人数二万人近くを数えた人々は、通路を通りながら、男性と男性が、また女性と女性が情熱的にセックスをくりひろげているその画面に目を吸いつけられる。同性愛者の性行為を、ある人は、なかばのけぞりながらみいり、別の人々はビデオの前に二列三列と列を作ってのめりこむように映像を注視している。  それが、私が座り込んでいる右側だとすれば、左側にあるのは、対照的に人気のない統一ヨーロッパの広報機関のブースである。実に閑散としたブースだった。受付の人さえいなかった。  そして、その間にはさまれた狭い空間が、大石と新美、そしてほか三人のアカーのメンバーとたまたまオランダに留学中の同性愛者の一人の若い学者、そして私が落ち合う場所だった。荷物を窃盗から守るために、常時誰かが、その場に座り込んでいた。  大石に関してはたしかに、日本の公的団体からの手配を受けた無料参加だったが、そのほかの人々については、ほとんどつじつまあわせに等しい算段による参加だった。  私自身はふたつの目的でその会議に臨んだ。ひとつは、その前年、アムステルダムから会議の性格がかわったと聞かされたからである。アムステルダム以降、会議は医学者のみによってとりしきられる学術会議ではなくなった。むしろ、感染者、患者の存在を前面に出し、積極的な参加を求めるようになった。民間団体の参加も活発になり、その多くが同性愛者によって構成されているという。その実態を自分の目で見たいと思って、私はそこに参加したのだ。  ふたつめは、大石が、日本人の感染者として、来年の横浜会議にどのような活動を行なえば有効か、ベルリンの会議を取材することによって情報を得たいと語ったからである。また、私は、日本の実行委員会が横浜会議に対して、および、同性愛者の感染者である大石に対して、どのような態度表明を行なうかについても興味があった。  そのときアカーはすでにエイズの予防啓蒙を行なっている民間団体のひとつとして、組織委員会の周辺組織に参加している。  これは予防法反対運動以来の、アカーの活動が公に認められたためである。  このように、同性愛を正面から標榜するグループが厚生省が音頭取りをする国際会議の開催組織の一員となったことは、画期的な事態ではある。ただし参加しているとはいえ、委員会に対する実質的な発言権、決定権の有無という意味においては、無力に等しい状態だ。  実際、彼らにはブースのわりあてはなく、特別な便宜もはかられず、自費による渡欧だった。  そもそも日本の実行委員会のブースそのものがお世辞にも活発とはいえなかった。墨絵と和服姿の女性と神社仏閣を映したポスターがはられているそのブースの趣きは、翌年、アジアで初めて国際会議を招致する国のブースというより、地方都市の観光案内所にふさわしい。  そして、大石を含めた六人の同性愛者は、同性愛者の国際団体の、いわば�好意的な無視�のもとに、ようやくその床面を自分たちの居場所とすることができたのである。  新美と大石は、日本の同性愛者とエイズ患者の置かれた立場について英文で講釈したパンフレットを床に置いた。横浜の会議に関して、日本政府がHIV感染者、患者の入国を一部禁じた法令の存在を批判的に指摘した記述もそのパンフレットにはあった。  そして、彼らの行為、すなわち入管法への疑義を提示したこと、また日本の行政には同性愛者への対応の面で問題があると訴えたことは、ふたつの対照的な反応をひきおこすことになった。  ひとつは日本の組織委員会からの反応だ。彼らはまず、パンフレットの配布に難色をしめした。入管法への態度において、アカーと委員会の間にくいちがいがあったためだ。委員会は、感染者、患者の入国制限は、会議開催にあたって特例的に解除されるので障害にならないとしている。これに対して、アカーのパンフレットは、問題は特例が認められるか否かにあるのではなく、入国制限の存在そのものにあるのだと主張している。このような意見が日本人団体から提出されることは、委員会にとって、ある種の�目ざわり�だっただろう。  もうひとつの反応は、主に海外の感染者、患者によって構成されるNGOからもたらされた。  彼らはこう主張した。アムステルダムではっきりと顕在化し、ベルリンではきわめて大きな勢力となったエイズについての事実とは、市井の同性愛者の問題をぬきにして、エイズを医学、疫学上の問題に封じ込めることは無意味だということだ。エイズは同性愛者自身によって語られなくてはならない。またいかにエイズと共存するかを医学面だけではなく、社会のあらゆる側面から考えていかなくてはならない。そのため同性愛者、なかんずく感染者である同性愛者は、エイズに関して、汎世界的な協力態勢を作らなくてはならない。  はたして、日本はそのような意識を持ちうるのか。たとえば大石敏寛という同性愛者の国民にして、感染者をどのように扱うつもりなのか。排除するのか、それとも受け入れて横浜会議において感染者として重要な役割をふりあてるのか。もし排除すれば、それは日本がエイズに関して汎世界的な協力をみせないという意思表示だ。次回会議開催国として�国際的�な態度をしめしたいのなら、まず大石を受け入れ、日本が彼の役割を評価し支援する態度をしめさなくてはならない。  これに対して日本の委員会は、大石が感染者、患者の代表に立候補するのはかまわないが、委員会がすぐさま彼を代表として認定するわけにはいかない、と消極的だった。  大石とほかのアカーのメンバーは、ブースとブースの間の小さな床面に座って、ふたつの反応が彼らの前をゆきかい、拮抗するのを眺めていた。  そして、国際会議の最終日に近いある日、大石は大会場で、公衆疫学の研究者の発表を聞いている私に近づいてきた。  彼はその日、日本の実行委員会との最後の話し合いをすると言っていた。  大石が近づいたので、私は椅子を勧めた。 「僕は、言います」  何を? 私は問うた。 「僕は感染者で、同性愛者だということを」  いつですか。 「まずは、日本の組織委員会の記者会見の場で」  どうやって? 「日本に、同性愛の感染者の受け入れ先を求めている、いろんな国の人々が、�結果的に�助けてくれるといいます」  そうですか。そのさきは? 「わからない」  なにか、気になることは? 「そうね。とりたてて。ただ、なんだか早過ぎるかなあ。そんなふうにも少し思う。僕にとってはそれほどではないけど、きっと、ベルリンで何がおこっているのか知るよしもない静岡の母や兄弟にとっては、きっとこれは早過ぎることだろうと。それだけ」  日本の組織委員会の記者会見は大紛糾した。エイズは、欧米を中心にした文化では、すでに同性愛者を顕在化する最大の課題となっているが、アジアにおいて、同性愛者は社会に存在しないごとく扱われている。そのような大きな落差のある状況下で、アジアで初めてエイズの国際会議を自ら招聘した日本が、質問の嵐にさらされないですむわけもなかった。  組織委員会は混乱をおそれて、アカーを始めとする日本の民間支援団体のメンバーが記者会見の場で発言をすることを実質上、封じた。だが、記者会見では、あらゆる国と立場を代表する団体が会場から次々と立っては質疑を繰り返し、日本の組織委員会は最初の挨拶と、もう時間ですから退出してくださいという最後のコメントをわずかに言い得るのみだった。  そして、大石は、その混乱のすきまを縫って、会場の三カ所に置かれたマイクの一番左に位置をとった。 「私は大石といいます。アカーという日本の同性愛者の団体に所属しています。私は感染者として、横浜会議に臨もうと思っています」  彼がそこまで言ったところで、司会をしている日本人通訳が別の人に発言を振り向けた。  記者会見は騒然としたまま一五分持ち時間を超過して解散した。  大石はやるだけのことをやった。それで十分だと私は思った。  まさかその次があるとは予想もしていなかった。だが、大石敏寛はもうひとつの舞台を用意されていたのである。 「どうすりゃいいんだと思います? このスピーチのことを帰国してからみんなにどう伝えればいいんだと?」  新美が一人ごとのように言った。 「こんな事態なんか、まったく予想しなかったでしょう。いったい何を、どうすればいいものか皆目見当がつきませんよ」  会議場の食堂だ。 �こんな事態�とは、組織委員会の記者会見で感染者だと名乗りをあげた大石が、この会議の閉会式のスピーチの最終部で、HIVに感染した同性愛者として、翌年他国の研究者や民間支援団体や患者、感染者を、日本へ招聘するための演説をするということだった。  それは、日本に同性愛者で感染者である大石のような人物がいなくては、そして、彼が実行委員会内で発言力を持たなくては、みしらぬ極東の国で国際会議を開く意味がないと感じている、欧米の活動家の意図によるものだった。彼らは日本の組織委員会に大石を最後の演説者とするよう、強く促した。  そしてついに、大石の閉会式での演説が具体化したわけだ。唐突な話ではあったが、それは理想的な条件をそなえていた。国際会議での演説は、大石が同性愛者であること、HIVに感染していること、そしてそれを契機に社会に対してなにかをしたいと願っていることを表明するのに、このうえなくふさわしい。 「何を喋るか頭に入っていますか」  私は、隣で皿をつついている大石に言った。演説までの待ち時間を、食堂で軽食でもとってすごしませんか、とアカーの人々を誘ったのだ。 「ええ」  この格好でいいと思う? 紺のスーツの襟元に同性愛者のシンボルであるピンク色の逆三角形を描いたバッジをとめた大石は、私のほうを向いた。  もう少し、そのバッジを上にあげたらどうですか。そうすれば、あなたがマイクにむかって話すとき、そのバッジがカメラの中に入るから。あなたが同性愛者ということが、みんなにはっきりとわかるでしょう。  彼はバッジをつけなおし、準備のために一足先に食堂を出ていった。  大石を最後の演説者にしようと力をいれた人々とは誰か。  それは、横浜の会議にむけ、アジアにとっては異様にさえ感じられる価値観を、エイズの現実として日本に受け入れさせようという異文化勢力にほかならない。私はこれから閉会式が行なわれる巨大な会議場の隅でカメラの部品を点検しながら、そう考えた。その異文化は敵なのか。味方なのか。異文化勢力によってもたらされた�この事態�は吉と出るのか、凶と出るのか。それは今のところ、見当がつきそうもない。  閉会式のスピーチは次々とすみ、ついに大石の出番が訪れた。  二四歳の大石敏寛は、会議場の壇上でその異文化の風景とむかいあった。客席では、エイズの撲滅のためなら文化差も階層差もものともしない同性愛者による国際組織であるアクトアップが、�日本人同性愛者、感染者を出せ�という横断幕を座席の下に置いていた。日本の実行委員会は会場の壁際にはりつくように傍観していた。なにやら不本意なごりおしをされたという雰囲気に見えなくもなかった。  彼が壇上に立ったとき、私はその真下でカメラをかまえた。  もう少し、壇が低ければよいのに、そう思った。そうすれば、彼がスーツの襟につけたピンクの逆三角形が正面から十分撮影できるだろう。ピンクのバッジは仰角のフレームが切り取った大石の姿の最下端に見え隠れしていた。  レンズごしの大石敏寛は、左右に視線をめぐらせていた。緊張はしている。恐怖もあるだろう。だが怯えてはいない。  左右を見渡す目が中央で止まり、大石はレンズごしにこちらを見た。ふと笑ったように思えたので、レンズから目をはずした。大石は誰にむけるともなく微笑していた。私はカメラに目をもどした。 「私は大石敏寛です。日本の同性愛者の団体に所属しています」  壇の下に集まったカメラマンの間をすりぬけるのはなかなか骨が折れる。何人かの体をとびこし、あわただしくレンズを交換し、大石の表情を追った。 「私は一人の同性愛者として、同時に、一人の日本人HIV感染者としてここでスピーチいたします。  また私は、来年、同性愛の感染者として横浜の国際会議へ参加します。そして、その横浜で、私と同じ立場にいる、世界各国のHIV感染者、エイズ患者とともにエイズについて考えたいと切望しています。  どうぞ、みなさん、横浜においでください。一年後にお目にかかりましょう。そして、手を携えてエイズの克服をめざしましょう」  演説のあとに続く拍手を上の空で聞きながら、フィルムの残り枚数の表示に目をやり、なかば無意識のうちに新しいフィルムの有無をウェストバッグの中に探った。指に触れるのは空箱と電池数本だけだ。私はあらためてバッグの中をのぞきこみ、大石を撮影したフィルムがベルリンに自分が持ち込んだ最後のフィルムだったことに気がついた。  帰国して二カ月後、大石敏寛は、第一〇回国際エイズ会議組織委員会から、患者・感染者小委員会のスポークスパーソンに任命された。  スポークスパーソンは、アカーとしてではなく大石個人への任命である。そのため、彼はアカーを代表して参加していた委員会内の組織、コミュニティー・リエゾン委員会から抜け、あらたに若いアカーのメンバーが二人、リエゾン委員会に参加した。これで、自ら同性愛者であると公言する組織委員会のメンバーは三人に増えたわけだ。  もちろん、組織委員会は、大石の演説を、彼が独断で行なったことであり、委員会の総意ではないと主張することもできただろう。第一、国際会議に対する一般の興味はきわめて薄い。ベルリンにおいても、わずかな例外を除き、日本の新聞、雑誌は取材意欲をほとんど見せなかった。つまり、大石が行なったことを目撃し、記録した日本人はきわめて少ないのである。国内からの注目と監視がないのだから、大石の行為は場合によっては独断とされ、組織委員会内で無視される可能性も高かった。  だが、最終的に、組織委員会は、同性愛者・大石敏寛が、日本の患者、感染者の会議参加を呼びかける窓口になることを決めたのだ。  彼は八月なかば、厚生省において記者会見を行なった。  実名で、自分が感染者であることを表明し、次のような表現で、患者、感染者の会議への参加をつのった。 「日本では患者、感染者の扱われかたはひどいものです。自分自身も生きていく上で社会に引けめを感じています。来年の会議では患者、感染者も(医療関係者や研究者など、従来、エイズの専門家として扱われた人々と同様に、HIV感染の当事者として─注 筆者)エキスパートとして扱われるようにしていきたいと思います」  会議には世界中から多くの患者、感染者が集まり、役に立つ情報もおおいに得られます。日本の患者、感染者もぜひ多数参加してください。彼は呼びかけた。それは、大石自身の感想でもあっただろう。  国際会議は彼に、そのように表明する機会を与えた。  もちろん、それは彼に何ものかを与えるだけではすまなかった。機会を得るかわりに、彼はいくらかのものを失った。  たとえば体重だ。  彼は会議前に一〇キロ体重をおとし、会議とそれに続く二カ月でさらに六キロ痩せた。  厚生省での記者発表という場を与えられたにもかかわらず、全国紙ではほとんど話題にならなかったその会見で、彼の目の下にははっきりとした窪みができていた。  T細胞値は、徐々に発症の目安である二〇〇に近づいている。  だが、体重減以外に兆候はない。  ベルリンと日本との往来が、彼から奪ったものは、ほんの一六キロばかりの体重でしかなかった。そうとも言える。 [#改ページ]   第九章 それからの彼ら  大石とはその後、四回会った。うち二回は偶然である。  一回は、帰宅ラッシュ時の地下鉄銀座線の車内だ。大石は座席に座り、ウォークマンを聞きながら、てもとの雑誌に目を落としていた。  ラッシュの人混みに右へ左へと押しやられながら名前を呼ぶと、彼は目をみはり、ウォークマンを耳からひきはなした。 「どうしたんですか、こんなところで」  仕事から帰るところなんですよ。私は彼にこう答え、ところで、あなたこそどうしたんですと聞いた。 「僕も仕事帰りなんですよ」  彼は、都心にある弁護士事務所の事務員に職を得ていた。週四回の勤務で、休日は、国際会議組織委員会の仕事や、アカーの活動、さもなければ休養に当てている。 「体調はどうです」 「そうね、かわらない。いや、また少しさがったかな」 「どのくらい」 「T細胞が三〇〇台ですか」  委員会ではどうですか。スムースに動けますか、何か問題がありますか。 「そうだね。これは個人的な意見にすぎないけど、何か、対処に遅れているんじゃないかという感じはするんですよね。それは、まあ、いわば、自分自身の状態からくるものかもしれませんけどね」  私たちは、満員の地下鉄の車内でとぎれとぎれに会話をかわしながら、赤坂駅で別れた。  二回目は中野だ。JR中野駅の線路下通路を自転車でゆっくり走っていたとき、不意に名前を呼ばれた。ふりむくと、大石が横断歩道ぎわにたたずみ手を振っている。  私は自転車のサドルに腰かけたまま、彼と話をした。  大石は、そのとき、厚生省記者クラブで、組織委員会の患者、感染者代表として記者発表した直後である。反響を尋ねると、複雑ですね、と彼は答えた。 「全国紙はあまり取材に積極的ではなかったようですね。  そのかわりに、地方新聞にはずいぶん大きく掲載されました。まったく無視されるよりはましなんだけど、地方では、どうも噂とか、偏見とかのレベルでしか受け取られないような気がする。  僕の地元でも、ちょっとした騒ぎだったようですよ。騒ぎがおこること自体は、僕はよいと思っていますけどね。つまり、騒ぎがきっかけになって、エイズをみんなで考えてくれればいい。  でもね、そこが難しいですよ。騒ぎが、ただの騒ぎでおわってしまうことのほうが多い」  自転車に乗った私と、横断歩道の傍らに立つ大石のかたわらを、通行する人々の帯がとぎれず流れていった。 「でも、わかったことがひとつだけありますよ」  何です、それは。 「一回だけじゃだめだってこと。エイズについては、何回も何回も話さなくてはならないということ。  一回だけなら、ただの騒ぎでおわってしまうかもしれないけど、何回も繰り返し話せば、何か変わる、とは言い切れなくても、変わる可能性はあるでしょう。  要するにね、何回も、何回もが必要なんですよ」  風間は、弁護士とともに、男女別室ルールを適用しない青少年向け公共宿泊施設の例を捜し出すことに成功した。これは、「青年の家」が行なっているような男女別室が、全国的な通例ではないという実証として、地裁に提出された。  彼は、この一年来、かつての活発さを一部失いつつあり、今もそれは変わらない。市民運動のような対社会的活動に専従するより、むしろ、内省的な仕事に適しているのではないかと考え込むことも少なくない。多数の人々を引率していくリーダーシップにもなかなか自信が持てない。  だが、彼は他の同性愛者と比べてかなり恵まれた境遇にいると言わざるをえないだろう。彼の両親と弟妹は、一貫して裁判を支援し、傍聴にもよく訪れる。とはいえ、最近、彼はこのように緊密な家族関係にもタブーがないわけではないことを知った。恋人と同居していることを家族に伝えたときのことだ。 「家族は非常にショックを受けました。それをみて、僕自身もショックを受けました。僕が同性愛者だと話したときでさえ、これほどのショックはなかったからです。  きっとそれまで、同性愛の問題は裁判の問題であり、市民運動の問題だったからですね。それは、性の問題ではなかった。  なによりショックだったのは、僕自身が、家族が感じた以上の抵抗感や罪悪感に悩まされたことでした。僕も、自分が性生活を持っていることを、一種、タブーと感じていたことです」  性という問題は難しいですね。風間は呟くように言う。人間が性を持つということは、複雑な問題なのですね。複雑で手強い問題なんですね。本当に。 「多分、両親は僕がいつか改心すると思っていますよ。改心して、まっとうになる日を待っている。そして、その日がくるまで、僕がセックスをすることなど、夢想だにしないでしょうね。両親にとっては、セックスとは、結婚した男女が子供を作るために行なう行為なんですから、結婚もせず子供も作らない僕にセックスなどありえないと思っている」  つまり、僕らは親子だといっても、これほどまでに隔たってしまったんですよ。  古野は両手を広げる。彼の長い両腕は際限のない隔たりを表して雄弁だ。 「でも、それでいいんじゃないかと思う。親だから子供を理解できるわけではなく、理解しなくてはならないわけでもない。  同性愛者であるというのは事実で、誰かの愛情や理解によって許可されるものじゃありません。仲のよい親子であることは望ましいけれども、なにがなんでも必要だということはない。そう思い込んでいる人はたしかに多い。それは結局、強迫的になっているだけだと思う。いたましいことだと思う。  誰から愛されなくても、誰から理解されなくても、僕たちは同性愛者なのです」 「どうしても、いつか、お母《かあ》んに理解してもらう、そう思っとるんよ」  四国の実家で永易は母にこう言った。 「僕はお母んを捨てるわけやない。同性愛者やと、こう言うてるんは、これからもずうっと、お母んとつきおうていきたいからや。  田舎やお母んや、そういうものを投げ捨てて、都会の人間として無責任に生きるのはいややから、きちんと背負うものは背負っていきたいからこう言っとるんやが。  同性愛者やからといって、まともな社会生活を放棄したわけやない。その証拠に、就職先も決めてきたやが」  久しぶりに帰郷するという連絡を、息子から受けたとき、 「なんしたん。好きな人でもできたんか」  と陽気に笑っていた母は、今、息子の前でとめどなく涙を流していた。涙のあいまに、彼女は小声でこう繰り返しつぶやいた。 「至文《ゆきふみ》さん、かわいそうやが。かわいそうやが」  なんが、かわいそうなんか、と息子に問われると、母は答えた。 「あんたは、ずっと優しい心の人やった。  だから、きっと、今も正しいことをしてるのやろうと思うよ。あんたが悪いことをするはずがない。あんたが支援している裁判なら、それは正しい裁判なのやろう。おかあさん、そう思うよ。あんたは、いつも弱いものいじめが嫌いやったもの」  そんなら、かわいそうなことなかろうが。永易が反問したとたんに、母は一段と高い声で一息に言った。 「だから、かわいそうやが。あんたは正しいことをしてる。けど、きっと、世間はわからんもの。同性愛者なんやら、ぜったい、世間は理解せんもの。だから、かわいそうやが。至文さんは、いくら正しゅうても、世間にけっして受け入れられないもの」  誰もが沈黙した。そして、しばらくのち、永易はややゆっくりした口調でこう言った。 「お母ん、それでも、僕はかわいそうやないが」  数日後、再度上京した彼は出版社に勤めた。新しいアパートに引越し、恋人と生活を始めた。  その後、おかあさんはいかがですか、と問うと、だいぶ変わってきたようですと彼は答える。 「時間はかかるでしょう。でも、いつかはね。きっと、いつかは」  そして、ジョージ・チョイにとっての�いつか�がやってきた。  一九九三年九月一〇日だ。  その二週間前から、数通のファックスがサンフランシスコから舞い込むようになっていた。 「まもなくです。この週末、あるいは来週初め。おそらくそのあたりです」  ファックスはそのように伝えてきた。 「肺炎の症状が深刻です。きわめて衰弱してきています」  そうも書いてきた。 「少し前まで、話をすることはできたんです。でも、次第に、話のさいちゅうに、僕が誰かわからなくなり始めた。意識もだんだん遠のくようだった。どうしても、僕の名前が思い出せないんですよ」  新美は言った。サンフランシスコからのファックスは、彼を経由して私に届く。三通目のファックスに、新美はこんなメモをつけてよこした。 「こんな便りばかり送るのは、本当に気がめいります。僕は、自分が�死の使い�になったような気分になってきました」  そのメモに返事を書こうとしている矢先に、新美が電話をかけてきた。 「サンフランシスコから、またファックスがきました。今日だそうです。電話をしてほしいと言っています。もう何も見えないし、聞こえないし、口もきけないけど、誰かがいつも枕元にいて、彼の耳に受話器を当ててくれるそうです。だから、話すだけ話してくれということです」  あなたは電話しましたか。こう聞くと、しましたと新美は答えた。 「息しか聞こえなかったです。荒い息でした。肺炎が急に悪化したんだそうです」  九月一〇日午後三時、国際電話をホスピスの個室にかけると、それは留守番電話に切り替わった。彼の枕元にはもう誰もいないのかといぶかしみながら、ジョージの声を聞いた。  つねのように明るく、やや高い音調で彼は応答メッセージを吹き込んでいた。 「ジョージです。せっかく電話してくれたのに、この場にいなくてすみません。あとで僕のほうからかけるから、留守番電話に、あなたの名前と電話番号とメッセージを吹き込んで下さい。帰り次第、すぐ連絡します。  電話をくれて、どうもありがとう」  メッセージの吹き込みを促す発信音が短く流れた。ジョージ、気分はいかがですかと口を切り、私はこう続けた。 「今日、電話したのは、本の最終稿を脱稿したことを伝えたいと思ったからです。  あなたや、新美さんや、ほかのたくさんの人々に話を聞いた、あの本の原稿がようやく完成しました。日本の同性愛者についての本です。エイズパニック以降を生きる若いアジア人の本です。  あなたに、あらためてお礼を申し上げたい。話を聞かせてくれてありがとう。あなたに、めぐりあえて光栄でした」  最後に、少し躊躇したが、こう結んだ。 「では、ジョージ、さようなら。  ほどなく、またお目にかかりましょう」  四〇分後、サンフランシスコからの電話で訃報を聞いた。  ジョージ・チョイは、現地時間九月一〇日金曜日、午前零時、サンフランシスコのマイトリ・ホスピスで亡くなった。死因はエイズ合併症。三三歳である。  少し太りましたね。  一〇月一一日、ジョージの日本での告別式で大石に出会ったとき、思わず率直な感想を口にした。 「そうなんですよ。三キロ太ってしまった。顔が丸くなっちゃってね、ちょっとみっともない」  大石は顔をなでながら、冗談めかして言った。  彼は、つい最近、アカプルコでひらかれた、第六回世界エイズ患者・感染者国際会議に参加して帰国したばかりである。どうでしたか、と聞くと、一転してまじめな表情になる。 「やはりね。ちがうもんですよ。ものすごく緊張しました。今までのように呑気ではいられないことが、よくわかりましたよ。  つまり、僕はそういう場で、いやおうなしに日本を代表するんですものね。今までのように、ただ自分のことさえ考えていればいいというわけにはいかない。とんでもなく緊張して、あがってしまいました」  蕁麻疹《じんましん》が出るくらいでしたよ。大石は言った。実際に、全身に蕁麻疹が出てしまったんです。彼は麻疹の痒みを思い出したように、喪服の上から体をさすった。 「そんなことがあったわりには、太って帰ったんだから、わからないもんですね」  そう言って、また笑った。  大石は最近、�ロングターム・サヴァイバー�と呼ばれる、発症後も長く命を保つ患者について調べ始めている。中野のアカーの事務所で最後に出会ったときも、結局、その話になった。私たちは事務所の前の路地で長い間、立ち話をした。 「不思議ですね。昔は、生き残ることなど、考えてもみなかった。  ロングターム・サヴァイバーが稀な例だということも知っていますし、その可能性にすがりついているつもりもないんですよ」  しかしね、最近、考えるんですよ。大石はアパートの壁にもたれて言った。 「エイズを得ても、なお生きているとしたら、それはどのような人生なんだろうか。ロングターム・サヴァイバーたちは、どのような思いで生きているのだろうか。  エイズで亡くならない人生とは、いったいどのようなものだろうか。そんなことを考えるんですよ」  それについて知りたいんですね、エイズで亡くならない人生について、亡くならなかった人々について。 「そうです。僕は、それを知りたくなったんです」  そう語る大石の傍らを自転車が一台、通り過ぎていった。自転車に乗った男性が軽く会釈し、それを見て大石は我に返り、彼に声をかけた。 「今日は、もう帰るの?」  自転車に乗っている男性は、アカーの若いメンバーの一人で、近くのアパートに帰るところだ。そのアパートで、彼は年下の男性と所帯を持ち、会社に通勤している。仕事がおわると、彼は自転車でアカーの事務所に通い、自分にわりあてられた仕事をこなし、また、アパートに帰っていく。  彼は、大石の問いかけに、ふりかえらずに首を振って答えた。私たちが立ち話をしている路地の奥まで行き着くと、片足を地面に着けて自転車の後部を小さく回転させ、左に方向転換して姿を消した。  そして、私たちが背をもたれていたアパートの一階の部屋からは、神田が、毎日、朝の五時すぎにあわただしく飛び出していく。彼は、性にあわない塾の講師の仕事から転職するため、友人と共同出資して商売を計画した。早朝に部屋を飛び出していくのは、その商売のため。そして、いつもあわただしいのは、塾の講師もいまだに続け、かつ、同性愛関係の翻訳の仕事までかかえこんでいるためだ。  彼は、いつも、アパートの前の路地を前のめりになって駆け抜けていく。  永田も神田同様忙しい。  永田の勤めているポルノショップのオーナーは、秋以降、二丁目に同性愛関係の書籍を集めた新店舗を出そうと計画した。永田はその店長をまかされることになっている。  ポルノショップにして書店という形は、永田が長年、思い描いてきた同性愛者の情報拠点の理想に近い。彼は、その店をまかされることに期待を持っているが、おそらく、店が儲からなければ、ほんの数カ月でオーナーが店を撤去してしまうだろうとも予想している。  一一月のある晩、その本屋を捜そうと二丁目に出向いた。  いくつかのポルノショップを通り過ぎ、同性のセックスの売り買いの関係を求める人々の小さな塊りを横切りながら、私は、通りすがりの人々の中に、ふと知り合いの顔をみかけた。  こんばんは。  私は言った。  こんばんは。  彼は答えた。  このあたりに、永田さんが店長をやっている本屋があると聞いたんですが、知りませんか。  知りません。すみません。  彼は詫びた。  知らなかったんです。永田さんが本屋をやっているなんて。本当にそうなんですか。  ええ。  私は答えた。  彼が、その店を出したときいたので、一度、訪ねてきてくれと言われたので、今日、捜してみようと思ったのでね。  ごめんなさい、知らないで。  アカーのメンバーである彼は言った。  いいえ、呼びとめて、こちらこそすみません。  そして、彼は二丁目の方向に去った。  アカーと都教委の裁判には、一九九四年三月二八日、判決が下る。 [#改ページ]   エピローグ  一九九四年三月三〇日、午前一〇時。  晴天だった。  判決が出るはずの三月二八日を二日超過して、『府中青年の家事件』訴訟の地裁判決が下ったその日、霞が関の東京地裁に、判決が出ると聞かされていた午前一〇時ちょうどに到着したのだが、すでにそのとき、裁判判決は出ていた。  裁判所の門をくぐり、入口近くの穏やかな日だまりを抜けて建物の中に入ったとたん、私は一群となって外に出ようとしている、数十人のアカーのメンバーと鉢合わせした。  彼らはゆっくり裁判所を出ていこうとしている。なにやらざわめく雰囲気が伝わってくるが、さほど嬉しそうでも、興奮しているわけでもない。当初はそう思った。  その中に古野がいた。彼は私の姿を認めて名前を呼んだ。側に寄るとひとこと言った。 「勝った」  しばらくは意味がわからなかった。  だが、ふとみると、その一群の中には、感激のあまり泣いている人もいる。 「残念でしたねえ。一時間、早まっちゃったですよ、判決が」  彼は笑った。 「感激の一瞬ってやつを見逃しちゃいましたねえ。もうみんな落ち着いちゃった。これでもね」  目を凝らすと、一群の中央に永田がいる。判決から一時間弱がたつというのに、彼の体は細かく震えていた。足元も危うかった。この物事に感じやすい青年は、勝訴の判決を聞いたとき、どれほどの衝撃を受けただろう。いまだに泣いている人、今まで泣いていたことが歴然としている人、そして笑っている人たちの姿が明るい日だまりの中へ溶け出すように出ていくのを見ながら、私はそのあと予定されているという記者会見に参加するために広い階段を登り、三年前の提訴のあと、同じように記者会見を開いた地裁二階の小部屋をめざした。  なぜ、こんなにあっけなく勝ってしまったのか。そんなことを考えていた。  勝ったはよいが、では、そのあとどうするのか。敗訴すれば控訴という手段がある。そのあいだの時間を用い、彼らは彼らをみつめ、同時に私は彼らをみつめ、見返す視線で自分の姿をみきわめることができる。  手軽な勝訴は、大局的に見れば、同性愛者という異物を、�お客さま�扱いして小さな損害賠償請求事件の勝者に祭り上げ、いわば、低い屋根に登った彼らの足元から梯子をさらいとって、問題がなかったということにしてしまう。それでは、裁判には勝ったが、この国の異物排除の�空気�には負けたことになるだろう。  そんなことを考えていると、自然、視線は低く落ち、気がつくと私は自分の靴の先だけをみつめて歩いている。思えば裁判所に一歩足を踏み入れた瞬間、私は不意をつかれたのだ。  階段を登りきり、会見室の前まで俯いて辿り着くのと、前方に人影を認めたのが同時だった。  最初、私はそれを鏡に映った自分の姿かと疑った。酒を呑んでいるわけでもないのに千鳥足で、目は力を失い、顔には当惑としか呼びようのない表情が浮かんでいる。両腕を力なく垂らし、覚束なげに足を運んでいる恰好は、今、まさに破産宣告でも受けた人物のように見受けられる。  数秒間、その姿に目を凝らして、それが自分ではなく、新美広が廊下の向い側から歩いてくる姿だと悟った。  そのうち、新美が私の姿を視野に捉えた。彼は立ち止まり、脱力したまま、私を見ている。私は廊下の中央で新美に向かい合った。  こういう場合、何をすればよいのか、皆目、見当もつかない。  新美は、今、サンフランシスコのGAPAのメンバーに電話で報告をしてきたところだという旨のことを喋った。だが、語調ははっきりせず、言葉はとぎれがちになり先細りに消えていった。 「とりあえず」  私は言った。 「とりあえず」  と新美が答えた。 「おめでとう」  私は右手を差し出した。  新美と握手しようと試みたのは初めてだ。この人は他人との、このような形での接触を嫌う。だが、ほかに振舞いようがなかった。彼は差し出された手を奇妙なオブジェを見るような目で見ていたが、ゆっくり自分の右手を出した。差し出されたのが右手だったのは幸運である。さもなければ、両者の手は宙を彷徨《さまよ》ったはずだ。  短い間、握手しあったあと、 「じゃあ」  と、どちらからともなく言い、 「また、いずれ」  と、同時に手を離した。  一九九四年三月末の麗らかな日。  結局、のちに行なわれた記者会見の場でも、私は何ひとつ質問はせず、質疑応答のみを録音しただけで、地裁をあとにした。判決文の中でもっとも印象的なのは次の部分だ。 �そもそも国民の大部分はこれまで同性愛について深く考えたことがなかったのであって�(原文ママ)、だから都教委が宿泊拒否の理由とする同性愛者についての|国民のコンセンサスが得られていないため《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》という主張には同意できないとした、まさにその点である。  たしかに勝った。それで? 反問のみが頭をよぎっては消え、消えてはあらわれた。  だが、まことに人生は思いもよらない。  東京都は敗訴のあとに、控訴したのである。勝訴したが、あとは何もわからなくなったでは、これまで取材してきた甲斐がない。裁判は結果ではなく、経緯が大事なのだと考えて、これまで取材をしてきたはずなのだが、一九九四年三月三〇日の不意打ちのような勝訴は、少なくとも私にとっては、同性愛者と異性愛者の物語に、乱暴に幕を降ろされたようなものだった。  しかし、控訴なら話は別だ。これでまた、彼らの姿を追うための時間が稼げる。さらに行政側の積極的な敵意がどのようなものなのかという重要な一点も引き出せるかもしれない。地裁のレベルでは、行政側はただ逃げの一手だった。同性愛者差別などしていたのではない、ただ何も知らなかったからだと言い続けた。何も知らないことに対しては、何をやっても罪はないという論理である。この論理を用いれば、極端なことをいえば、相手が生きていることさえ知らなければ大量虐殺も許されるわけだ。  しかし、控訴するとなれば、すでにその論理は無効である。府中青年の家という公共施設から、青少年健全育成の妨げになるという理由で、同じ青少年にあたる同性愛者をなぜ排除するのか。その積極的理由を述べざるをえないだろう。  面白い展開だと、今になってはそう思うが、最初からここまではっきりと控訴が持つ意味を捉えていたわけではない。  だが、二審が長引き、アカーのメンバーのまたそれ以外の人たちへのさらなる取材を通して、私はより多様な同性愛者、異性愛者と出会った。同性愛者だと�カムアウト(世の中に自らの本質を公言する)�立場は積極的に取らないと言う人々にも会った。誰も彼もが、自分の内面を表に曝さなくてもよいではないか、と彼らは語った。そもそも性的指向の曖昧性、多型性が人間の本質なのだから、異性愛にしろ同性愛にしろ、それを固定させることは時代に逆行するのではないかと問う人たちにも会った。そのとおり、と頷いた。私が異性愛者であることは、この本においては�カムアウト�の意味があるが、別の本においては意味がない。 �カムアウト�しないで、エイズの時代を生きる同性愛者としての感慨をそれぞれの仕事などを通して表現しようとしている人々にも会った。さらに、同性愛者を意味もなく嫌悪する異性愛者の人々や、逆に意味もなく好む人々、さらには嫌悪も偏愛も持たずに互いの性的指向と向かい合う同性愛者と異性愛者に出会うことによって、私は裁判が二審に入ったことの意味を次第に理解しはじめた。  ひとつは、これで性的指向というような、きわめて内面的な問題をあえて裁判の場に持ち出す意味が明確になったということである�カムアウト�は裁判に持ち込むというようなレベルにおいては有効である。しかし、それは、すべての同性愛者に自らの性的指向をあらわにせよということではない。  とはいえ、アカーの裁判のようなあからさまな行為がなければ、�カムアウト�|しない《ヽヽヽ》選択も、私たちの前にはあらわれなかっただろう。また、私が異性愛者であることを�カムアウト�できたのも、彼らが私のような事情不通の人間にも到達するような形であらわれたからである。  また、彼らの存在は、八〇年代に生まれ九〇年代においてもまだ続いている市民活動の意味について、これまた事情不通の私が考え込むきっかけにもなった。  市民運動体が市民に、また社会に働きかけるとはどういうことなのか。そもそも名もなき�市民�とは誰のことなのか。運動体の動機のありようと、その目的は、二〇世紀もあと数年を残すのみとなった今、どのようなものなのか。  さらに、運動体が持っている組織としてのまとまりと、その中で、または外で個別に生きている個人は、どのような関係にあるのか。個と組織の理想的な�婚姻形態�があるとするなら、それはどのようなものか。  二審が長引く意味は、このような問題について考え込むことができる�超過�時間を与えてくれたのだと今になっては思う。  一九九六年晩秋、取材者、被取材者ともにこうむった、長くて烈しい風邪は暮れまで長引いた。  二度目の取材はなんとか風邪の小康状態を得た、その年の暮れも押し迫った頃である。新美は大きなマスクをして取材場所の喫茶店に入ってきた。  咳がね、少し前までひどくて。  今日はずいぶんおさまりましたから、大丈夫だと思いますけど。  取材は大丈夫か、と聞き、彼がそう答えたので質問を始めた。  裁判は手段ですか、それとも目的ですか。 「手段。  でも、それは最初、まったく理解されなかった。裁判をおこすと言った途端に、周囲は短期決戦をほとんど例外なく迫りましたね。でも、俺は違うと思ってた。短期決戦型は、つねに破綻していくんだ。それ、周囲のケース見ててよくわかった。勝った、で、どうした。何も残らなかったってことになるんですよね。だいたいの場合。  だから、勝つことは目的じゃないというのはちょっとした信念としてありましたね。とにかく、裁判は長期作戦に限ると。とくにこんな特殊なケースの場合は。でも、これが理解されにくい。弁護士さんを探すときも、その点を理解してくれる人を、というのがあったけど、一〇人いれば九人までが、とにかく勝つことが目的だと言いましたね。  負けたっていいんだ。裁判は手段でしかなくて、その時間を使って、何が作れるか考えればいいという考え方に共感してくれたのが今の弁護士さんたちですけど、それまでに、どれだけ勝訴、勝訴とこだわる人がいたかわからないよ。支援してくれる人にも多かったな。支援してくれるのは、とてもありがたいんだけど、当事者の俺たちより勝つことに熱くなっちゃうのには参った」  もう少し具体的に聞きましょう。裁判によって、アカーの規模は大きくなった? 小さくなった? それとも変わらなかった? 「規模は変わらないです。というより、意識的に変わらないようにしました。裁判をおこしたってんで、いろんな人がやってきました。だけど、規模拡大が目的じゃないですから。第一、規模が大きくなってしまっても、実務をやる人間、俺みたいな人間ってんですか、要するに裏方にまわる人間って増えないですよ。裁判も含めてスポットライト浴びて表舞台に立ちたい、あるいは華やかさにあやかりたい人は、これはたくさんやってきた」  質問を変えましょう。この五年間、あなたを一番カッとさせる人は誰でしたか? 「同性愛者でしょう。俺、今、そういう表舞台に立つ奴らに批判的なこと言いましたけど、他の奴らにアカーは裁判だ、国際会議だって正義の代表みたいないい子ぶりしてる、裁判に本気になる奴なんて馬鹿正直だっていわれるとき、とくに俺の同類ってんですか、同性愛者にからかわれるとき、俺、一番、カッときましたよね。異性愛者に批判されるときより」  同じですね、と呟いた私の声を聞きとがめて彼は問うた。 「どう、同じなんですか」  裁判は野暮だと言われるとき。裁判で世の中は変わらないと言われるとき。とくに異性愛者から。野暮を承知で裁判は進んでいるのだから、そんなことをいわれると暴力的な気分になりました。  ところで、取材の最初の時期、同性愛者の団体は日本にいくつあるのか聞き、それはほとんどないと答えたことを覚えていますか。 「覚えてますね」  今、同性愛者の団体はあきらかに増えています。そのなかでアカーに求められているものは何ですか? 「そこで、やっぱり裁判の問題が出てくるんですよね。裁判をやっている団体は強い、派手だ、頼れる。そう思う人たちはいろんな意味でたくさんいる。  アカーはアカーという一団体なんだけど、その幻想みたいなものを崩すというか、実態をどう動かしていくかというか、それがわりあい大変ですよね。  で、団体の規模を例に引くと、裁判始めたときも、会員数は三〇〇人、今も三〇〇人で増員なし。それは、そのあたり、考えたからですよ。規模拡大が目的じゃない。裁判おこしたから規模が拡大できたわけじゃない。アカーの考え方を受け入れる人もいるだろうし受け入れない人もいて当然だよね。少数派たって、個人は個人だから」  個別差? 「そう、結局、同性愛者っていったって、個別の別々の人間でしかないってこと」  最初からそう思っていた? 「いやあ、やっぱり、最初はヘテロの男は敵だって思ってたね、俺。だけど、これだけ時間がたつと、やっぱり、セクシュアリティだけで人間をまとめようってのは、やっぱ、無理、そりゃ無理ですよ。  いくら、ヘテロは敵、レズビアン&ゲイは味方って思いこもうたって、アカーの中でだって、いやな奴はいやなんだ。気があう奴は気があうし。たとえば、俺、こういう育ち方してるでしょ。やっぱり、そうなると、お金持ちでぽやぽや育ってきただけって奴には、最初、むかついちゃうんですよ。もちろん、あとになって理解しあうというのはあるけど。  でも、同じ臭いっていうのかな、そういうものって結構、大きいですよね。  |均 質《ホモジニアス》にしちゃうってこと、これはどだい無理ですよ。人間、|別 々《ヘテロジニアス》にしかできあがっていないから」  では、個別の同性愛者の集まりであるアカーの運営はどうなっています? 「会員になった人からは、それぞれの経済的な立場を考えて会費をつのります。あと、国際会議なんかをきっかけに行政の委託事業などにも参加するようになりましたから、そういった事業費や助成金と会費がだいたい同程度だな」  具体的には? 「会員を三〇〇人として、会費を定期的に支払ってくれる人は一六〇人から一七〇人ですか。会費も最低が月一〇〇〇円から、一万円以上までまちまちです。そういった収入に対して事業所や運営維持費などの支出が毎月五〇〜六〇万円かかります。  裁判費用は、一審の三年間を通して約一〇〇万円ですね。九六年の三月から顧問弁護士制に変えました。これは、弁護士さんの立場を守るためですね。これでかつかつやっていけるというところです」  そういう会計は公開してますか? 「してます。アカーって、金の出入りはガラス張りなんですよ」  それは、あなたの考え? 「ですね。金の流れだけは明確にしておきたかった。  いわゆる市民運動って金というものを問題にしない。これ、最大の欠点だと思いますよ。金がなくて何ができるかって。人間、志だけじゃ何もできやしない。  とはいっても、何もしないのに、金ばっかり集まるのも意味ないでしょう。金だけ集めて、どうするんだよ。それから、金がなくって、志だけあってどうするんだよ。  金と志と、うまくバランスとれないと意味ないんじゃないですか。  あと、そうだなあ、海外視察にたびたび行くっていうのも、いろいろ言われたなあ、周囲から。  アカーは結局、外国かぶれなんだろうとかさ。でも、それ、逆なんだよね。俺、日本で何ができるのか知りたかった。だから、日本と違うところを見出すために外国に行った。どこが外国と違うのか、俺、知りたかった。で、結論は、ヨーロッパは会員の寄付金にほとんどを委ねる方法、アメリカは企業や行政からの助成金に頼る方法。  どっちもどっちで、弱みもあれば強みもある。実際、助成金一本槍のアメリカのNPO(非営利公益法人)って、経済が傾くと歩調をあわせてがたがたになりますよね。  でも、そういう弱点があっても、ヨーロッパの風土には会員制度があっているし、アメリカの風土や行政のありかたには助成金制度があっているということ。で、日本は、もちろん、そのどちらにもあわない。当たり前の話だけど。だって日本の風土というものがあって、それは所詮、欧米とは全然違うわけだし、日本だけで考えてみても、いろんな人がいて当然だしね。  だから、今のところ、アカーはその折衷案みたいなことをしてますね」  どういう折衷ですか? 「とりあえず、あれとは違う、これとは違うということがわかったから、あれともこれとも違う方法をとっている。具体的には会費半分、助成金半分というのが今の形ですか。  会費たって、未払いの人を追いかけ回してまで取ることはしませんね。出ていきたい人は出ていき、入りたい人は入る。会費制でがちがちに縛っちゃうと、いったん、その団体に入った人はよほどのことがないと出ていけなくなるでしょう。  だから、裁判始めたときも三〇〇人、今も三〇〇人と言ったけれども、同じ三〇〇人じゃないんですよ。どんどん入れ替わっている。それでシステムとしてはいいと思うんですよ。いったん入ったが最後ってことになったら、これ、すでに市民運動体じゃないでしょう。なんか別のもの、宗教団体とかそういうのに近くなるよね。人の入れ替わりは積極的に必要だと思うんですよ」  彼、新美広は一九九七年、今年の四月で三二歳になった。長引いた風邪は年を越えてもまだ彼を悩ませ、すでにそう若くはないのに、アカーの牽引車でなければならないという役割も、三〇歳を越えた彼の背に覆いかぶさっているように見えてならない。  さらに忘れ去られるのは、彼が自分の家族を持っているという事実だ。彼を頼る人は多数いるが、同性愛者という少数派の中にあって、圧倒的強者になった彼が喘ぎつつしのいでいる彼自身の内部の事情に思い致す人は少ない。  彼の両親も親戚も老いた。異性愛者であれ同性愛者であれ、老いた家族をどのようにして抱えるかは解決のつかぬ悩みだ。  床屋から二丁目の書店勤務になった永田はその職を追われた。この事情には、彼の能力が足りなかったわけではなく、彼にこの本へ取材協力してもらったことに責があることを記する。それ以上は述べない。  彼は今、母と一緒に床屋を営んでいる。  風間は塾教師を続けながら、第二審の原告を、永田とともに続けている。 「なんとか生きてます。これからって考えたらどうしようもないよね。裁判始まったときと同じです。とにかく、僕は、今は生きてます」  彼はすでに優等生的ではない。世の中のものごとすべてを�人権�のひとことでくくれないこともおおいに認めつつあるが、ともすれば出てくるのは人権擁護派の側面であることもたしかだ。しかしこの側面を失ってしまえばすでに風間は風間たりえないだろう。また、アカーが新しい事務所を同じ中野に設けた一九九七年初め、�一度、来てみて下さい�と一行、手書きで付け加えて、転居の知らせをくれたのは、やはり優等生・風間孝らしい万端心配りの抜からぬ仕業だった。  神田は原告団を抜けた。さまざまな職業を経験したが、今は地方の学校の教師である。 「あいかわらず元気ですよ。あいつ。大丈夫。大丈夫。元気ですよ。以前のとおり。地方に行く前に送り出しの会をしましたけど、ま、口数が多かったこと、ハイだったこと。勤務地でも、あの調子でやってると思いますよ。あいつ、変わりようがないですからね」  アカーのメンバーの何人かは言う。  永易はしぶとく、就職先の出版社に勤めている。同性愛関係の書籍も出した。がんばっていますね、と言うと、彼はしみじみと言う。 「世間で生きていくということが、ようやく身に沁み始めました。大変なことですね、それは」  連れ合いとの所帯のほうはどうですか。 「おかげさまで」  笑いを含んだ声で言う。 「仕事をする。他人とつきあう。所帯を持つ。平凡だけど大変なことです。はい。難しいことですね。でも、やり続けることが大事なんでしょうね。こういうことは」  彼はあきらかに、取材当初より包容力のある人格をあらわすようになった。もう二年ほど前になるが、私が少し体調を崩し、アカーにかかわりがある人たちが企画したイベントに参加できない旨を伝えたのも永易あてだった。 「大変でしょう。わかりますよ。大事にして下さいよ」  彼の口調はほとんど庇護的だった。  古野は編集プロダクションでのアルバイト仕事をやめ、ドキュメンタリー制作会社に勤め、最近ベテランのディレクターとともに独立した。  家庭には何も期待しないと、当初の取材では強調しながら、この人ほど、周囲の変化が大きかった人はいない。また、周囲の変化に一番影響されたのも古野だ。  数年前、彼の父は亡くなった。 「以前、まったく自分の家族に興味もなかったんですが、父が亡くなったのを契機に、父の郷里から縁者がたくさんこられまして、それが、なんというかあたたかい。父も、こんなあたたかい縁の中で生きてきたのかと実感しました。  父に由縁のある人たちは、とにかくあたたかくて素朴でした。僕は、なんていうんでしょうね。そういう共同体っていうのも悪くはないと思いました」  彼と疎遠だった兄は、父が亡くなったあとに勤めていた会社をやめ、本当に好きだった道を選んだ。接客業である。 「兄、ずっと僕に冷たかったんですよ。きっと僕のこと好きじゃないんだろうって、勝手に思ってた。  でも父が亡くなった途端に兄は、いわゆる�正しい�職業というのをやめた。そしたら、なんだかうちとけるようになった。兄は料理を作ったり、お客さんに接したり、そういうのが本当は好きだったみたいです。僕に冷たかったのも、お前だけが勝手にやりやがって、全部�正しい�ことするツケは俺にまわってきてんだって、そこからきてたんじゃないかなあ」  時折、彼は兄が勤める店に行く。 「もちろんね、両方とも照れますよ。そりゃあ。でも、以前よりずっと互いのこと、話すようになりました」  古野は大きく息をつぐ。 「昔、変わりっこないと思ってた。兄も両親も。でも、そうでもなかった。兄、今、結婚を考えているんです。相手の女性、とてもいい人みたい。  自分で言うの恥ずかしいところがあるけど、家族の再編成ってんですか。できなくはないような気がしてきた。まだ母は難物ですけどね」  古野を伴って独立したベテランのディレクターは男性。私より少し年配の異性愛者である。柔軟かつ、しぶといドキュメンタリストだ。古野は、彼のもとで大石のドキュメントを、また、公立学校をまわりながら、中学生に性的指向の実態を伝える活動をしている人々のドキュメントを撮った。 「大石のときは、撮りにくかったですよ。なんだか、紋切り型の発言しか出てこない。僕が質問すると、なおさら冷たいんだよね。公式見解ってんでしょうかね。でもそこに大石を追い込んだのは僕らなんでしょう。だから仕方がないっていえば仕方ないけど。  いや、もちろん、これは僕のぐち。僕が一人前の腕前を持てばいいだけですけどね」  異性愛者が経営する出版社に勤める永易と同じように、彼は、異性愛者の信頼できるディレクターとともに、ともあれ、この数年間は仕事をしてみようと心に決めている。  大石は、患者・感染者が中心の自助グループ(せかんどかみんぐあうと)を主宰し、全国の専門家などに対して講演活動を展開している。古野が言う、�公式見解�的態度が前面に出たのは、はためからみても多少わかる。  しかしそれは仕方ないだろう。彼は、国際会議のような場で、�セカンド・カミング・アウト(同性愛者にしてHIV感染者であることを公表する)�する役割を引き受ける代償として個人的発言についてはかせをはめられざるを得ないのだ。  彼は少し前からアジアの感染者と連携がとれないだろうかと考えている。家庭の問題は、ともかく大家族だということもあって、ばらばらだ。彼の公的発言が、講演などを重ねるに従って、次第に紋切り型になっているのは事実かもしれないが、彼独特のアイロニカルな毒舌はいまだ衰えない。これがなくならないかぎり、大石敏寛という人物の本質はかわらないと楽観している。  新美との最後の取材は互いの身体をいためるような寒風ふきすさぶ街路に出ても続いた。わざわざそんなことをしたいわけもない。だが、私は会話を終わらせることができず、彼も不調をおして街まで出てきた。  同性愛者の成熟って何なんでしょう。  私は問い、寒気が肌を刺すのを感じて、ダウンコートのジッパーを首までひきあげた。  私が知っていることはただひとつです。私は続けた。同性愛者の成熟なしに、私たち、異性愛者の成熟もありえない。これは、どちらかが優位に立てば解決する問題だと思えないのですよ。  新美も両腕で身体をかかえ、寒風から身を守りながら言った。 「それが……一番、難しいよね。どうやったら成熟するのか。この時代に」  そう。絶対貧困というものがないこの時代に、私たちはどうやって成熟するのでしょうね。 「難しいよね」  難しいですね。  私たちは地下鉄の入口で喋っていた。地下鉄の昇り口からは、なま温かい空気がときおり竜巻のようにのぼってくる。それが、外のとげとげしい寒気をさらにきわだたせる。  成熟、などという言葉の前に互いに立ち尽くしていると、最終電車だったのだろう。地下鉄の入口から大量の乗客が溢れ出し、そのうちの一人が新美の後ろに立った。  しばらくしてから、その人が、一審の原告と入れ替わりに、二審の原告になった人だと気づいた。  ああ、俺もあとで事務所にいくからと、新美は言い、その人は笑いを残した表情で駅裏の路地に姿を消した。  その人の後ろ姿を見やってしばらくしたとき、取材は終わりだと思った。新美広は私も含む誰彼と同じように、成熟の困難の中にいる。対話は終わるはずがないが、答が今すぐ出るはずもない。  今は、これまでだ。  一九九六年九月一六日。  東京は小雨まじりの寒い一日だった。台風一九号が西日本に上陸していた。  この日の遅い午前、東京高等裁判所は『府中青年の家事件』について、地裁判決に引き続き、被告・東京都の過失を積極的に認め、原告・アカーに勝訴を言い渡した。  その報告集会の最後、原告団の一人として、またアカー代表として永田雅司は謝辞を述べた。性格そのままに遺漏ない謝辞を述べたあと、永田は深く頭を下げた。拍手が終わっても頭は上がらなかった。もう一度、拍手の波が起こった。永田は頭を下げつづけた。拍手の音色《ねいろ》に、もうお辞儀はいいから頭を上げてほしいという懇願が感じられるようになってもなお、彼の頭が動かなかったとき、この二九歳の青年の姿は提訴以来の時間を体現していた。  要するにこういうことだ。一九九〇年、小さな事件が東京の縁辺で起こった。一九九一年二月、彼らは提訴した。あれやこれやがあり、六年七カ月が過ぎた。これからも時間は流れていく。九月一六日の勝訴の事実も、いずれ時間の果てない澱《よど》みに溶かし込まれていくだろう。では、今、このとき人間は何をすればよいのか。永田雅司の微動だにしない姿はそのひとつの回答だった。過ぎ去った事柄と出会った人々の記憶をつぶさに思い起こし、予測のつかない将来を気負うことなく受け入れ、過去と未来の連続性については疑いなく信じ、信じつつ疑う、懐疑と楽観のバランスを辛抱強く保ちながら生き延びるのである。  いつまでも上半身を深く折り、頭を下げつづける永田の姿は、痛みを伴う過去への追悼と、将来の受容をともにあらわす姿勢そのものだった。  そして、長すぎるほどの時間を置いて彼が頭を上げたとき、九一年二月一三日の提訴のさいテレビに初めて素顔を曝した彼の表情には、六年七カ月分の時間の陰がひとはけ掃かれていた。それは疲れともいえ、したたかさともいえた。あえて表するなら、暗い池の底で一瞬光を放つ鯉の鱗のひらめきのようだった。  現在、この本の中で実名で発言してくれた七人の男性同性愛者はそれぞれに仕事を選び、アカーは一九九七年初頭、事務所を移転したものの、同じ中野に事務所を持っている。  彼らの将来がどうなるか。それはわからない。アカーについても同じだ。  しかしまごうことのない事実がひとつある。  彼らは社会の中であなたの隣人であり、あなたは彼らの隣人である。互いによき隣人でも悪しき隣人でもないことが多い。  しかし、私たちは隣り合わせて住まい、否応なく隣り合わせなければ生きていけない。隣人の名前を知り、自分の名前を知られ、互いの関係を知ることはうっとうしい。ましてや、部屋の壁がやたらに薄く互いの声が筒抜けだったり、家の軒が敷地の境を越えて重なったりしようものなら堪ったものではない。だが、人生は�堪ったものではない�事実の集積なのだ。堪ろうが、堪るまいが、人間は一人きりでは生きていけないのである。  これは事実だ。  これが事実だ。  アカーでは、全国の同性愛者に対して、一九八七年より、男女別に左のような電話相談を行なっている。相談に応じるのはアカーの男女の会員である。   TEL(03)3380─2269   男性=毎週火、水、木曜の19〜22時   女性=毎月第1、第3日曜の13〜16時 本書は単行本『同性愛者たち』(一九九四年一月 文藝春秋刊)を改題し、大幅に加筆して文庫化したものです 〈底 本〉文春文庫 平成九年十二月十日刊